第15話 ヨーゼフ・ハインは容赦をしない。 後編

「ヨーゼフ!」

 廊下を走り、階段を駆け下りるヨーゼフに、オイゲンが声をかけた。相手を思って自ら身を引いたとはいえ、別離と失恋の痛みを感じているヨーゼフは、

「なんです?寝不足で頭痛がするんですか?」

「私は貴方との約束を果たしたいがため、聖マルティヌス騎士団員になった」

 オイゲンはヨーゼフの素っ気なさに困惑した風もなく、切れ長の碧眼を美男の魔術師に向けている。

「そう言っていましたねえ」

「だが貴方はどうなのだ、ヨーゼフ。貴方も私との約束のため、宮廷魔術師になったのか?」

「そりゃそうです」

 ヨーゼフの言葉にオイゲンは幾分の安堵を見出したようだ。だが先刻のゾフィー・マティルデとの様子が何とはなしに面白くなかったのだろう、

「……ならば何故、貴方は私にそう言ってくれなかった」

「あのねえオイゲン」

 駄々っ子のようなオイゲンに、ヨーゼフはとうとう苛立った声を出した。

「わたしだって考えているんです、段取りっていうものをね。求婚というのは一生における重大事だと、これでもわたしは思っているんですから」

「………」

 何とやらん、話は思いも寄らぬ方向に向かっている。オイゲンは目をぱちくりさせた。ヨーゼフは些か苛立たしげに、また些か楽しげに、

「だからその言葉の一部だけを先に言うのはどうかと思うんですよ。間が抜けやしませんかね。わたしにだって男の面子(めんつ)ってものがあるんです。その辺を考えてくれませんか」

 オイゲンがこくりと頷いた。

「分かった。考える。……しかしヨーゼフ」

「まだ何かあるんですか?」

「……その、いつ、貴方は言ってくれるのだ。……その言葉を……」

「折を見て言いますよ。早い方が良いとは思っていますがね」

 根が合理的に出来ており、かつ色だの恋だのの経験豊富なヨーゼフは淡々としたものだ。だが恋愛経験が皆無に近い――あるいはヨーゼフへの片恋以外経験したことがないし、する気もない――オイゲンは端正な面差しを真っ赤にし、

「……ならば、い、言って欲しい……。その、く、蜘蛛を倒したならば……。私にはその、……いつでも貴方の言葉を受け容れる用意がある……」

「これはまた、短兵急ですねえ」

 ヨーゼフは朗らかに笑ったが、直ぐ様頬を引き締め、

「まあそうしますよ。しかしその代わり、貴方は何があっても生きてください。わたしも生きますから、オイゲン・ゲオルク」

「分かった。騎士オイゲン・ゲオルクは貴方の期待に背くことをしまい、ヨーゼフ・ハイン」

 闇色の双眸と切れ長の碧眼が互いを見つめ、魔術師と騎士は頷きを返し合った。


「世の中というのはなかなか思うに任せぬものだ。求婚の承諾が遅れてしまう」

 中庭に走り出たオイゲンは忌々しげに――かなり的外れなことを――言い、舌打ちをした。その碧眼に映じるのは、冬の澄み切った蒼天を埋め尽くすかのように乱舞する異形の姿だった。不気味に黒光りする体、襤褸の巻き付けられた頭部に描かれた血文字、氷柱の如き爪を生やし、枯死した枝を思わせる腕、腕、腕―――蜘蛛の群れだ。それも、オイゲンがヴォルフェンビュッテル家地下墓地で目の当たりにした以上の大群を為している。傍らのヨーゼフは淡々と、

「何呑気なことを言ってんです。そんな暇があるなら、この迷惑極まりない大騒動を起こした張本人をやっちゃってください。ほらあすこ、月桂樹の木蔭で魔杖を構えていらっしゃるお方ですよ」

 淡々と言いつつも、ヨーゼフの行動は素早い。妖美な夕焼けさながらの色彩と光芒を宿すオパールが先端に象嵌された魔杖ビルガーを、上着のポケットから取り出す。オイゲンもまた、ソードベルトの鞘からレイピアを抜き放った。二人の姿を認めたと見え、アドルフ・ベルントルトは片頬を歪めた笑いを笑った。青黒いその目が、異様にぎらつく熱気を帯びている。追い詰められた狂気の魔術師の背後に身を隠しているのは、エルネスティーネ・マリーアだ。

 アドルフ・ベルントルトは魔杖――漆黒の杖の先端部にダイヤモンドの象嵌された――を掲げ、

「目覚めよ魔杖クヴァール。汝が主(あるじ)アドルフ・ベルントルト・フォン・アルトアイゼンが命ず。汝が主の血と破滅を願わん者を屠れ!さこそ汝が誉れにして汝が忠義!九百九十九の理を越えた蜘蛛をこれへ呼べ!」

 アドルフ・ベルントルトが叫び終えるや否や、クヴァールが真闇の光を放った。それが合図であったかのように、蜘蛛の大群がオイゲンとヨーゼフを目がけ、一散に降下してくる。碧玻璃(へきはり)の空を裂くかのような勢いの蜘蛛に、だがヨーゼフは動じた様子もなく、

「我が魔杖ビルガー!なすべきことを全てなせ!!」

 美男の魔術師は予め魔杖を稼動させていたと見え、事は迅速に済んだ。ビルガーが清らな白光を放ち、それはヨーゼフとオイゲンの総身、そしてオイゲンのレイピアを柔らかく包み込んだ。

「わたしと貴方の体には身体能力強化魔法と防御魔法を、貴方のレイピアには治癒魔法をかけました。オイゲン」

 ヨーゼフは言い、にっと笑った。不敵な笑みを浮かべたまま、ビルガーを迫り来る蜘蛛の群れに向ける。

「だからやっちゃってください。こんな風にね!」

 魔杖ビルガーが純白の光を蜘蛛に放った。と見るや、光輝に包まれた蜘蛛は跡形もなく消えた。オイゲンは頷き、眼前に迫る一際大きな体躯の蜘蛛に凄まじい刺突を加えた。蜘蛛が消えるのを認めるや否や、傍らの蜘蛛にも的確かつ力強い刺突を打ち込んでゆく。そして刺突が加えられるたび、ビルガーが真白(ましろ)き光弾を放つたび、蜘蛛の数は減じてゆく。―――二十匹、三十匹、……五十匹と、確実に。

「……なっ……!!」

 絶句し、立ち尽くしたなりのアドルフ・ベルントルトを、ヨーゼフは無感動に見やり、

「覚えていらした方がよろしいですよ、アドルフ・ベルントルト陛下。貴方が本心を見せようとしないその者もまた、貴方に本心を明らかにしないということをね。わたしたちはこれで、蜘蛛の弱点や正体を突き止めていたんです。不死者、―――地獄の獄卒は確か、聖なる治癒魔法が命取りでしたか」

「……小癪な若造が!下賤の出が!!」

「他に言葉を知らないんですか。貴方は魔術の腕前も凡庸なら、悪口(あっこう)の語彙も凡庸ですねえ」

 ヨーゼフは口ぶりこそ物憂げであったが、背後を振り返る仕草は敏捷だった。中庭に駆け付けたヴェルナー・ゼルテ、ヘルガ・カトリーン・ユンゲ、ヘルベルト・ニーマンら特級位魔術師四人、上級位魔術師十二人にビルガーを向け、その身を白光で包む。

「身体能力強化魔法、防御魔法です!後はヴェルナー・ゼルテの指揮に従い、聖マルティヌス騎士団員たち、ブランツ騎士団長殿、ヴォルフェンビュッテル伯爵閣下と騎士フォーアマンを補佐してください!そしてラインハルト王太子殿下とゾフィー・マティルデ殿下を守って差し上げてください!!」

「………!!」

 ヨーゼフの銀の如き美声に、宮廷魔術師たちは力強い頷きを返した。彼らの後に続く騎士団員、ブランツ、ルドルフ、フォーアマンに防御魔法と身体能力強化魔法を施し、レイピアの剣身に治癒魔法をまとわせたのは上級位魔術師たちであり、蜘蛛の群れに治癒魔法の光弾を放ったのは特級位魔術師たちだ。純白の光芒が、光芒をまとうレイピアが、蜘蛛を消してゆく。

 ラインハルトとゾフィー・マティルデの両脇にはルドルフとフォーアマンが毅然と立ち、レイピアの切っ先を蜘蛛に向けている。

「……邪魔立てをしおるかあああ!!下賤の卑劣な叛逆者どもがあああ!!」

 アドルフ・ベルントルトの叫びは、それと分かるほどの焦燥と混乱を孕んでいる。―――この者たちも私を蔑み、私を不要の存在と言い、私を追い詰めるのか。嘗て兄エルンスト・マクシミリアンが私を追い詰めたように!!

 純白の竜さながらの光が青空を裂いたのはその時だ。と見るや、真白き竜に撃たれ蜘蛛は消えた。オイゲンの碧眼が驚愕で見開かれる。

「……ヨーゼフ!」

「少なく見積もっても蜘蛛の三十……いや、四十匹はあれで消し飛びましたねえ。しかしまあ」

 ヨーゼフは呆れたような咎めるような眼差しを、傍らのメルヒオールに向けた。宰相は紫のケープマントを脱ぎ、魔弓ヴィルヴェルヴィントに白光を帯びた銀の矢をつがえている。

「なんで貴方がここにいらっしゃるんです。前にご教示申し上げやしませんでしたかね?宰相閣下が血塗れの剣を掲げ、城塞を駆け巡る戦は負け戦ですって」

「ヨーゼフ・ハイン。私だとて腹が立つ時はあるのだ」

 メルヒオールは淡々と――だが有無を言わせぬ激情のこもった声で――言い、雲霞の如き大勢(たいぜい)の蜘蛛に二の矢を射た。蜘蛛が消え、漆黒の異形に埋め尽くされていた蒼穹の一隅があらわとなった。

「そして、守り抜きたいものもあるのだよ。今の君がそれを守るため、懸命になっているようなものが」

「……分かりましたよ。しかしご自慢の胸甲の有無だけは確認させてください」

「それならば心配は要らない、ヨーゼフ・ハイン」

 メルヒオールのバリトンに、僅かながら愉快そうな気色が見えた。背に負う矢筒――蔓薔薇の銀細工が施されている――から治癒魔法の光芒をまとう銀の矢を抜き取り、ヴィルヴェルヴィントにつがえる。手慣れた仕草で弦を耳の後ろまで引き、矢を放つ。真白の光を帯びた銀の矢は、蜘蛛の大群に吸い込まれ行(ゆ)くかと見える。

矢が蜘蛛の群れを射た。漆黒が消え、碧玻璃の煌めきがのぞく。

「……!」

 矢継ぎ早に数百匹の蜘蛛を消し去ったメルヒオールに、オイゲンは驚嘆の念を隠し切れずにいる。だがヨーゼフはあくまでも淡々と、そして幾分楽しげに、

「宰相閣下は相当なる強弓を扱われますが、精度も相当なものでいらっしゃるんです。しかしながら最も得意とされるのは速射なんですよ」

「………」

 ヨーゼフとの些細な夫婦喧嘩、怒り狂う血眼の義父メルヒオール、ヴィルヴェルヴィントの苛烈な速射から必死で逃げ惑う自分―――オイゲンの脳裏に描かれた些か飛躍した未来図は、このようなものだった。

 もっともオイゲンは根が生真面目かつ実際的な男なので、眼前の蜘蛛に刺突を加え、傍らの蜘蛛に斬撃を加えるその動きに何ら迷いはなかった。

 今やアルトアイゼン城の中庭には、一つの流れが展開されていた。治癒魔法をまとうレイピアを駆使し、蜘蛛に刺突や斬撃を加える聖マルティヌス騎士団員たち。蜘蛛に治癒魔法の光輝を放つ特級位魔術師たち。そんな彼らに防御魔法、身体能力強化魔法のみならず治癒魔法を使う上級位魔術師たち。―――すなわち、前回の蜘蛛との戦いの経験に裏打ちされた、戦術という名の流れだ。

「ゾフィー・マティルデ殿下!」

 ルドルフの凛然たる声が響く。ヴォルフェンビュッテル家当主たるこの武人は、その無骨な左手でゾフィー・マティルデの肩を抱き寄せ、右手のレイピア――ルドルフ愛用の剣ブリッツシュラークだ――は蜘蛛に刺突を打ち込んでいた。天性の才能と騎士としての鍛錬を本能に昇華させたかのような、精強でありながら流麗な動きだ。

「やはりヴォルフェンビュッテル伯爵閣下は、卓越した武人にして仁物でいらっしゃいます」

 ヨーゼフは頷き、玲瓏たる面差しをアドルフ・ベルントルトに向けた。真面目さと人の良さだけが取り柄の男だとルドルフを軽んじていたアドルフ・ベルントルトを、冷ややかに見据える。その傍らではメルヒオールが、銀の矢を蜘蛛の群れに打ち込んでいる。黒曜の瞳に疲弊の色合いはない。

「……裏切り者ども!卑劣な者どもが!」

 アドルフ・ベルントルトはようようそれだけを言ったが、己が劣勢であることは認識せざるを得ない。―――このままでは蜘蛛の大勢を頼む前に、我が身が危うくなる。ならばあの男を……!!

 唐突とも言える仕草で、アドルフ・ベルントルトは魔杖クヴァールをメルヒオールとその矢筒に向けた。青ざめた顔、ぎらつく青黒い目、引きつったような笑いを浮かべる口元―――そのようなものをアドルフ・ベルントルトに認めたヨーゼフは、

「宰相閣下!」

 叫び、ビルガーをアドルフ・ベルントルトに向けた。オイゲンもレイピアの切っ先を嘗ての主君に向ける。弦を引くメルヒオールの指先が止まった。

 アドルフ・ベルントルトは嗤っていた。凄惨に。

 クヴァールの放つ漆黒の光がメルヒオールとヴィルヴェルヴィント、矢筒を包み込んだ。メルヒオールの身に施されていた防御魔法、身体能力強化魔法、銀の矢の治癒魔法が解かれたのだ。ヨーゼフはビルガーをメルヒオールに向け、無効化(むこうか)された魔法を再度、その身にかけようとした。メルヒオールはクヴァールから胸元を逸らし、鏃(やじり)をアドルフ・ベルントルトの腕に向けようとしている。

 矢筒が微塵に砕けたのはその刹那だ。

 ヨーゼフの闇色の双眸には、銀の矢が凄まじい勢いで突き立てられてゆくメルヒオールの総身、飛び散る真紅の飛沫、見る間に血染めとなるメルヒオールの白衣(びゃくい)、してやったりと言わんばかりのアドルフ・ベルントルトの陰惨な狂気の嗤いが映じている。―――クヴァールで銀の矢を操り、無防備となった宰相閣下の身を狙ったのか。

 ヨーゼフは冷ややかに――努めて冷ややかに――そう考え、狂気と絶望の叫びが口をついて出ようとすることを辛うじて防いでいた。しかしヨーゼフの常ならぬ雰囲気、何より血塗れで崩折れたメルヒオールの姿は隠す術(すべ)がない。宮廷魔術師、聖マルティヌス騎士団員たちの間を驚愕と動揺が走る。

「メルヒオールっ!!」

「宰相殿!!」

 ラインハルトとゾフィー・マティルデが、蒼白な顔でメルヒオールを呼んだ。メルヒオールの許へと身をもがこうとするラインハルトを押さえたのはフォーアマンだが、その顔はラインハルトに劣らず青ざめている。ゾフィー・マティルデを庇うルドルフは歯を食いしばっており、ヨーゼフ同様、悲憤と絶望の叫びを堪えていることに疑いの余地はない。

「ヨーゼフ!」

 オイゲンの鋭い声が中庭に響いたのはその時だった。切れ長の碧眼は、青炎(せいえん)を宿す宝玉のようだ。

「剣身の治癒魔法を炎術魔法に変えて欲しい。アドルフ・ベルントルトは私が仕留める。今の私はとても腹が立っているし、貴方には宰相閣下の治癒に専念して欲しい。ヨーゼフ!」

「分かりました!それからヴェルナー、貴方は魔術師たちの指揮を続けてください。宰相閣下の治癒は、わたしが引き受けます。貴方たちは騎士団員たちと力を合わせ、蜘蛛を!!」

 ヨーゼフは叫び、ビルガーをオイゲンのレイピアに向けた。魔杖から放たれた真紅の竜さながらの火焰が、剣身を幾重にも巻く。オイゲンは吠え、紅蓮の切っ先をアドルフ・ベルントルトの胸元に定めた。宮廷魔術師たちは無言で頷き合い、騎士団員たちとの連携を再開し始めた。ルドルフやフォーアマンたちも、平静を取り戻したようだ。

 魔杖クヴァールのダイヤモンド、その欠片(かけら)が空に散るのを視界の隅に認めながら、ヨーゼフはメルヒオールに駆け寄った。白い長衣は真紅の衣に変わっており、ぐったりと倒れ伏した小柄の体は惨たらしい矢衾のようだ。ヨーゼフがその身を抱き起こすと、掌は血で覆われた。メルヒオールの体はいつになく小さく、紙のように薄く感じられた。

 それでも黒曜の瞳は―――見る間に力を失いゆく黒曜の瞳はヨーゼフを認め、

「……ヨーゼフ……」

「口と全身から流血しながら何喋ってんです。黙んなさい」

 声が震えかけたのを、ヨーゼフはようよう押し留めた。両目を覆う涙の膜にメルヒオールは気付いただろうかと思った。胸元の傷に当てようとしたヨーゼフの右手を、メルヒオールはだが避ける素振りを見せた。はずみで唇の端から血が伝い落ちる。

「……私のことは、……捨て置き給え。……君が今なすべきことは、アドルフ・ベルントルト、蜘蛛と戦うことだ……。だが最後に……」

「………」

 ヨーゼフの顔がくしゃくしゃに歪んだ。メルヒオールは辛うじて息をつき、

「……私は君を、……名前で呼びたい……。ヨーゼフ……。ヨーゼフ……、君に父上と、そう呼ばれたい……」

「うるさい黙ってろ父上!!」

「………」

 認識という機能のみならず、意識を失いかけていたメルヒオールの瞳が、明らかに丸くなった。庭の片隅でアドルフ・ベルントルトを追い詰めていたオイゲンも同じ目をしてヨーゼフを見たが、直ぐ様やりかけの作業に戻った。やはり根が真面目な男だ。ヨーゼフはびしばしと、

「うるさいんですよ、治療に集中出来ないでしょうが。死にかけてる暇があるなら、衣服を寛(くつろ)げなさい!」

 言い、護身用のナイフで血塗れの衣服を切り裂く。総身に軽い治癒魔法を施し、血止めと体力回復を図る。治療の要(かなめ)はメルヒオールの残り僅かな体力をこれ以上消耗させぬこと、意識を失わせないこと、体に刺さった矢を全て抜き取り、迅速に治癒魔法をかけることだ。ヨーゼフは言っていることこそ滅茶苦茶だが、処置は的確である。

「蜘蛛はヴェルナーやヘルベルト、フロイライン・ヘルガたち特級位魔術師、ブランツ騎士団長率いる聖マルティヌス騎士団員に任せるんです。アドルフ・ベルントルトはオイゲンが仕留めますよ。だから貴方は大人しく、治癒魔法を施されていれば良いんです。ただし傷と闘う気力、生き抜こうという気力は失くさずにね」

「……なかなか、気の利いたことを言う……」

 メルヒオールがにやりと笑った。ヨーゼフは素っ気なく、

「貴方がわたしに教えたことですよ。だからもう一度言いますがね、死にかけてる暇があるなら生き抜くことを考えるんです。血が止まったからでしょう、体力が少し回復したみたいですね」

「……君の治癒魔法と、的確な毒舌のおかげだ……」

「それだけ皮肉が返せるなら大丈夫です。これから魔術で矢を全て抜き取り、治癒魔法をかけます。顔を拭いてもらう子どもみたいに、泣き喚いたりしないでくださいね」

 ヨーゼフは口ぶりこそ素っ気ないが、広い秀でた額には汗の玉が浮かんでいる。震えかけた左手で、何かを虚空に引き上げる仕草をする。メルヒオールの総身に突き立つ血塗れの矢が宙に浮き、ヨーゼフが左手を下ろすと同時に庭土に落ちた。鏃に抉られ、血と肉片の飛沫が散る。メルヒオールの凛々しく端然とした顔立ちが苦痛に歪んだ。ヨーゼフは右手を素早くメルヒオールの胸元に当て、

「痛いのは終わりです。大丈夫です」

 真白の光がメルヒオールの全身を包んでゆく。首筋、胸、両腕、両足に空いていた幾つもの真紅の穴が消え、白蝋のようだったメルヒオールの顔にも、少しずつ赤味が差してゆく。メルヒオールがほうっと吐息をついた。

「楽になった……。君のおかげだ、ヨーゼフ」

「貴方が気力を失わなかったからですよ。良く出来ました。胸甲の験もあったと思います。貴方は大丈夫ですよ、大丈夫。―――父上」

 メルヒオールが何かを言う前に、ヨーゼフは立ち上がった。メルヒオールから不自然に顔を背けているのは、涙の跡を見られたくないから、震える声音を悟られたくないからだろう。手先も立ち回りも器用なくせに、肝心のところが不器用なのは自分に似たのだと、メルヒオールは苦笑した。

「……君は何を……」

「まだ喋らない方が良いですよ。もう少ししたら体力も魔力も回復しますから、ちょっと我慢ですね。わたしはまあ、折角治癒魔法を使いましたので」

 ヨーゼフは淡々と言い、両腕を冬の蒼天―――蜘蛛の大群に向けた。

「こちらにもと思いましてねえ」

 ヨーゼフの掌に、白い光球(こうきゅう)が浮かぶ。と思いきや、それは見る間に巨大な光弾となり、ヨーゼフは庭土を踏みしめる両足に力を入れた。治癒魔法の真白な光輝が空に放たれる。数百もの蜘蛛が瞬時に消えた。

「……君の魔力は大丈夫なのかね、ヨーゼフ」

「貴方こそ、喋って大丈夫なんですかね」

 皮肉っぽく言い、振り返ったヨーゼフの唇がへの字に結ばれた。メルヒオールの半身を抱き起こし、掌からメルヒオールに白光を注ぎ込んでいるのはヴェルナー、ヘルベルトだ。メルヒオールはにやりと笑い、

「私ならば大丈夫だ。ヴェルナーとヘルベルトがこの通り、魔力と体力を分けてくれている」

「持ち場を離れて大丈夫なんですか、ヴェルナー…」

 とヨーゼフは何かを言いさしたが、ヘルガ嬢が己に寄り添い白い掌を肩に当て、魔力を分け与えてくれたので、何も言わぬことにした。

 庭の片隅、オイゲンの剣技に追い詰められ、右腕に傷を負ったアドルフ・ベルントルトの唇が微かに動いた。青ざめ、血と土に汚れたその顔に浮かぶものは、驚愕と絶望―――そして恐怖だ。

 澄み渡る蒼穹には今や、蜘蛛の姿は一匹もなかった。金色の陽射しが、中庭の立木や植え込みを照らしている。アドルフ・ベルントルトの表情に気付いたのだろう。ヨーゼフは事もなげに、

「あ、申し上げていませんでしたね。昨晩ヴォルフェンビュッテル家地下墓地に赴いた際、わたしは魔法陣にちょっとした細工をさせていただいたんです。ですから魔法陣の文言は今、こうなっているんですよ。―――我は地の底の獄舎より、この世に蜘蛛を招かん。九百九十九の。アドルフ・ベルントルト・フォン・アルトアイゼン」

「……魔法陣に制限を……。其方……!!」

 ヨーゼフは物憂げに頷いたが、闇色の双眸が宿す光は強い。

「そういうことです。まあ、貴方のしでかしたことに比べれば児戯に等しいんじゃないですか。そして聖マルティヌス騎士団員と宮廷魔術師、騎士団長殿、宰相閣下が消し去った蜘蛛の数は九百九十九匹を越えましたから―――」

「蜘蛛はもう現れない」

 オイゲンは冷ややかに言い、炎をまとうレイピアをアドルフ・ベルントルトの喉元に突き付けた。アドルフ・ベルントルトの青黒い目に、狂気じみた狡猾さが浮かんだ。背後のエルネスティーネ・マリーアの片腕を掴み、その身をオイゲンに押しやる。エルネスティーネ・マリーアがけたたましい悲鳴をあげていることにはいっかな頓着せず、アドルフ・ベルントルトは懐から一枚の大ぶりな羽根を取り出した。純白のその羽根を認めたのはラインハルトだ。―――魔道具だ!ヨーゼフが前に教えてくれた、天馬(てんま)の羽(はね)だ!

 ラインハルトの空色の目が、ヨーゼフを真っ直ぐに見やった。

「ヨーゼフ!叔父上が天馬の羽を―――移動(いどう)魔法(まほう)を使おうとしているっ!」

「!……城から逃げる気か」

 叫び続けるエルネスティーネ・マリーアを脇に退け、オイゲンはレイピアを構え直そうとした。だがヨーゼフは妙に落ち着いていて、

「移動魔法を使うにしても何にしても。逃げようっていう気力体力があるうちは、まだまだ幸せなんですよ。本当の地獄っていうのはこれからですよ、これから!今のわたしはすこぶる機嫌が悪いんです」

「………」

 そうだった、ヨーゼフが妙な落ち着きを見せるのは激怒している時だったと、遠い目をしたオイゲンは少年の日を思い出している。―――自分を手ひどく殴り、泣かせた悪童に、ヨーゼフはその場では素知らぬ風をしていた。しかしヨーゼフが件の悪童を手製の木の槍で散々に小突き、用水路に突き落としたのはその翌日のことだった……。

 閑話休題。話をオイゲンの少年の日から、今の中庭に戻そう。

 ヨーゼフは魔杖ビルガーを構え、周章狼狽するアドルフ・ベルントルトに一撃を放った。より正確に言うならば、アドルフ・ベルントルトの両足に、ビルガーで炎術魔法の容赦ない一撃を放ったのだ。

 めらめらと捻れる紅蓮の炎に足を苛まれ、右腕はオイゲンの火焰の刃で使いものにならなくされているアドルフ・ベルントルトは、苦痛と錯乱の悲鳴をあげた。その身を引き摺るようにし、ルドルフに左手を伸ばす。生真面目と律儀だけが取り柄のルドルフならば、己をヨーゼフやオイゲンに取りなしてくれると考えたのだろう。

しかしルドルフは、アドルフ・ベルントルトの手を取ることをしなかった。凍てついたサファイアブルーの瞳で嘗ての主君を見下ろしながら、ヴォルフェンビュッテル家当主は毅然と言い放った。右の拳を固く握り締めながら。

「ルドルフ・マンフレート・フォン・ヴォルフェンビュッテルが城は、天守(てんしゅ)より礎石(そせき)に至るまでアルトアイゼン王国国王陛下のものにございます。しかしルドルフ・マンフレートがこの手は、それがしがものにございます」

「………!!」

 アドルフ・ベルントルトの蒼白な顔に、絶望がありありと浮かぶ。見る間に総身から力を失ったアドルフ・ベルントルトは、残雪と植え込みの踏みしだかれた中庭に倒れ伏した。

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