七つ指の聖女 ~忘れられた私でも幸せになれますか?~

氷下魚

第1話



私の名前はマリアベル・フィーガス。

リャンバス王国で侯爵位を持つ父アベル・フィーガスと、子爵家から嫁いだ母リナリア・フィーガスの間に生まれた娘だ。


多分。きっと。恐らく…れっきとした娘、なのだと思う。


「お嬢様、おはようございます」

「…おはよう、ライラ」


乳母のライラは眠たさにぐずる私を優しく起こし、微笑みながら寝癖のついた茶色の髪を撫でる。

カーテンの隙間から漏れる陽の光に誘われるように窓の外へ目をやると、遠くに見える庭園で丁度季節なのかたくさんの白い薔薇が花を咲かせているのが見えた。ライラは私の視線に気付き、少しだけ悲し気に眉を寄せる。


あぁ、まただ。

別に何も悲しくはない…綺麗な景色を綺麗だと思っただけなのに。







マリアベルが覚えている内、一番古い記憶は生まれた直後のものだった。

勿論大多数の人間は覚えていないだろう。

だが、マリアベルはその場面を今でもはっきりと記憶している。

彼女が一番最初に目にしたもの…それは赤らんだ顔色の、淡い金の髪を汗で額に貼りつかせた…しかしとても美しい薄桃色の目をした母リナリアの姿だった。


母という概念も知らない、けれど本能で目の前の存在に縋るようにマリアベルは大きく産声を上げた。

その元気な産声は壁の向こうにいる使用人達が手を取り合って喜んだほどだ。


しかし、


『……お姫様じゃないわ』


リナリアはマリアベルの翡翠色の瞳と目を合わせるとその顔から歓喜に満ちた微笑を消し去り、否定の言葉を口にした直後マリアベルの小さな体をその腕から滑り落した。


誰かの悲鳴を最後にマリアベルの記憶は途切れているが、五体満足で問題なく成長できたことを考えれば産婆や他の人間から保護されたのは予想がつく。


そしてそれ以降も物心がつく前の記憶を断片的に持ってはいたが、殆どに母としてのリナリアは存在していない。

あったとしてもライラの腕の中から父アベルに寄り添う母を遠巻きに見る程度のものだった。


アベルは時折マリアベルの元へ足を運んだが、日常はほぼライラと二人だけ…敷地の端に建てられた小さな離れの中だけが5歳までのマリアベルの世界だった。

一人で幼いマリアベルの世話をしながら離れの家事を切り盛りするライラに我儘を言える筈がなく、黙々と勉強や思慮に耽る以外やる事がなかったマリアベルの内側は年齢よりもずっと早く成長し、自身や周囲を把握する能力を身につけていた。






『リナリアのあれはきっと心の病だろう…』


3歳を過ぎた頃のある夜、離れの小さなベッドの中でマリアベルは扉の向こうでアベルがライラに話すのをうっすら聞いたことがある。


アベル曰く、リナリアは昔から心が弱く夢見がちで『お姫様』というものに強く憧れていたらしい。

しかしそれはけして自分がそうなりたい訳ではなく、絵本に出てくるような『金の髪』に『青い瞳』を持った美しい『お姫様』を娘として育てる事に憧れていたそうだ。

絵本の中で『お姫様』はその美しさを妬んだ母親によっていじめられていたが、もし自分が母親ならお姫様をいじめるなんて絶対にしない…お姫様を大事に、この世で一番幸せな子に育てるのだ、と。


…そんなリナリアの夢は茶色の髪に緑の瞳の持って生まれたマリアベルを見てあっけなく壊れてしまった。


リナリアは淡い金髪に薄桃の瞳を持ち、

アベルは眩い金髪に青い目。


望んだとおりの『お姫様』が生まれてくると信じて疑わなかったリナリアは、瞬間的にその願望を裏切ったマリアベルの一切を遮断し無かった事にした。

勿論話を聞いた当時は幼く半分も理解できなかったが、本を読み知識や情緒が育つにつれ様々な記憶が結び付き…理解してしまった。


母にとって自分は間違った子供で、だから切り捨てられたのだ…存在ごと、全てを。

そして父もまた自分ではなく母を選んだから、一緒にいてはくれない。


「…おかあ、さま」


本の中で笑うクマの家族の挿絵を指でなぞり、マリアベルは小さく母を呼んだが子を抱くクマの優しい顔は何も返してくれない。

愚痴をこぼしながら忙しなく動き回るライラの陰で、マリアベルは何度も何度も、小さな声で母を呼び続けた。


「マリアベルの、おかあさま」


『私のお姫様、私のマリアベル』


「おかあさま、あいしてるわ」


『私もあなたを愛しているわ』


柔らかく温かな手や惜しみない愛を伝える声を空想し、自分の手で自分の頭を撫でて、埋まる事のない心の風穴を穴だらけの薄紙で覆った。

成長と共に大きくなっていくその穴を塞げるのは自分自身しかなかった








『さぁエリザベス、お前の…』

『まぁ!わたくしのおともだち?

 うれしいわ、ありがとうパパ!』

『いや、お友達ではなく…』


マリアベルが五歳を過ぎた頃、父に連れられた本邸の庭で引き合わされた妹、エリザベスはまさしく『お姫様』と呼ぶにふさわしい少女だった。。

絵本のお姫様と同じ名前を付けられたエリザベスは、ふんわりと広がる金の髪に大きく眩い青い瞳、母によく似た顔は可愛らしく、声もカナリヤが歌うように愛らしい。

無邪気に笑う顔を目の当たりにした瞬間、マリアベルは『お姫様』とそう産まれなかった自分の違いを悟った。


しかし本人たちは気付かなくても客観的に見ればマリアベルの顔立ちはリナリアによく似ており、髪と目の色が違うだけでエリザベスとは双子のようだった。

当然、アベルも姉妹の感動の対面を期待していたのだろう。

だが当の姉妹はお互いの容姿の相似には気付かなかった。幼い目に色彩の違いというものはそれほど大きく残酷な差だったのだ。


『…はじめまして、エリザベスさま。

 わたくしはマリアベルともうします』

『まぁ!わたしはエリザベスよ!

 エリザベスとマリアベル、おなまえがにているわ!とってもすてきね!』


まるで他人のように挨拶するマリアベルに、その横に立つアベルは驚いたように目を見開いた。

マリアベルからすれば自分と『お姫様』は違うものであり、妹だとわかっていても名乗るべきではない、そう考えた上での対応だ。


そしてそれは結果的にだがマリアベルの心を守る事に繋がった。

もしその場で姉だと名乗れば、当然エリザベスは両親に真実を訊ねるだろう。しかし訊ねたところで父はどうあれ母にとってマリアベルは『存在していない子供』だ。

母と対峙し自分の置かれた異常な現実を直視すればいくら賢いマリアベルといえど…いや、賢いからこそ耐えられず心を壊してしまっていたかもしれない。


『ねぇマリアベル。おにわでおはなをみましょう?

 わたくしがあんないするわ、とてもきれいなのよ!』

『はい、エリザベスさま。

 いってまいります……おじさま』

『マ、マリアベル…』


震える声で名前を呼ぶだけで、離れていくマリアベルの小さな手をアベルは繋ぎ直そうとはしなかった。

リナリアを心の病だと言いながらも、アベル自身ひどく傷つきやすく気弱で、より悪く言えば事なかれ主義の典型だった。


過去にマリアベルとリナリアを引き合わせた際も、やんわりと間接的な言葉を重ねるのみでけして強く言う事はなく、抱く事もしないリナリアの膝に泣くマリアベルを乗せ自分は落ちないよう支えるだけ…そうしていればきっといつかは治る、そんな楽天的な考えを持っていた。


アベルのその弱さが、甘さが、マリアベルを他人にしてしまった。



『ねぇ!こっちよ!』


エリザベスに手を引かれ、マリアベルは初めて本邸の庭を駆け回った。

白い薔薇をメインに淡い色の花が咲き誇る庭園は花々の香りに満ち、マリアベルを現実から離れた、夢の中にいるような気にさせる。

離れの窓から見てずっと憧れていた場所にいるのだと思うと、マリアベルの中にあった負の感情が少し誤魔化されたような感覚さえ覚えた。


「………?」


けれど、ふとマリアベルの視界の隅を異質なものがよぎる。

立ち止まったのに気付いたかエリザベスも立ち止まり、振り返った。


そこにあったのは柵と門…そしてその奥の、花々に彩られた小さな墓標だった。

サイズは小さいもののこの国ではポピュラーな形のその墓標には名前も何も刻まれていない。

敷地から外に出たことがないマリアベルが墓標というものを見たのはそれが初めてだったが、それがなんなのかは既に理解していた。

それというのもかつて幽霊が夜毎墓地で悪さをするという内容の絵本に怯えた事があり、その際にライラから墓地は怖がるものではないとわかりやすく説明を受けた為で、5歳と幼く、また世間知らずでありながらマリアベルは墓地というものが死んでしまった、神の元へ旅立ち二度と会う事が出来ない者が眠る場所だと知っていたのだ。


『ここはね、わたくしのおねえさまがねむっているのよ』

『……え?』

『うまれてすぐに、なくなってしまったって。

 おとうさまがおしえてくれたの』


エリザベスはそう言うとキィ、と軋む音を立てて門を開き、墓標の前に跪いて祈るように手を組んだ。

その背中を見ながら、マリアベルはゆっくりとエリザベスの言葉を飲み込み小さな墓標が誰のものなのか、知ってしまった。


墓の下に眠る、生まれてすぐ死んだ子供。

もうこの世に存在していない、してはいけない娘。


『…そう、なのね』


瞼を閉じ一心に墓標に祈りを捧げるエリザベスは知らない。

その下に誰もいない事を。誰も死んでいない事を。……死んでいない実の姉が、後ろで涙を流す事も出来ず静かに泣いている事を。






それからもアベルはエリザベスに関係を訂正した様子はなく、マリアベルは何度も他家の娘として本邸の庭でエリザベスと共に遊んだ。

マリアベルの存在や妻の病を隠したいアベルはその時間だけ使用人に暇を与え、側近すら親子水入らずで過ごす為だと言ってけして庭には立ち入らせなかったが、元々敷地内に不可侵のエリア…離れが存在していたからだろう、使用人は皆主人が言うならばと詮索せずに従っていた。


『エリー、私の可愛いお姫様。

 転んでしまわないように気を付けて』


二人が遊んでいると、時折リナリアが様子を見に来ることがあった。

淡い金髪を陽の光で輝かせながら薄桃の目がエリザベスをにこやかに見つめ、声を掛けられたエリザベスもまたリナリアに手を振る。

視界に映っている筈のマリアベルには声どころか視線ひとつ与えられない。


エリザベスは何度かマリアベルを友人として母へ紹介しようとしたが、マリアベルはその度に理由をつけて逃げていた。

母の病を知り立場を理解することはできても、まだほんの子供だったマリアベルは母から認識されない、けして愛されないという現実を真正面から受け止められるほど強くはなかったし、エリザベスを憎まずにいられる自信もなかった。

真実を知らず、母の愛を一身に受け育てられたエリザベスに当然悪意などあるはずもない。

そんな無垢な妹を羨望や渇望のまま憎めば自分はますます「お姫様」から遠ざかるだろう。


せめて心だけでも「お姫様」になれるよう、自分を守るように草むらの陰へ隠れながら遠くに見える母の、けして視線の合わない微笑みを焼き付けた。

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