青を接ぐ

染井雪乃

青を接ぐ

 お腹いっぱいになる青とそうじゃない青があるんだよ、と汐理しおりに話すと、「チェレンコフ光」について教えてくれた。僕が地下で食べていたものは使用済み核燃料に残された放射性物質のエネルギーらしい。そういうことができるから、僕はこの研究所でちょっと怖がられている。汐理のそばにいられるなら、他の人に何を思われていても別にどうでもいい。

 その汐理について、僕はここ数日もやもやしていた。汐理と一緒に仕事をしているサラから、汐理の誕生日が近いと教えてもらってからずっと変な感じがする。胸のあたりが何か変。誕生日は大事な人と祝うものだってサラが言ってた。僕は汐理の大事な人じゃないの。今すぐ問い詰めたいけど、答えを聞くのが怖い。

 汐理は時々本当にぞっとするくらい美しくて、怖い。いつもは汐理の瞳はお腹いっぱいにならない青だけど、欲しくなる。でもその青が冷たくなるとき、僕は物音一つ立てられなくなる。

 それでも僕は汐理が好き。汐理は僕をちゃんと大事にしてくれていて、僕が甘えるのも汐理だけだ。汐理は「私は君が思うほど優しくないから気をつけなさい」と言うけど、そんなことはない。声を出すのが苦手な僕の言葉を待ってくれて、僕が触れても怖がらなくて、望めば一緒に寝てくれる。文字も教えてくれた。

 研究所をふらふら歩いていたら、汐理と一緒に仕事をしている何人かの一人、ケヴィンに会った。

「シオリと一緒じゃないのか。珍しいな」

 いつもの僕を思えば当然だけど、今その名前を出してほしくなかった。ぽろぽろと涙がこぼれて、僕は止めようのないそれに混乱してさらに泣いた。ケヴィンが指差したテーブルについて、僕は話をした。

「サラからシオリの誕生日が近いって聞いて、それから変な感じなのか」

 ケヴィンは難しい顔をしていた。知らなかったんだろうなあ、と呟いて、ケヴィンは僕に話してくれた。

「被験体クン、シオリはここ数十年の歴史について教えてくれたか?」

 僕が汐理以外に名を呼ばせないから、ケヴィンやサラは被験体クンと呼ぶしかない。もう少しましな通称を作ればいいのにとよく言われるけど、僕はこの呼ばれ方はそこまで嫌じゃない。

「……ここ数十年の歴史、えっと、核や激しい気候で、人間は居住可能範囲を大幅に減らした、ってやつ?」

 だから今は要塞都市と地下の研究都市を合わせても二十もない。それらの都市は地下でつながっているが、よほどのことでもなければ移動はしない。

「うん、合ってる。じゃあ、シオリの故郷については?」

 故郷。汐理はどこから来たのか。僕のことを深堀りしない代わりに汐理も自分のことを語らない。静かに首を横にふると、ケヴィンは声を潜めて教えてくれた。

「シオリは共通語以外にかなりマイナーな言葉も扱える。顔立ちからはルーツが推測しにくい。名前からして漢字を使っていた辺りの出身だろうが、それにしてはそこと縁遠い言葉も使える。名前と言葉から絞れるシオリの故郷候補地は今はすべて放棄地帯だ。そういう状況だと年齢も誕生日も、下手すれば名前すらもあやふやになる。たしかに誕生日ってものはふつうは大事な人に祝われるものだが、シオリは元々その辺を気にしてないか、さっき言ったような理由で誕生日に思い入れがないか、だと思う。シオリは被験体クンに相当甘いから、大事に思われてないなんてことはない」

 シオリ、自分にも他人にも容赦ないからな、とケヴィンは付け加えた。

「……それなら、誕生日の話はしない方がいいの?」

「いいや」

「汐理に事情があるかもしれないから、えっと、その、忠告、してくれたんじゃないの?」

「俺は被験体クンに情報と推測を話しただけだ。たしかに俺はシオリに誕生日の話はしない。これまでも、これからも。でも、君がどうするかは君次第だ」

「事情があるかもしれないのに、僕が決めていいの?」

 危険かもしれないとなったら、そこから先へは進まない。誰も死なないために大事なことだと汐理が教えてくれた。それなのに僕に選択肢があるなんて、よくわからなかった。

「別に進んだって死ぬわけじゃない。好きにしていいんだ」

 悩めよ少年、なんて陽気に笑ってケヴィンは仕事に戻っていった。他人事だと思ってと気持ちが刺々しくなったけれど、実際他人事だ。話を聞いてくれたケヴィンはいい人だ。


 汐理のことを考えていても、仕事はある。僕の仕事――つまり食事だ。青く光る使用済み核燃料からエネルギーを得る。どうして僕がそんなことをやれるのか、人間なら死んでしまう高線量で活動できるのか。どうやったらそれを使える技術にできるか。たくさんの謎を解明するために僕の食事は観察されている。食事と言ってもおいしそうな青に触るだけなんだけど。

 食事を終えて、特別なシャワーを浴びる。これを浴びるまでは人にも物にも触ってはいけない。浴びたところで、ほとんどの人が僕を遠巻きにするから意味はないと思うけど、汐理の健康を害するかもしれないと聞いたらシャワーを浴びるくらいのこと、言われた通りにする。

「湯川の被験体、今日もご苦労」

 僕の食事を観察する人達は汐理のことをあまり好きではないらしい。僕も話したくないので、会釈だけで言葉は発さない。いつも通りだ。

「しかし、この分なら彼の寿命は人間のそれではないな」

「それと暮らす湯川は無事ですむのか」

「そのリスクも承知で湯川はあれを引き取ったんだろう。馬鹿が」

 聞こえてきた会話は気分の悪いものだったが、最後の一言だけ妙に悲しそうで僕はその人の名前を覚えてしまった。


 汐理が帰宅する。僕は汐理の分の食事を温めて、テーブルで待っていた。黒髪に青い瞳、白い肌。無性だから筋肉もつかないし柔らかさもない平坦な体なのだと汐理は言うけれど、僕が膝に乗ったり後ろから抱きついたりしても大丈夫なくらいには頑丈だ。

青藍せいらん、こんな遅くまで待っていなくても――」

「どうせ汐理がいないと寝れないもん」

 表情の変化が少ない汐理が仕方ないなとでも言うように息を吐いて笑う瞬間が好きだ。

 汐理が食事するのを見ている。口に食べ物を運び、飲みこみ、消化する。僕とはまったく違う食事だ。汐理はあまりこれが好きじゃないらしい。僕が来るまではもっと簡単にすませていたけれど、僕に人間の生活を見せないといけないと思ってきちんとすることに決めたみたいだ。

 食べ終えた汐理がソファに移ると、僕は汐理の黒髪を解き始めた。さらさらとこぼれる汐理の髪に指を通して遊ぶのが好きだ。

「飽きないね」

「うん」

 毎日やっても飽きないのだから、多分僕は一生飽きないと思う。真っ白な僕の髪とは違う、きれいな夜の色。瞬きを繰り返す青の瞳。

 気分良く汐理の髪で遊んでいると、昼間の悩みがまた浮かんできた。汐理の誕生日に、汐理と出会えてよかったと言いたい。

「やっぱり、お祝いしたいなあ」

 声に出てしまった。汐理が僕を見上げる。ソファの上に僕が膝立ちしているときだけの、珍しい光景。

「何かあるの?」

 ここまで来たら、ごまかす方が変だ。それに僕は聞きたかった。

「汐理の誕生日、って、お祝い、してもいい?」

 汐理は特に傷ついた様子もなかった。

「いいけど、誕生日祝いって何をするんだ?」

 汐理は誕生日祝いのやり方を知らなかった。当然、僕も知らない。

「何するんだろう、お祝いだからおめでとうって言うのは知ってる」

「それは私も何となく知っているけれど、きっとそれだけではないと思う」

 検索ってやつをして、汐理は首を傾げた。

「特に何をする、と決まっているわけではないようだね。特別だと感じる時間を過ごす、といったところか」

 特別な時間ってどういうことかな。汐理もわかっていなくて、二人で顔を見合わせて、小さく笑った。

「でも、これはいい案だと思う。君が私の誕生日を忘れないでいてくれると嬉しい」

 汐理の瞳が少しだけ悲しげに見えた。そのときにどういうことなのか、ちゃんと聞いてみればよかったのかもしれない。


 汐理の誕生日、九月八日。有名な物理学者の命日だから覚えやすいでしょう、と汐理は笑った。特別な時間がどういうことか、わからない二人で、仕事を休んで、二人きりの時間を過ごした。汐理の声で本を読んでもらうのも、たくさんの言葉を知っている汐理が語る外の世界の話も、全部おもしろかった。お祝いの本当は知らないけれど、楽しかった。汐理もちょっと表情が柔らかくなっていた。

「青藍、たとえ一人になっても先へ進むんだ。その先に希望はあるから」

 汐理の声は耳に心地よくて、僕は違和感を覚えることすらできなかった。だけど、そのときには、いや、そのずっと前から、手遅れだったんだ。


 汐理と暮らすようになってからもうすぐ三年になる年の瀬、汐理が教えてくれたおおみそかに、汐理は急に倒れた。サラが知らせてくれて、僕は汐理と最後の時間を過ごすことを許された。つまり、もう汐理は助からない。

 部屋に駆けこむと、汐理は一言、「すまない」とだけ言った。

「謝らないでよ。汐理のせいじゃない、でしょう?」

「いや、私は君に謝らなくてはならない。私の最後の頼みは、きっと酷なものだろうから」

 汐理はたまに見せる、ぞっとする美しさで僕を見つめた。

「青藍、私はね、接ぎ木なんだよ。違うものをくっつけて、命を繋ぐあれだね」

 接ぎ木、と僕は復唱する。何を言っているのか、まったくわからなかった。

「私の生まれた場所はありふれた都市だけれど、手足や臓器の持ち主は違うかもしれない。過酷な気候や核の脅威で私の住んでいた都市は壊滅寸前だった。歴史では、一人残らず滅んだことになっている。だけど、あそこには昔気質の医者がいて、彼女の提案にわずかな生き残りが賛成した。提案は死にかかった人間たちを接いで一人の人間にし、その人に希望を託すことだった。食料も物資も、皆を生かすには到底足りない。だから、確実に一人を生かして全滅だけは避ける。そしていつか、この地をまた住める土地にしてほしいと希望を託した。希望を託すと言えば聞こえはいいけれど、同意もなければ倫理的にも許されない違法な手術だ。そのとき私は死にかけていたから、どうして私が選ばれたのかは知らない。私が意識を取り戻す頃には医者の彼女しか生き残っていなかったから。必要なのは体を作れることと、希望を託すだけの時間が残っていることだったと聞く。当時十一かそこらの私は生き残りのなかで一番時間があって、親もいなくてちょうどよかったのかもしれない」

 要塞都市や地下の研究都市ができる直前のことを汐理がこうして話すのは初めてだった。歴史として話すのとは違う、汐理の話。

「都市壊滅の混乱の最中、彼女が用意したIDで私は地下研究都市で学び、研究員になって、いつか核の汚染を終わらせようと研究した。けれど、物資の足りないなかの手術のせいか、一度死にかけたせいか、私の命もそう長くなかった。そう気づいたときに君に出会った。私は元々恐怖や寂しさを感じにくくて、そのせいか、君は私を慕ってくれた。最初は研究に君の力を使えたらいいなと思っていたのに、君を誰かの好きにさせたくなくなった。それで思いついたんだ。私のIDで君が外に出る方法を」

 僕にもわかる。汐理の話の終着点。聞きたくない。その場から動けない。

「IDは誕生日と右目の虹彩で識別される。私と右目を交換すれば、私のIDで外に出られる。気候については一時期よりはましと聞くし、核の汚染は君には問題じゃない。核の汚染がなくなったら、人間の食事をするしかないだろうけど、そうなるまでに何千年とかかるだろう。わかっているだろうが、ここに残れば、君に自由はない。今、私と右目を交換して、外へ出るんだ。食事を続けるにしても、強いられるのと好きに生きるのとじゃ、大違いだ。……私の故郷じゃなくてもいい。どこか、安らげるところを見つけて」

 いやだ、と叫びたかった。外に出るのも汐理と一緒がいい。

 言葉はいくらでも出てくる。それなのに、口は自然と動いていた。思ってもないことを音にする。

「……わかった。そうする」

 汐理が無理だと言うなら、きっとそれは無理だ。不毛なやり取りを続けている時間がないことはよくわかっている。汐理が考えなかったはずはない。それでも諦めるしかなかった。僕にどうこうできる話じゃない。

「青藍」

 謝罪の言葉を封じて、僕は汐理にキスをした。最上級の親しみをこめたキスは唇にするのだと教えてもらったから。

「君は」

「キスっていうのは祝福なんでしょう」

 恋愛の意味もあることは知っているけれど、そんなことを知らない無垢な子どものふりをした。

「何にもさせてくれないんだから、祝福くらいはさせてよ」

 僕を救っておきながら、汐理は僕に救わせてはくれない。遠くて優しくて、ひどい。

「……出るまで気を抜かないことだ。泣くのも、私を悼むのも、出てから。いいね?」

 これから死ぬというのに、汐理は落ち着いていた。


 右目の交換は、僕の食事を観察していたなかの一人がやってくれた。手を動かすその人を見つめると、吐き捨てるように教えてくれた。

「湯川の計画を知っていた。湯川ほどの才能が生きられないのも、おまえの自由を望んでこんなことするのも、納得などしていない。頼まれたからやるだけだ」

 この人も、本当なら汐理に生きてと言いたかったのかもしれない。でも、汐理はそんな言葉を受け取ってはくれない。

 痛くはないけれど、自分の目がまったく違うものになったのは変な感じだった。食べられる青かどうかも、右目ではわからない。その分、左目と視界が違ってくらくらする。

 隣で意識を取り戻した汐理は僕にこれからどうするかを教えてくれた。

 汐理の死でバタバタしているうちに、僕が汐理のIDで外に出る。地下都市の外は森だから、とにかく身を隠して、遠くへ行く。地下研究都市からの観測限界距離、方角や距離の測り方を駆使して、放棄地帯へ向かう。そうすれば追っ手も来られないし、生きられる。でもこれは今の技術の限界だ。数十年先には外に攻撃もできるかもしれない。決して人間を侮ってはいけない。

「生き延びて」

 汐理は僕に微笑んでみせようとして、妙な表情になっていた。

「汐理だと思って、連れて行く」

 右目を指して宣言する。

「そうだね、それは元から私の目だ。青藍、無事を祈る」

 名前を呼ばれるのも最後だ。でも、今は泣いてはいけない。やることがある。これまでを無駄にしちゃいけない。

「ありがとう、汐理。大好き」

 部屋を出る。もう汐理には会えない。もう会えない。もらった右目だけが僕と汐理の時間が嘘じゃないと教えてくれる。


 汐理と暮らしていた部屋で、用意されていた荷物を手に取り、汐理の準備のよさに呆れてしまった。おおみそか、だから、皆が忙しいのも、どこかうわのそらなのも、汐理はわかっていた。自然に任せて倒れたのではない。死期すら調整したのだ。平然としているように見えて、目的のためには手段を選ばない。僕に伝えるタイミングだって、完璧だ。でも。

「ひとことくらい、あったっていいじゃない」

 ぽつりとこぼした言葉は思ったより響いた。誰もいない空間はそういうものだった。いつからかわからないけれど、僕の日常はほとんどそうだった。汐理といた時間は、その意味でも特別だ。

 呼吸を整える。目立つ白い髪を帽子のなかにしまい、瞳の色に気づかれないように色付きの眼鏡をかける。太陽が眩しいときにも使える、と汐理のメモがあって、高エネルギーを浴びてもダメージを受けない僕にそんな心配はいらないのに、汐理の優しさが嬉しかった。

 重病人が出たことを知らせる警報音が鳴り響く。汐理だ。僕は最後に汐理と過ごした部屋を見渡した。人間の食事も、眠ることも、文字も、言葉も、歴史も、あらゆることを汐理に教わって、たくさん甘えさせてもらった。年齢も生まれた理由もなぜ核燃料から栄養補給ができるのかも、何もかもわからない僕を汐理は隣に置いて気にかけた。汐理はこの暮らしを始めたきっかけはそんなにいいものじゃないと言ったけれど、今この瞬間が答えだ。


 誰に止められることもなく、外へ出る扉に辿り着いた。電子音声が、IDの提示を求めてくる。汐理の右目を見せ、僕は名乗る。

「湯川汐理、誕生日は九月八日」

「確認しました。解錠します」

 地上へ続く扉が開く。僕は迷わず地上へと踏み出した。眩しさに瞬きする。これが太陽か。

 ここまでしてくれた汐理のためにも、失敗するわけにはいかない。言われた通りに森に隠れて距離を取る。この日は眠らずに歩き続けた。観測範囲外に出なくてはならなかったから。森は思ったよりずっとひどい道だったけれど、そんなことはどうでもよかった。

「観測範囲外、だ」

 一息ついて、汐理がまとめてくれた荷物を開ける。紙の地図にはかつての都市があり、そして、汐理の故郷らしき場所に印をつけて、消した跡がある。故郷じゃなくてもいい。生き延びてと汐理は言った。要塞都市や地下研究都市を避けて生活しても、地球にはゆっくり見て歩くだけの広さがある。汐理から貰った右目とともにあちこち見に行こう。時間も食料もたっぷりあるのだから。

 青くはいない木の実にかぶりつく。食べられる青ほどじゃないけれど、少しは栄養になる。汐理に聞いた通り、外では食料に困らないみたいだ。

 接ぎ木、と汐理は言った。汐理の青を接いでもらった僕は生きて、汐理の代わりに多くのものを見よう。汐理のことだから、IDのために汐理の右目が必要なだけでその後は好きにしなさいと言いそうだけど、汐理から貰った大事な目だから、大事にする。

 ありがとう、さよなら、汐理。汐理が思っているよりもずっと、僕は汐理が好き。

 届ける相手を失った言葉は頭上の青に溶けて消えていく。

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青を接ぐ 染井雪乃 @yukino_somei

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