第17話 ヨーゼフ・ハインの醜聞 後編

 ヨーゼフ、オイゲン、ラインハルトが王都を出立して数週間後のことだ。寒風の厳しさが緩み、柔らかな木の芽が仄かに香り始めるある夜。魔術学院の位置するシュテンゲルに程近いクノスペの街―――その宿屋「赤(あか)獅子亭(じしてい)」の小ぢんまりした居心地良い部屋に、我々は三人の姿を見出すことが出来る。

「ラインハルト殿下がお休みになってくださいました」

 化粧着姿のヨーゼフは満足げに言い、寝室のドアを後ろ手に閉めた。隣接する小さな居間、オイゲンが座るソファーに腰を下ろす。マントルピースの暖かな火で心身を癒やしながら、

「ラインハルト殿下には、魔術師の素質がおありのようですね。魔術、魔道具への興味や関心もお持ちでいらっしゃいますし。シュテンゲル魔術学院で学ばれるのも良いか知れません。もっともここクノスペも、学術研究が盛んな都市ですけれどね。メーティス図書館の蔵書は量、質共に素晴らしいものです。のみならずクノスペは港町レーヴェンツァーンも近いので、ブロイエホルツとの交易も盛んです。旅に必要な情報も得やすいですね。貴方さえ良ければしばらくクノスペに滞在して、周りの街の様子を見てみませんか?オイゲン。ゾフィー・マティルデ摂政殿下、宰相閣下のお気遣いで路銀は充分にありますが、わたしがシュテンゲル魔術学院で職を得、旅の費用を稼いでも良いですね。魔術学院教官としての経験も積めますし。オイゲン、もし貴方が騎士の研鑽を積みたいのならば―――」

「………」

 ヨーゼフは楽しげだが、オイゲンは暗い目をして黙している。ばかりではなく、ヨーゼフと口をきくものかという頑なな様子も仄見える。ヨーゼフは訝しげに、

「何をふてくされているんです、オイゲン?夕食の肉料理が足りなかったんですか?」

「……違う……」

 オイゲンは低く言い、ヨーゼフの右足を両の太股で挟み込んだ。その逞しい右腕はしっかと、ヨーゼフの肩に回されている。事ここに至って、その種の経験が豊富なヨーゼフはオイゲンの屈託の理由を察した。だが面倒くさいのと面白いのとで、しばらく放って置くことにした。オイゲンは黙しているが、その切れ長の目は半ば涙目だ。さすがに気が咎めたヨーゼフは、

「何も泣くことはないでしょう。なんなんです、これ」

「……貴方がしてくれない……から…」

「三日前にしたでしょう。殿下がお休みになられてから。二人で部屋を抜け出て、連れ込み宿を探して」

 絞り出すように言うオイゲンの頬を、それでもヨーゼフは指先で拭ってやっている。この二人の仲は極めて順調……というより、些か順調過ぎるようだ。半泣きのオイゲンはなおも食い下がり、

「……貴方は二日もしてくれていない……。今夜はして欲しい……」

 ヨーゼフが――この取り澄ました男にしては珍しく――頓狂な声を出した。

「なんでそう、妙なところで後ろ向きな考え方をするんです!殿下がお休みになられている隣で、情事にいそしめるわけがないでしょう!……それにオイゲン、貴方はね。あの時の声が大き過ぎるんです!」

オイゲンは泣き顔――あるいはべそをかく子どもの顔――のまま、

「……声を出さないからして欲しい……」

「……貴方どれだけ収まりがつかないんです。思春期の男の子ですか」

 要は犬も食わない夫婦喧嘩なのだが、何のかんのでオイゲンが可愛くて仕方がないのだろう。ヨーゼフは無意味に黒髪をかき上げ、

「じゃあ出かける支度をしてください。場所はこないだの連れ込み宿で良いですね?酒場を兼ねた。わたしはラインハルト殿下に置き手紙を書いていきますから。―――酒場に情報収集に行って来ます、二時間程で戻ります。これで良いですね?……それから声、出して良いですから」

 オイゲンは嬉しそうにこくりと頷き、寝間着から聖マルティヌス騎士団員の黒いコートにいそいそと着替え始めている。ヨーゼフは吐息をつき、

「……前はもうちょっと聞き分けの良い子だったんですけど。まあ、これはこれで可愛いんですけどね」

 愚痴と見せた惚気を言っている。どっちもどっちである。


 それからおよそ二時間後。赤や黄色の毒々しい燈火が灯り、気の抜けた酒と紫煙(しえん)の臭う歓楽街を、ヨーゼフとオイゲンは寄り添って歩いていた。

 オイゲンの身ごなしは常より気だるげで、切れ長の碧眼は水煙でけぶったかのようにぼんやりとしているのだが、ヨーゼフと腕を組むその様子はこの上なく満足そうだ。ヨーゼフも満更ではないようで、

「良かったんですか?」

「良かった……。またして欲しい……」

「貴方やっぱり可愛いですねえ」

 ほっそりした白い指先で、オイゲンの喉首をくすぐってやっている。オイゲンはのけぞりつつ、甘えた笑い声をあげている。この男が聖マルティヌス騎士団の傲岸不遜な問題児にして希望の星だと言われても、素直に信じる者はそういないだろう。

「……ヨーゼフ」

「なんです」

「喉をくすぐられたら変な気持ちになった。して欲しい……」

「……貴方って迂闊にくすぐることも出来ませんね。まあそれも面白いですけど。でも今夜はもう駄目ですよ。ラインハルト殿下のところへ帰らなくては」

 誇り高き聖マルティヌス騎士団員にして自制心の強固なオイゲンは、この場に相応しい行動を取った。すなわち、

「分かった」

 と頷き、見返りとしてヨーゼフに「抱っこ」を要求したのである。

 結果としてごちゃごちゃした路上の脇に寄り、オイゲンの要求に応じてやっているヨーゼフだが、この男も色事は嫌いな方ではない。それにオイゲンの鍛え上げられた長身の体躯、端正な面差し、ベッドの中で見せる初々しい恥じらい、歓喜と恍惚の表情は、ヨーゼフにとって大いなる魅力である。何よりヨーゼフは仔犬のような――傍から見ると極めて扱い難い大型犬あるいは極めて気性の荒い狼なのだが――オイゲンが可愛くて仕方がない。

「………」

 けばけばしい燈火、酒と煙草の臭い、そして意味ありげな笑いや嬌声の中、ヨーゼフも何とやらん妙な気持ちになってきたらしい。やむを得まい、人気(ひとけ)のない路地裏にオイゲンを連れ込んで電光石火で事を済ませるかと、ヨーゼフが些か乱暴なことを考えたまさにその時。

「お楽しみの後――いや、ことに依ると前かな――に邪魔をするのは心苦しいのだがね。ヨーゼフ」

 馴染んだバリトンが、ヨーゼフの耳を打った。

 ヨーゼフは不機嫌そのものといった表情で顔を上げ、眼前のメルヒオールを見やった。もっとも今のメルヒオールは、白の長衣に金糸の縁取りのある紫のケープマントという、ヨーゼフが見慣れた姿をしてはいない。紫の矢車菊が刺繍された黒いローブに、黒貂の毛皮の縁取りのある黒紫色のマントといった、洒落てはいるが地味な装いをしている。ヨーゼフの真紅のマント、ワインカラーのコートという、瀟洒だが華美な身なりとは対照的だ。

 しかし引き締まった端然たる顔に楽しげな笑みを浮かべているのは、紛う方なくメルヒオールだ。純情なオイゲンは赤くなった顔を右手で覆い、メルヒオールに半ば背を向けている。

 ヨーゼフは物憂げに前髪をかき上げ、

「それだけ皮肉が言えるのなら傷の具合はすっかり良いみたいですね、宰相閣下。今日はなんでまたいらしたんです?追加で小遣い銭をくださるんですか?」

「小遣い銭は君の連れ込み宿代に消えるだけだろう。私は無駄銭は使わない」

「……何しに来たんです」

 しゃあしゃあと言ったメルヒオールに、ヨーゼフは地獄の怨嗟を孕んだような声を返した。律儀なオイゲンがヨーゼフの肩を軽く叩き、宥める仕草をした。もっともメルヒオールは落ち着いたもので、

「君と話をしたくて来た。君に父子の名乗りをせずにいた理由と、私の妻カテリーナの話を君にしたいと思った」

「……」

 皮肉屋で毒舌家、気性は激しく色事には奔放という厄介な男ではあるが、ヨーゼフは愚昧ではない。メルヒオールの声音に潜む、緊張と有無を言わせぬ気配を悟ったのだろう。オイゲンに、

「先に『赤獅子亭』に戻っていてください」

 淡々と言い、メルヒオールと共に歩き出した。二人の向かう方角、話をするという目的から推して、行き先はメーティス図書館を臨む、閑静なナハトオイレ河のほとりだろうと、オイゲンは見当を付けた。

「………」

 赤や黄色の燈火が暗さを引き立てる夜の中、オイゲンは一人立ち尽くしていた。嬌声や笑い、安酒や煙草の臭いが遠く感じられた。


 夜は冬の寒さを呼び戻すようだ。冷たい川風が、隣り合って立つヨーゼフとメルヒオールの頬をなぶった。ナハトオイレ河の向こう、メーティス図書館の灯は既に消えている。

 口火を切ったのはメルヒオールだった。

「……私にこんなことを言う資格がないのは承知している。だが私は君をずっと大切に思ってきたし、今もそう思っている。君は私の大切な家族で、私のただ一人の息子だ。ヨーゼフ」

「……ええ」

 ヨーゼフは物憂げにそれだけを言った。闇色の双眸は、暗い水面(みなも)を眺めているようだ。メルヒオールは苦しげに、

「私が君とカテリーナを疎ましく思ったことは一度もない。カテリーナが暇を出された時も、私は彼女を――彼女が宿していた私の子と共に――邸に呼び戻し、共に暮らしたかった。だが当時まだ存命だった私の父で家長のフリードリヒ・ルイスに、私は抗うことが出来なかった。父の死後、私は直ぐに君とカテリーナの行方を探した。……心を病んだカテリーナが君を傷付けたことも、彼女の周囲から聞き知った。私は君を邸に引き取ることが出来たが、カテリーナをそうすることは出来なかった」

「彼女は死んでいたのですか?」

 ヨーゼフが伸びやかな柳眉を顰めた。しかしそれが母の行方に胸を痛めたためか、吹き付ける川風に髪を乱されたためなのかは判然としない。メルヒオールの眉間に、傷のような皺が刻まれた。

「……私が事情を知った時、カテリーナと君が暮らした部屋はそのままだったが、彼女は既に行方知れずになっていた。彼女の行方が知れなくなる前の夜、カテリーナと思しき女性が子守り歌を歌う声を聞いたという住人がいたが、詳しいことは分からない。私は今も彼女を探しているのだが、未だ見つけることが出来ていない」

「そうですか……」

 ヨーゼフの声が屈託を孕んだ。無力感と自責の念に苦しみながら、愛した女性を探し続けるメルヒオールの孤影を思った。メルヒオールは深く息をつき、

「……そして私は決めることが出来なかった。私は迷っていた。アルトアイゼンの身分制度はとても厳格なものだ。貴賤結婚において、妻子は夫の位階も財産も継ぐことは出来ない。すなわち君が私の息子であることを公(おおやけ)にしても、君はシュヴァルツレーヴェ伯爵位もその財産も、継ぐことが叶わない。……私は君以外に継がせたくはないのだ。シュヴァルツレーヴェ伯爵位も、邸も、財産も、全て」

「それは、どうも」

 ヨーゼフは素っ気なく言い、乱れた髪を手櫛で梳いた。メルヒオールの声にいよいよ苦渋が滲む。

「ばかりではない。君はいかに魔術の才能があろうとも白眼視され、将来の選択肢は狭められてしまう。私がどんなに君を引き立てようとしても、私の私設秘書で終わるのが関の山だ。だが私が君を弟子として引き取ったならば、君の力量次第で運が開けてゆく。アルトアイゼン王家への貢献次第では、王国の位階を授かることも可能だ。私は迷い、何より君に何と思われるかが怖かった。だから私は君に言えずにいた、―――私は君の父だと」

「そうですか……」

 ヨーゼフは吐息をつき、メーティス図書館の黒い輪郭を見るともなく見つめている。メルヒオールはいつになく気弱な様子で、

「君は怒っているのか、ヨーゼフ。いや、君は憎んで当然だ。こんな、不甲斐のない私を―――」

「怒っていますねえ。憎んじゃあいませんが。しかしかなり腹が立ってはいます」

 ヨーゼフの声は素っ気ないが、殊更に鹿爪らしくもある。覚えずメルヒオールはヨーゼフの秀麗な顔立ちを見つめた。ヨーゼフは淡々と、

「貴方の迷いだか的外れの親心だかのために、幼い日のわたしは、貴方を父上と呼ぶことが出来なかった。そのことに腹が立っています。わたしは位階や財産にさほど関心がありません。位階はわたしのような男には堅苦し過ぎます。財産は欲しくないわけでもありませんが、わたしのことですから遊興に使いましょう。だからそんなものより―――」

 闇色の双眸がメルヒオールを見据えた。潤んではいるものの、眼差しの宿す光は強い。

「父上と呼んで抱きつく相手の方がずっと欲しかったですよ。それが貴方であったならと、何度も思っていました」

「………」

 メルヒオールの嗚咽が、人気のない河辺にこだました。ヨーゼフは黙し、真闇の空を見上げた。こうした時、早まった慰めの言葉は逆効果であることをヨーゼフは知っていたし、ヨーゼフ自身が嗚咽を堪えることでいっぱいだった。自分はオイゲンの傍らで泣くことが出来たが、メルヒオールはずっと泣けずにいたのだと、ヨーゼフは思った。眼前のメーティス図書館の輪郭、水面がぼやけて見えた。

 ややあって、ヨーゼフが口を開いた。その声は少しく震えてはいたが、常の皮肉な調子は戻っている。

「まあ、良かったですよ。貴方の思い全てに得心がいったわけじゃありませんが、ある程度のことが分かったのは良かったです。貴方がわたしを大切に思っていること、ただ一人の息子と思っていることが分かったのは、まあ収穫ですね。ともあれ細かい話は、わたしがアルトアイゼンに戻ってからにしませんか。貴方の好きなヘル・フリスゲスの店の菓子でも堪能しながら、―――父上」

「……楽しみにしている、ヨーゼフ。私はそれを、とても楽しみに。とても、ヨーゼフ。ありがとう」

 潤んだ黒曜の目を拭うことなく己を見つめるメルヒオールに、ヨーゼフは素っ気なく、

「礼ならオイゲンに言ってくれませんか。貴方の不実や弱さを知り、貴方を憎みたくないと思い悩んでいたわたしに、優しい言葉をくれたのはオイゲンなんです。わたしが貴方を憎まずにいられたのは、オイゲンのおかげなんですよ。まあ、本人がそこにいますしね。……って、なんで貴方もいらっしゃるんです、ラインハルト王太子殿下!!こんな遅くに外に出ちゃ駄目でしょう!!暖かくしてらしたんですか?!」

 メルヒオールの背後にオイゲンとラインハルトを認め、ヨーゼフは慌ててラインハルトに駆け寄った。オイゲンが羽織らせたのだろう。ネイビーのコートの上には毛皮の襟付きのテラコッタのマントが、不器用に蝶結びした革紐で留められている。オイゲンと手を繋いだラインハルトはヨーゼフを見上げ、

「暖かくした。オイゲンがコートとマントを着せてくれて、手袋も出してくれたんだ。ヨーゼフが心配だったから、オイゲンに頼んでここに連れて来てもらったんだ」

「……わたしが?何故心配なんです?」

 訝しげなヨーゼフを、夜目にもしるき空色の瞳が真っ直ぐに見つめた。

「メルヒオールはヨーゼフの父上だし、ヨーゼフのことが大好きだから。だからメルヒオールがヨーゼフを王都に連れ帰っちゃうんじゃないかって、心配になった。ヨーゼフはメルヒオールにとっても大切だけど、私やオイゲンにとっても大切だから。それから母上の話やメルヒオールの話を聞いたヨーゼフの心が、痛くなるんじゃないかって心配になったんだ。メルヒオールの心も痛くなるんじゃないかって。だから来たんだ」

「………」

 ヨーゼフは黙していた。闇色の瞳が、静かに潤み出している。ラインハルトはヨーゼフを見つめたまま、

「ヨーゼフもメルヒオールも優しいんだから、自分にもちゃんと優しくしなきゃ駄目なんだ」

 傍らのオイゲンが頷いた。

「そうですね……」

 ヨーゼフは呟いた。闇色の双眸から溢れた涙が、静かに頬を伝い落ちる。

「そうですね……。わたしも……父上も……本当に。オイゲンも、ラインハルト殿下も……。皆、痛む心を優しく治さなくては……。共に……」

「ヨーゼフ。貴方はやはり優しい。とても」

 オイゲンは穏やかに言い、ヨーゼフの背をそっと抱いた。―――震えるその背を。

「オイゲン・ゲオルク」

 メルヒオールの声は、微かだがまだ震えていた。

「ヨーゼフを……私の息子を頼む」

「かしこまりましてございます、シュヴァルツレーヴェ伯爵閣下」

「あっ、オイゲンばっかりずるいぞっ!メルヒオールっ!私にもヨーゼフを頼んで良いんだぞっ!」

 メルヒオールの黒曜の瞳が、柔和な笑みを浮かべる。

「ヨーゼフをお願い申し上げます、ラインハルト王太子殿下」

「かしこまったぞ、メルヒオールっ!」

「ラインハルト王太子殿下はかしこまらなくて良いんですよ。父上はラインハルト殿下の家来ですからね。分かったぞ、で良いんです」

 ヨーゼフは淡々と言い、ラインハルトを抱き上げた。ラインハルトは何か言いたげであったが、ヨーゼフが抱きしめてくれたので、言うことを止めたようだ。

 そんな三人を穏やかに見つめ、メルヒオールは踵を返した。

「泊まる当てはあるんですか?もう夜も遅いですし、用心も悪いですよ」

ヨーゼフなりの――素っ気ない、不器用な――気遣いに、メルヒオールは笑い、

「心配は要らない。クノスペ一の宿『銀の盾亭』に部屋をとってあるし、クノスペ一の歌妓マリア・ルーツィエが私の無聊を慰めてくれることになっている。彼女に会うのは実に半年ぶりでね」

「……貴方って油断も隙もないですね。心配して損しました」

 ヨーゼフが殊更に呆れた声を出した。柔らかな感情、穏やかな言葉は、別れを辛くする。

「まあ、マリア・ルーツィエとの逢瀬を楽しんでください。酒と煙草はほどほどに、まあ、―――お元気で。戻りますから」

 ヨーゼフは言い、それきり黙した。メルヒオールも黙し、振り返ることなく河辺を離れる。

 白銀の星が、三人と一人を静かに見つめていた。


 五月の陽射しが若葉の光沢を煌めかせる中、アルトアイゼン城の一室に少年の声が響いている。

「ヨーゼフ、オイゲン!何してるっ!今日はアルトアイゼン王国摂政殿下と、宮廷顧問官ヴォルフェンビュッテル伯爵殿との婚礼の儀が行われるんだぞ!―――姉上とルドルフのっ!!早く支度しなきゃ!!」

「申し訳ございません、ラインハルト王太子殿下。オイゲンのクラヴァットが上手く結べないのです。緊張しているんですねえ」

 黒天鵞絨の式服姿のヨーゼフはのんびりと言い、鏡の前で悪戦苦闘しているオイゲンを、これまたのんびりと見ている。オイゲンはようよう、

「む、結べました……王太子殿下。申し訳ございません」

 端正な顔を赤くし、律儀に言う。部屋の片隅に佇むメルヒオールはくっくっと笑い、

「それでは参りますかな、ラインハルト王太子殿下」

 一同を促し、式場に向かった。

 金色の陽射しが傍らの植え込みにまつわりつく回廊を歩きながらラインハルトは、

「さっき姉上の結婚衣装姿を見て来たのだけど、綺麗だった。姉上はとてもお綺麗でいらしたぞ!真珠のネックレスもイヤリングも、ドレスのレース飾りも、とても似合っていらした!ルドルフの式服姿もカッコよかったけど、やっぱり姉上が一番お綺麗だ!」

「そうですか……」

 オイゲンは目を細め、

「次なる慶事は、ラインハルト王太子殿下の戴冠式となりましょう。殿下は背も高くなられ、体つきも逞しくなられました。何より殿下の魔術の才、知識、腕前は卓越したものでいらっしゃいますゆえ。聖マルティヌス騎士団長にしてラインハルト王太子殿下の護衛騎士オイゲン・ゲオルク、とても楽しみに致しております」

「そうか」

 ラインハルトが照れたような、嬉しそうな笑いを浮かべた。その顔は愛くるしさより、聡明と高雅の色合いがいや勝りつつある。

 後に続くヨーゼフとメルヒオールは、

「君の式服姿はまだ堅苦しいな、宮廷魔術師筆頭ヨーゼフ。何とやら、借り着のようだ」

「貴方こそ七宝の鎖が捻れていますよ、宰相閣下。それを流行の飾り方と言われるのなら、話は別ですがね」

 皮肉の応酬をしているのだが、その顔に浮かぶのは屈託ない笑顔だ。ややあってヨーゼフはふと真顔になり、

「しかし本当に宜しいんですか?ゾフィー・マティルデ摂政殿下も、宮廷顧問官ヴォルフェンビュッテル伯爵閣下も。不敬の罪でアルトアイゼン王国を出た札つきの魔術師を、婚礼の儀にお呼びになられるなど」

「君は存外に心配性なのだな、ヨーゼフ。君の列席はヴォルフェンビュッテル伯爵殿のみならず、ゾフィー・マティルデ摂政殿下たってのお望みなのだから、気にすることはない。それにここ数年に渡る摂政殿下の善政がアルトアイゼンの平和と安寧を回復させたおかげで、民心も収まっている。君は婚礼の儀に出席させていただけば良い。いつものように、取り澄ました顔をして」

「……わたしも無茶苦茶を言いますが、貴方もなかなか仰有いますねえ」

呆れたような照れくさそうな笑いを浮かべるヨーゼフに、メルヒオールは落ち着いた様子で、

「この父にしてこの子ありという古人の警句を知らないのかね、ヨーゼフ」

「知っていますし身を以て実感していますよ、父上」

「君もかね、ヨーゼフ。私もだ」

 声を合わせ、二人は笑った。爽風(そうふう)が回廊を吹き抜ける。

「……まあ。しかし、悪くはない……」

 メルヒオールは呟き、碧玻璃の空を見上げた。五月の陽射しが、一同を穏やかに包んでいる。


 金色の髪に空色の瞳が美しい姫君と弟の王子様。心の真っ直ぐなその護衛騎士。とても意地悪だけれど本当に優しい、黒髪に闇色の目の魔術師父子のお話は、これでおしまいです。

 そして魔術師ヨーゼフ・ハインの醜聞を、王子様と姫君が明るみに出すことはありませんでした。

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魔術師ヨーゼフ・ハインの醜聞 うさぎは誇り高き戦闘民族 @darkness-usagi

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