第16話 ヨーゼフ・ハインの醜聞 前編
「この……冷や飯食い上がりの役立たず!!」
アルトアイゼン城の中庭の沈黙を引き裂いたのは、エルネスティーネ・マリーアの甲走った罵声だった。その表情は狂気じみた憤怒で青ざめ、不自然に引きつってさえいる。
オイゲンとルドルフは呆気にとられた様子で、ヨーゼフは冷淡な闇色の眼差しで、エルネスティーネ・マリーアを見つめている。
汚れた残雪に倒れ伏したアドルフ・ベルントルトは辛うじてその顔を兄嫁に向け、憎悪を込めた青黒い目でエルネスティーネ・マリーアを睨み返した。
「……黙れ。この、浅ましい女悪魔め!!」
「まあ、わたくしを侮辱なさる気?!兄殺しの役立たずの分際で!!」
凄まじい勢いでアドルフ・ベルントルトに歩み寄り、血と泥に汚れたその顔を蹴り付けようとしたエルネスティーネ・マリーアを、フォーアマンが押し留めた。ルドルフに守られるゾフィー・マティルデとラインハルトは、蔑みと憐れみ、哀しみの入り混じった空色の目を、半ば狂った母に向けている。エルネスティーネ・マリーアは激怒のあまり歪んだ口元から泡を飛ばしながら、
「わたくしの夫にして前国王エルンスト・マクシミリアンを殺(あや)め、己がアルトアイゼン最高権力者となったあかつきにはわたくしを王妃にする。いいえ、わたくしを己(おの)が共同統治者にすると貴方は仰有いましたわ、確かに!!そして蜘蛛を操りアルトアイゼンの不穏分子を消し、ラインハルトとゾフィー・マティルデをも亡き者にし、エルンスト・マクシミリアンの血筋を絶やす。わたくしとの子を王太子に据え、ブロイエホルツ、ファールシュ、ユーバーヘーブリヒへも蜘蛛を尖兵として送り込む。そうして近隣諸国を掌中にするとも、貴方は!!」
「黙れ!!己が欲望しか頭にない見下げ果てた毒婦め!!醜悪極まりない女悪魔め!!」
「―――貴方がたは何を仰有っておられるのですか。叔父上、そして母上」
ゾフィー・マティルデの異様に静かな声が、権力の座から失墜し、破滅したアドルフ・ベルントルトとエルネスティーネ・マリーアに降り注いだ。ゾフィー・マティルデの隣に佇むルドルフも、氷漬けになったかのようなサファイアブルーの眼差しを、罵り合いを続ける二人に向けている。ヨーゼフはラインハルトに歩み寄ると、少年の肩にそっと手を置いた。ラインハルトはヨーゼフの胸元に顔を埋めることをせず、叔父と母の醜態を無感動に見つめている。
「ゾフィー・マティルデ!わたくしの娘!!ラインハルト、わたくしの愛(いと)し子(ご)!」
ゾフィー・マティルデとラインハルトの氷の侮蔑に恐れをなしたのか、己が身の破滅が恐ろしいのか。エルネスティーネ・マリーアは大仰な仕草でゾフィー・マティルデとラインハルトの前に身を投げ出し、
「わたくしはこの男―――アドルフ・ベルントルトが夫エルンスト・マクシミリアンを殺めることに手を貸したわ!けれどもそれはこの男がそうであったように、我欲のためではないの!ラインハルト、貴方の父親が貴方にしたことを覚えているでしょう!まだ幼い貴方を、あの男は酷く打ち据え、罵っていたわね!!」
「………!」
ラインハルトの幼いながらも聡明に整った顔がいっそう青ざめ、両の手は拳を握った。ヨーゼフの闇色の双眸が凄惨の光を宿す。
しかし古傷を抉られたラインハルトの屈辱と痛みを、エルンスト・マクシミリアンへの怒りだと誤解したのか。エルネスティーネ・マリーアはなおも、
「信じて頂戴、わたくしのラインハルト、わたくしのゾフィー・マティルデ!わたくしはエルンスト・マクシミリアンの粗暴から貴方たちを守るため、夫を殺めたのよ!貴方たちのために!!」
「だけど母上はさっき、蜘蛛で私と姉上を亡き者にし、母上と叔父上の子を王太子に据えると言っていた。叔父上の執務室では、私と姉上をどこかに幽閉しろと叔父上に言っていた。私と姉上の守り役のヨーゼフに言いがかりをつけ、ヨーゼフを断頭台に送れとも言った。……どこに私たちの『ため』があるんだ!!そんなものはどこにもない!!いい加減なことを言うな!!」
ラインハルトの怒りの叫びが中庭に響いた。ヨーゼフは無言で、エルネスティーネ・マリーアを睨み据えている。オイゲン、ルドルフ、フォーアマン、ヴェルナーとヘルベルトに身を支えられたメルヒオールも、また。
ラインハルトの剣幕、周囲の嫌悪と侮蔑に恐れ慄いたのだろう。エルネスティーネ・マリーアは蒼白な顔を引きつらせたが、その薄青の目に狂気じみた狡猾さを浮かべ、
「く、蜘蛛を貴方たちに差し向けたのは、子を鍛えたいというわたくしの親心ゆえのこと。執務室での言葉は、貴方とゾフィー・マティルデがわたくしを脅したものだから……オースターグロッケの古城に行けと。わたくしに責はないわ」
「………!!」
ゾフィー・マティルデの空色の目に、激情が燃え盛った。そんなゾフィー・マティルデをヨーゼフは静かに制し、
「ゾフィー・マティルデ殿下。殿下とラインハルト王太子殿下のお怒りは至極当然のことと存じます。しかしながらこの女は、両殿下がその手を汚されるに値せぬ女です。ですからわたくしが―――」
ヨーゼフは何の感情も混じえずに言い、エルネスティーネ・マリーアの頬を平手で激しく打ち据えた。エルネスティーネ・マリーアはひとたまりもなく庭土に倒れ込み、得意の悲鳴をあげることも叶わぬ様子だ。打たれた頬を両手で押さえ、ひいひいと泣き声をあげている。数人の聖マルティヌス騎士団員たちが進み出、エルネスティーネ・マリーアを無感動に抱き起こすと両脇を抱え、引き摺るようにして城に運び入れた。アドルフ・ベルントルトも同様の扱いを受け、城内に姿を消した。ややあって、
「さて」
ヨーゼフは小気味の良い音をたてて手を払い、
「ではわたしはお暇(いとま)しますかねえ。このアルトアイゼン王国から」
「……!!」
オイゲン、ルドルフ、ブランツ、宮廷魔術師たちと騎士団員、そしてメルヒオールの顔色が明らかに変わった。
「ヨーゼフ、貴方はどこへ?!いえ、貴方がどうして?!」
覚えず駆け寄ったゾフィー・マティルデをヨーゼフは静かに見つめ、
「ゾフィー・マティルデ殿下。わたしは宮廷魔術師の身でありながら、殿下の母君であらせられる前国王妃殿下を打ち据えました。アルトアイゼン王家の方に、わたしは不敬の罪を犯しました。不敬の罪は大罪でございますゆえ、アルトアイゼン王国にわたしが留まることは叶いますまい」
「ヨーゼフ!!貴方はわたくしの手を汚させまいとして、わたくしの気持ちを解して、母上を打ち据えたのです!真の罪咎は貴方にありません!!」
「姉上が言われる通りだ!!ヨーゼフが悪いんじゃないんだっ!!ヨーゼフが……」
必死で守り役を庇おうとする姉弟を、ヨーゼフは穏やかに見つめ、
「両殿下のお気持ちは誠にありがたいのです。しかしこれほどの醜聞が明るみに出た以上、アルトアイゼン王国国民の王家に対する敬意、信頼の失墜は免れ得ますまい。ですが不届き者の宮廷魔術師が前国王妃殿下に不敬の罪を働き、罰としてアルトアイゼンを追われたとあらば、衆目はわたくしの醜聞にも集まりましょう。アルトアイゼン王家の醜聞への関心は、幾らか薄れることでしょう」
「……っ、……っく……」
泣きじゃくるラインハルトの明るい金髪を、ヨーゼフは優しく撫でた。
「そうご案じなさいますな、ラインハルト王太子殿下。わたしはこういう男ですからね。どの国のどの街に行っても、結構楽しくやっていきますよ。―――そうそう、オイゲン」
「……なんだというのだ、ヨーゼフ」
ヨーゼフが独断でアルトアイゼン王国出立を決め、そして自分は蚊帳の外に置かれた格好のオイゲンは不機嫌さをあらわにしている。ヨーゼフは吐息をついてラインハルトから身を離し、オイゲンを見つめた。
「貴方はそのぶっきらぼうな口調、今くらいはなんとかなりませんかねえ。一生における重大事を、貴方に言おうとしているってえのに」
「……!」
オイゲンが総身を緊張させた。端正な面長の顔、切れ長の碧眼がヨーゼフをひたと見つめる。ヨーゼフは照れたように笑い、
「……まあ良いです、貴方らしくって。オイゲン」
「宮廷魔術師ヨーゼフ・ハイン。聖マルティヌス騎士団員オイゲン・ゲオルク・ヴァイスシルトは、貴方の言葉であればどのような言葉でも受け容れる用意が出来ている」
オイゲンの凛とした声音にヨーゼフは頷き、
「オイゲン・ゲオルク。わたしは貴方との約束を果たしたいがため、宮廷魔術師になりました。ブロイエホルツへ旅立つ貴方と再会し、共に笑い、共に泣き、そしてまた共に笑い合いたいがため、貴方と共に在りたいがために」
「………」
「ですからオイゲン、これからもわたしと共に在ってください。どうかわたしの旅路の傍らに在ってください。わたしは貴方を守り、貴方に守られたいと思っています。オイゲン・ゲオルク」
微かに潤んだ闇色の双眸がオイゲンを見つめる。メルヒオールがほっと吐息をついた。ゾフィー・マティルデは、寂寥とも安堵ともつかぬ笑みを端麗な美貌に浮かべた。一陣の寒風が中庭を吹き抜ける。傍らのルドルフはコートを脱ぎ、ゾフィー・マティルデの肩にそれを着せかけた。肝心のオイゲンはというと、
「……私で良ければ……。ありがとう、ヨーゼフ……。私は貴方を大切にする……。守る……。共に在る……」
どう見ても、ようやっと保護者を見つけた迷子である。しかしながらヨーゼフは肝が据わっているのみならず、オイゲンに求婚を申し込むだけのことはある。オイゲンに幻滅したり呆れたりした様子はなく、
「ちょっと落ち着いてください。それにオイゲン、私で良ければというのは少し引っかかるんです。わたしは貴方じゃなきゃ嫌なんです」
「……私も貴方じゃなきゃ嫌だ……。旅に出る……」
「……貴方、聖マルティヌス騎士団の問題児って聞きましたけどね。どんな問題を起こしたんです?泣いて駄々をこねたとかじゃあないですよね?」
さすがに呆れた口ぶりのヨーゼフの背に、元気いっぱい抱きついたのはラインハルトだった。
「やっぱり決めたんだっ!私もヨーゼフ、オイゲンと一緒に行くぞっ!」
涙の跡の残る頬、潤んだ空色の目のまま、それでもにっこりと笑う。ヨーゼフは振り返り、
「殿下……。本当にそう考えていらっしゃるのですか?わたしは貴方の母君に不敬の罪を犯した罪人です。そのわたしとあてのない旅に出ると、殿下は」
ヨーゼフの声は厳しい。だがラインハルトはヨーゼフを真っ直ぐに見つめ、
「さっきのヨーゼフたちと蜘蛛の戦い、叔父上と母上の真意を見て思ったんだ。―――私はもっと沢山のことを知らなきゃならないし、強くならなきゃいけない。本当の賢さと勇気を身に付けて、物事を見極めるようになりたい、って。だからヨーゼフとオイゲンと一緒に、色々な国、人々を見たいんだ。色んな国を見て回って、知識と強さを身に付けたいし、人の心についてもっともっと知りたい。それにヨーゼフがオイゲンだけを連れて行くなんてずるいしっ!ヨーゼフは私の守り役だし、私だってヨーゼフがすごく好きで、お嫁さんにしたいって思ってたしっ!」
さすがにヨーゼフ、ルドルフは噴き出し、フォーアマンも目尻に皺を寄せた。オイゲンだけは何とやらん、苦笑を浮かべようとして上手くいかなかった様子をしている。
ラインハルトは照れくさそうに笑ったが、直ぐと顔を引き締め、
「そして自分がアルトアイゼン王国国王に相応しいって思えるようになったなら、アルトアイゼンに帰るんだ。ヨーゼフとオイゲンと一緒に、アルトアイゼン王国に帰る。必ず帰るから。―――姉上」
空色の瞳がヨーゼフ、オイゲンを見、ゾフィー・マティルデを見た。ゾフィー・マティルデは小さく息をついたが、それも束の間のこと。白薔薇を思わせる面差しに凛然とした色合いを浮かべ、
「ラインハルト。貴方の思いは解しました。わたくしは貴方とヨーゼフ、騎士オイゲンが戻るまで、摂政(せっしょう)としてアルトアイゼン王国の舵取りをしてゆきましょう。宰相シュヴァルツレーヴェ伯爵殿、宮廷顧問官ヴォルフェンビュッテル伯爵殿、聖マルティヌス騎士団長ブランツらと共に」
「分かりました、姉上!ありがとうございます!必ずアルトアイゼンに戻ります!」
ラインハルトの空色の瞳は、喜びの中にも毅然とした意志を宿している。ヨーゼフとオイゲンはその場に恭しく片膝を付き、
「承知致しましてございます、ゾフィー・マティルデ摂政殿下。アルトアイゼン王国宮廷魔術師ヨーゼフ・ハインは必ずやラインハルト王太子殿下の御身をお守り申し上げ、アルトアイゼンに帰って参ります」
「聖マルティヌス騎士団員オイゲン・ゲオルク・ヴァイスシルトも、ラインハルト王太子殿下の御身をお守り申し上げます。騎士オイゲン・ゲオルクは、摂政殿下のご期待に背くことを断じて致しますまい」
ゾフィー・マティルデは頷き、傍らのルドルフたちを見やった。
「ラインハルト王太子、宮廷魔術師ヨーゼフ・ハイン、騎士オイゲン・ゲオルクはこのように申しております。宰相殿、宮廷顧問官殿、騎士団長ブランツ、騎士フォーアマン、わたくしに力を貸し、摂政の補佐を担ってくれますね?アルトアイゼン王国に秩序と安寧を取り戻す助力をしてくれますね?」
「かしこまりましてございます、ゾフィー・マティルデ摂政殿下」
ブランツとフォーアマンが――恭しく、毅然と――言った。ルドルフも庭土に膝を付き、
「かしこまりましてございます、ゾフィー・マティルデ摂政殿下。ヴォルフェンビュッテル家当主の名誉に賭けまして、必ず」
サファイアブルーの瞳がゾフィー・マティルデを見つめた。肩に掛けられたルドルフのコートに、ゾフィー・マティルデはそっと手を触れている。
「……かしこまりましてございます、ゾフィー・マティルデ摂政殿下」
メルヒオールの声は幾分弱々しい。周りはそれを、メルヒオールが総身に負っていた矢傷のためだと思ったようだ。―――ヨーゼフを、除いて。
「……では参りましょう、ラインハルト王太子殿下。この旅は長旅となりますゆえ、ご支度が必要でしょう」
ラインハルトの肩に手を当て、踵を返そうとしたヨーゼフに、
「ヨーゼフ!」
メルヒオールの声がかかった。その声が激情を孕んでいることに、居合わせた者たちは気付いていた。ヨーゼフは歩みこそ止めたものの、振り返ることなく黙している。
「……」
「ヨーゼフ!!ヨーゼフ・ハイン!!」
「……」
「ヨーゼフ!!君に咎はない!!蜘蛛を退治し、アドルフ・ベルントルトの企みを暴いたのは君だ!!アルトアイゼン王国の安寧を取り戻したのは君の……。君に咎などない!!あってたまるものか!!ましてや君が罪人などであろう筈は……!!」
それ以上は言葉にならないメルヒオールを、ヨーゼフは静かに制した。
「直ぐに戻りますよ、宰相閣下。しかしまあ、路銀は多い方が良いですねえ。―――ヴェルナー、ヘルベルト、フロイライン・ヘルガ、宮廷魔術師のお歴々、宰相閣下のお守りをよろしくお願いしますよ」
ヨーゼフは言葉こそお道化ていたが、その声は明らかに震えていた。メルヒオールの端然たる面差しがいっそう歪む。
「なあに、直ぐ戻りますよ……」
メルヒオールと己に言い聞かせるかのようにヨーゼフは言い、ラインハルトを促して中庭を後にした。その白い頬が一筋の清らな光で濡れていることに、傍らのオイゲンは気付いていた。
オイゲンの長くはあるが無骨な指が、ヨーゼフの背に優しく触れた。ラインハルトの温かい手が、ヨーゼフの手を握った。
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