第2話
月に一度の庭遊びと、それ以外は離れに籠って勉強や読書。
そんな風に過ごしながら二年ほどが経ち、マリアベルが洗礼を受ける七歳の誕生日になったがアベルは教会に連れて行こうとはせず、まるで罪滅ぼしのように食べきれないほどの御馳走を寄越しただけだった。
この国では洗礼を受けるには親か、手順を踏み届け出た身元保証人が同席する必要がある。
その為、使用人にすぎないライラには立ち合う事はできず、アベルが実父として立ち会うかマリアベルを正式に養子へ出す以外洗礼を受ける方法はない。
そしてそれと同時にマリアベルは洗礼をしなかった故に、リャンバス国に生きる者として必須の国民登録もできないままだった。
リャンバス国では生まれてすぐの出生届はあくまでも仮であり洗礼を終え国民登録をされて初めて正式な国の民と認められる。
この登録は貴族平民、孤児院の子供まで身分問わず必須とされ身分で制限される店や区画に入るには登録内容を元に照会される事になる。
魔力を持つ貴族は属性の判定や魔力値の計測も行われ、様々な適性も占われるため教育の方針を決める極めて大事な儀式だった。
年齢に法的な制限はなくともリャンバスでは7歳の誕生日に洗礼式を受けるのが常識となっており、それを逃したものへの風当たりは非常に強い。
平民でもあまりいい顔はされず、まして伝統を重要視する貴族にとっては致命的な汚点ともいえるだろう。
マリアベルは叫ぶように泣き続けるライラの言葉の断片を拾い、それを理解した上でその日一日をライラの背を撫で慰め過ごした。
せめて知識だけでもとライラが持ち込んだ貴族向けの教本を読んではいたがマリアベルは既に自分が貴族として公になる事はないと心のどこかで気付いていた。
既に死んだ娘が社交界に出れば貴族が重んじる面目が潰れてしまうだろう。
偽りを届け出ていたと明らかにしても同じ事…マリアベルという娘はどう転んでも貴族にはなれない。
ご馳走が目の前で冷めていくのを見ながらマリアベルはライラの背をひたすら撫で、気にしていないと囁き続けた。
その一年後にやってきたエリザベスの洗礼の日。
愛らしいピンク色のドレスを着て誇らしげな顔をしながら父母と共に馬車に乗るエリザベスをマリアベルは離れの窓から見送る。
ライラは悔しい、何故、と一年前と同じく体調を崩す程に嘆いたが当のマリアベルは去年と同じく諦めたとでも言うべきか、悲しみや寂しさと言った感情から遠ざかっており去年食べ損ねたご馳走がまた来るよう願いながら微笑みを貼りつけライラを宥める余裕すらあった。
その日の夕食は願いを上回り去年以上に豪華な食事が用意されたが、一口含む度に哀れだ可哀想だと嘆き続けるライラを前にしたせいか…ひどく味気ないもののように感じ、マリアベルはやはり早々にカトラリーを置いてしまった。
エリザベスの洗礼から更に二年が経ち、マリアベルは今日十歳の誕生日を迎えた。
ぬいぐるみや絵本など誕生日のプレゼントは必要ないがその代わりに、と前々から言い募っていた甲斐もありマリアベルは十歳を越えて初めて敷地の外に出る事を許された。
「日が落ちる前には戻りなさい、今日は御馳走を用意しておくからね」
「はい、侯爵様」
「……あぁ。ライラ、くれぐれも頼んだよ」
「お任せください旦那様」
掃除に洗濯にと使用人達が屋敷の中で慌ただしく働く時間帯、マリアベルとライラは使用人用の裏門からなるべくひっそりと外へ出た。
この十年間他の使用人に見つからないようにと言い含められていた事もあり忍び足や誰かの気配を避ける能力だけは成長したように思う。
裏門から少し歩いた所の、侯爵邸から一番近い停留所で乗合馬車を待っているとやがて沢山の人々を乗せた馬車がやってきた。
馬というのは間近で見るとこんなにも大きいものなのか、遠目からではわからない情報に驚いていたのが怯えたように見えたのか、ライラは私を抱き上げさっさと乗り込んでしまう。
「申し訳ありません、このような移動しかできず」
「大丈夫よライラ。色々な人がいて楽しいわ」
「ですが、本来ならお屋敷の馬車を使うべきなのに…!」
「わかっているから大丈夫よ。だから、ね?」
マリアベルの外出に侯爵家の馬車は出せない。乗合馬車を使ってくれ。
歯を食いしばり苦悶に満ちた表情で絞り出すようにそう告げた父に、マリアベルはわかりましたと頷いた。
あの馬車に乗れたら、と思う時期もあるにはあったが、それももう遠い昔の事。
外出ができるのなら別に手段は何でも構わない。徒歩でないだけマシ…そう思う程度には、マリアベルも擦れていた。
「貴族街への立ち入りだって、できて当然だと言うのにどうして…」
「大丈夫よ、ライラ。
外に出るだけで私にとって楽しいものなのだから…あら?あのお店は何かしら」
馬車の中、衆目を集めながら涙を浮かべ謝罪を繰り返すライラを前にマリアベルは居た堪れない気持ちになり、誤魔化すように馬車の窓から見えた露店を指さす。
「……あれは…最近北の国から入ってきたお菓子のお店ですね。
あちらは酪農が盛んなのでバターを豊富に使ったお菓子だと聞いたことがあります…申し訳ありません、流行をお伝えする事も出来ないなど使用人失格です…!侯爵家のお嬢様が流行を知らないなど、あってはならないことなのに…!」
「大丈夫よ、ライラ。貴方はとてもよくしてくれるもの、そんな風には思わないわ。
……ね、食べてみたいのだけれど、後で買ってみていいかしら?」
馬車を降り、露店が並ぶ通りに足を踏み入れると様々な香りが小さな鼻腔を擽った。
まだ昼時には早いせいか屋台の多くは食事ではなく菓子類を扱っていて、砂糖の焦げる香りや果物が煮える香り、嗅いだことのないスパイスの香り…そのどれもがマリアベルにとっては初めてで、心が浮足立つのを止められない。
「ねぇ、あれは何?林檎よね?なんだかキラキラしてるけど」
「リンゴに溶かした砂糖がかかっているものです。
昔からあるおやつですね…平民が食べるものなので、お口には合わないかと」
「あ…そう、なのね」
「先程の露店は、あそこです。
私が買ってまいりますのでお嬢様は座ってお待ちください」
「あぁ待って。私、自分で買ってみたいの…折角だもの、挑戦させてちょうだい?」
「いいえ、侯爵家のお嬢様にそのような事はさせられません。
どうかこちらでお待ちくださいませ」
「……えぇ、じゃあお願いするわ」
好奇心を折られ意気消沈したマリアは促されるままベンチに座り、ゆっくり周囲を見渡した。
老若男女様々な人々が行き交うがその殆どがマリアベル似た黒や茶などの濃い髪色で、誕生祝いにと着せられた新しいワンピースが少し華美に感じるもののひどく浮いているという事はない。
「…エリザベスだったら、きっととても浮いてしまうわね」
離れから眺める侯爵邸の使用人達も皆そんな濃い髪色をしていて、比較して金髪の両親やエリザベスは特別な存在に感じられた。
マリアベルはそうと考える事はないが自分の境遇を変えた髪色はやはり根深いコンプレックスになっていた。
逆に貴族街に自分がいたらどう見えるのだろう、そんな事をぼんやり考える中でマリアベルはふと自分に向けられた視線に気付く。
「……?」
何処からか、誰からかわからない視線に周囲をキョロキョロと見回すと少し離れた位置にいる老夫婦が視界に入った。
子供の目にも上等とわかる服装や傍に控える侍女や侍従らしき姿から平民ではなく貴族だろうと予想させたが面識はない。
そもそもライラ以外に知る人間がいないのだから当たり前なのだが、不思議な事にマリアベルはその老夫婦にある種の親しみを覚えた。
白髪交じりの金髪を後ろに流す痩せた男性と、同じく白髪混じりの茶色の髪をまとめた淑やかな女性。
全く知らない人物である筈なのにどこか知っているような、既視感にも似た感覚に首を傾げていると露店での買い物を終えたライラがマリアベルの元へと駆け寄ってきた。
「お嬢様、お待たせいたしました」
「ありがとう、ねぇライラ」
あの方々に見覚えはある?
そう続けようとしたマリアベルは、目の前のライラの表情にギクリと体を強張らせた。
恐らくマリアベルが指そうとした方向を察し、視線を向けたのだろう。こちらへゆっくりと歩いてくる老夫婦を見て目を見開いている。
「ぁ…あ、…」
「ライラ…?」
真っ青なライラはマリアベルの手を引き抱き寄せようとしたが、常ならぬ様子に何か言いようのない不安と不思議な胸の高鳴りを感じマリアベルはぐっと腹に力を籠め座った姿勢から動く事はしなかった。
もしかしたら、何かが変わるかもしれない。
そんな予感は老夫婦が近づくにつれ胸の中で膨らみ続け、やがて彼らの目の色がわかるほどの距離に来るとマリアベルが感じていた既視感がはっきりと形をもつ。
(侯爵様にそっくりなんだ)
老夫婦はどちらもがアベルに似ていた。
二人が似ているわけではないが顔立ちや髪や目の色彩など顔を構成する要素がどちらかとよく似ており、その相似は確かな血の繋がりを想起させる。
それと同時に、マリアベルは女性の色彩が自身と同じである事に気付いた。
白髪が混じっていても艶のある茶色の髪と、若葉のような瞳。
毎朝鏡の中に映るものと同じその色にマリアベルの胸は高鳴る。
「…久しぶりだな、ライラよ」
声を掛けながらもマリアベルをじっと見つめる二人から庇うようにライラは今度こそその小さな体を抱き寄せた。
酷く震えているライラの体を、いつもならばマリアベルはあやすように抱き返しただろう。しかし今はそれをすべきではない、マリアベルはその感覚に従いライラの背に腕を回すことをしなかった。
この老夫婦は侯爵の、父の縁者だ。それもかなり近い関係の。
本能と推察からそんな結論に至ったマリアベルはライラの腕の中からじっと老夫婦を見つめる。
アベルの縁者であれば当然マリアベルにとっても縁者となるが、離れに閉じ込められていたマリアベルは老夫婦の顔を知らず、また老夫婦もマリアベルの存在を知らなかった。
数秒の間互いに見つめ合い、やがて老紳士がぎゅっと深く目を瞑ったかと思うと、まるで地の底から響くように低い声でライラを呼んだ。
「ライラ、その子供について何か言う事があるだろう」
「申し訳ありません…申し訳ありません、大旦那様…」
ライラは普段マリアベルの前でアベルを旦那様と呼んでいる。それに大の文字がつくという事は恐らくその父、マリアベルからすれば祖父に当たるのだろう。
静かな怒りを滲ませる青い目を見つめながら、マリアベルは父を侯爵と呼ぶ手前祖父をどう呼ぶのが適切か思考を巡らせた。
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