第14話 ヨーゼフ・ハインは容赦をしない。 前編
執務室の空気をびりびりと震わせたのは、アドルフ・ベルントルトのなりふり構わぬ怒声だった。
「其方も戯れ言をほざきおるか、下賤の出の若造め!!ならば証拠を見せるが良い!其方がヴォルフェンビュッテルの地下墓地にて見出した魔法陣、その文言とやらをな!!それが出来ぬとあらば其方を―――」
「特級位魔術師ヨーゼフ・ハインに証拠を見せよと仰有るのですな?アドルフ・ベルントルト陛下」
メルヒオールは落ち着いた様子で言い、だが黒曜の瞳はアドルフ・ベルントルトを鋭く見やっている。
「それならばわたくしは、ヴォルフェンビュッテル家地下墓地に宮廷魔術師と聖マルティヌス騎士団員から成る一団を送り、魔法陣と蜘蛛を消滅させるよう命ずるまでにございます。もっともその際は宮廷魔術師と騎士団員らが魔法陣の文言を目の当たりにすることとなりますゆえ、アドルフ・ベルントルト陛下の罪を証(あか)す者たちが増えることとあいなりましょう。畏れながら、今しがた陛下の仰有られたことは、陛下の御為になるとは思われませぬ」
「………」
絶句したアドルフ・ベルントルトにメルヒオールはあくまでも淡々と、否いっそ冷ややかに、
「蜘蛛が爪牙にかけんとしたは、ラインハルト王太子殿下とゾフィー・マティルデ殿下、シュテンゲル魔術学院長クランツビューラー博士にございます。また蜘蛛が屠りしは、神学者ベルンスドルフ、騎士ヘルボルン、外務大臣グルベアでございます。アドルフ・ベルントルト陛下の権力の絶対性を脅かすやも知れぬ――と陛下の目には映じられる――方々ばかりにございますな。そしてアドルフ・ベルントルト陛下の、ブロイエホルツ、ファールシュ、ユーバーヘーブリヒに向ける野心を知らぬ者は、アルトアイゼン宮廷にはおりませぬ。こうした事々を鑑みますれば、畏れながら陛下、わたくしにはアルトアイゼン王国の平和、近隣諸国の平和、人々の安寧が壊されてゆく未来図のみしか描くことが叶わぬのでございます。それも、――他ならぬ陛下の手によって」
メルヒオールの黒曜の瞳が、凄惨の光を帯びた。大概のものには動じぬヨーゼフですら、覚えずたじろいだほどだ。
「そして陛下。そこに兄嫁―――アルトアイゼン前国王エルンスト・マクシミリアン陛下が妃エルネスティーネ・マリーア殿下との道ならぬ関係が明るみに出ましたならば、臣下も国民も、かように醜聞に塗れた王には従うことを致しますまい。―――畏れながら、陛下。どうぞご決断を。醜聞が明るみに出ぬうちに、ご退位を」
「……!私を愚弄しおるか、シュヴァルツレーヴェめが!!」
アドルフ・ベルントルトが怒りの叫びをあげた。その青黒い目には憤怒のみならず、焦燥と狂気がよぎりつつある。
「シュヴァルツレーヴェ。其方が申すことは私に対してだけではなく、我が兄にして前国王陛下、そして我が義姉上への侮辱であるぞ。私と義姉上が道ならぬ間柄にあるなど、アルトアイゼン王家への侮辱と不敬も甚だしい!!」
「わたくしとて、かような事を陛下に申し上げるは本意ではございません。ですが陛下、お二人の逢瀬を見たと申す者がおりますゆえ」
メルヒオールは冷ややかに言い、傍らのオイゲンを促した。聖マルティヌス騎士団員の黒い制服を一分の隙もなく着こなした金髪碧眼の青年が、アドルフ・ベルントルトの執務机の前にきびきびと進み出る。
「畏れながら、騎士オイゲン・ゲオルク・ヴァイスシルトが申し上げます。三ヶ月前の仮面舞踏会の夜、私は聖マルティヌス騎士団員として舞踏会会場の護衛を務めておりました。舞踏会が始まって三時間程が経った頃、陛下は中庭の月桂樹の蔭におられました」
「それがなんだと申すのだ」
アドルフ・ベルントルトの明らかな嘲弄を、だがオイゲンは無表情に受け流し、
「陛下はエルネスティーネ・マリーア前妃殿下を待っておられました。程なくしてエルネスティーネ・マリーア前妃殿下が陛下の傍らに現れ、ある言葉を囁かれた。『愛しいアドルフ』と。……それからお二方がなされた事を、私はくだくだしく申し上げることをしますまい」
「……ざ、戯れ言を……」
アドルフ・ベルントルトはようよう、それだけを言った。憤怒と恥辱のあまり、咄嗟には言葉が出て来ないといった様子である。ヨーゼフは鼻を鳴らし、
「都合の悪いことは何でもかんでも『戯れ言』になさるんですねえ、アドルフ・ベルントルト陛下」
「ヨーゼフ・ハイン、口をつつしみ給え!」
ヨーゼフはそれ以上言わず、肩をすくめ舌をぺろりと出した。そしてメルヒオールも、執務室における礼儀作法についてヨーゼフにそれ以上言うことをしなかった。沈着さを以て知られる宰相がアドルフ・ベルントルトに抱く嫌悪の情は、ヨーゼフのそれに勝るとも劣らぬようだ。
「陛下!アドルフ・ベルントルト陛下!どうかこの狼藉者たちの手から、わたくしをお守りくださいませ!」
金切り声と共に、エルネスティーネ・マリーアが執務室に駆け込んで来たのはその時だ。薄黄色の髪を結い上げる黒い紐が半ば解けかかっているのは無論、黒いサテンのドレスの折り目が崩れ、袖口の繊細なレース飾りが裂けていることも意に解さぬ様子だ。大粒の真珠のイヤリングが、耳元で不穏に揺れている。
いつになく周章した兄嫁の姿に、アドルフ・ベルントルトは覚えず椅子から立ち上がっていた。そしてエルネスティーネ・マリーアを追って来たと思しき、青ざめ強張った顔で戸口に佇むラインハルト、ゾフィー・マティルデの姿を見た。姉弟の背後には、二人の護衛らしき特級位魔術師ヴェルナー・ゼルテと聖マルティヌス騎士団員ミヒャエル・ディールス、ヴォルフェンビュッテル家元護衛騎士長ウルリッヒ・アウグスト・フォーアマンらが、こちらも色を失った硬い表情を覗かせている。アドルフ・ベルントルトを認めたエルネスティーネ・マリーアは、義弟の前に身を投げ出すようにし、
「陛下、どうかお聞きくださいまし!我が愛し子であった筈の、ラインハルトとゾフィー・マティルデの気が触れたのです!この二人はわたくしと陛下の仲を道ならぬものと責め、わたくしが前夫エルンスト・マクシミリアンに対して不実であるとさえ申したのです!挙げ句、わたくしにアルトアイゼン城を出て、オースターグロッケの古城に移るよう申すのです。これをラインハルトとゾフィー・マティルデの狂気の振る舞いと申さずして、何と申します!わたくしが夫亡き後義弟と再婚し、その世継ぎをもうけることの何が、アルトアイゼン王家の醜聞だと申すのでしょう!」
「………!」
アドルフ・ベルントルトは肘掛け椅子の前に立ち尽くし、目を見開いたなりでいる。こめかみから顎を、一筋の汗がつたい落ちている。己が隠蔽しようと必死になっていた醜聞を、闖入してきたエルネスティーネ・マリーアが図らずも暴き立ててしまったのだ。それも、醜聞を糾弾し己に退位を迫るメルヒオールらの眼前で。
アドルフ・ベルントルトの受けた衝撃、それが二人にもたらした破滅に気付かぬエルネスティーネ・マリーアはなおも、
「アルトアイゼンに限らず王家の歴史を繙いたならば、そのような例はいくらもございますのに。わたくしとアドルフ・ベルントルト陛下を侮辱するラインハルト、ゾフィー・マティルデから王位継承権を剥奪し、どこかに幽閉なさいませ!そしてラインハルトとゾフィー・マティルデに余計な知恵を付けたに相違ない、そこな下賤の魔術師もお捕らえ遊ばせ!断頭台にお送り遊ばせ!」
「……わたしはまあ、他人の色恋にあれこれ口を出す男じゃあないんですが」
ヨーゼフは物憂げに言い、ラインハルトに両腕を差し伸べた。腕の中に飛び込んで来た金髪の少年の背を、しっかりと抱き止める。
「しかしながらアドルフ・ベルントルト陛下。情事の相手の選択は入念になさるべきであったと、陛下には申し上げざるを得ません。相手は他にいくらもございましたでしょうに」
「この……!下賤の出の青二才が!」
ヨーゼフに掴みかかろうとするエルネスティーネ・マリーアを押し留めたのは、他ならぬアドルフ・ベルントルトだった。
「陛下……!わたくしに何を……!」
「黙っていろ!エルネスティーネ!!」
アドルフ・ベルントルトは鋭く言い、茫然自失のていのエルネスティーネ・マリーアの左腕を荒々しく掴んだ。情婦と共に逃げる気でいるのか、あるいは己を破滅に追いやった兄嫁を、その子ラインハルト、ゾフィー・マティルデへの牽制として用いる気なのか。アドルフ・ベルントルトは傍らの格子窓を叩き付けるように開け、その縁に足を掛けた。エルネスティーネ・マリーアを引き摺り下ろすようにして、窓から飛び下りる。
「………」
さしものルドルフ、オイゲン、ブランツらも呆気に取られていたがメルヒオールは、
「窓の下はどうなっている?ヨーゼフ・ハイン」
「中庭の回廊か、ぐるりの植え込みじゃないんですか。いずれにせよ、落ちたくらいで死にゃあしませんよ。用心すべきは蜘蛛です、―――あの男が召喚する」
「違いない」
ヨーゼフの言葉にメルヒオールは頷き、
「ヴェルナー・ゼルテ!君とヨーゼフ・ハインを除く特級位魔術師三人、特級位魔術師昇格試験受験資格を有する上級位魔術師十二人に召集をかけ、中庭に連れて来るよう。特級位魔術師は蜘蛛に治癒魔法を放ち、上級位魔術師は聖マルティヌス騎士団員たちに防御魔法、身体能力強化魔法を使い、レイピアに治癒魔法をまとわせるようにと伝え給え。指揮は君が執り給え。前回の中庭での蜘蛛との戦いで、君は戦術を学んだ筈だ。それからヨーゼフ・ハイン、君は―――」
メルヒオールの黒曜の瞳がヨーゼフを一瞥する。ヨーゼフは宰相を真っ直ぐに見返し
「はい。ラインハルト王太子殿下とゾフィー・マティルデ殿下に退魔の術を施した後、中庭に参ります。両殿下にはこの執務室に留まっていただき、騎士フォーアマンに護衛を―――」
言いさしたヨーゼフを、ルドルフが制した。凛乎とした声が執務室に響く。
「それなら心配は要らない、ヨーゼフ・ハイン。ラインハルト王太子殿下とゾフィー・マティルデ殿下は僕がお守り申し上げる。騎士フォーアマンと共に」
「お願い申し上げます、ヴォルフェンビュッテル伯爵閣下」
ルドルフのサファイアブルーの瞳とヨーゼフの闇色の瞳が、互いを強く見つめ合った。傍らでは聖マルティヌス騎士団長ブランツが、
「ミヒャエル・ディールス!聖マルティヌス騎士団員に召集をかけ、中庭に遣るように。団員たちには、上級位魔術師クラスの魔術をまとわせることの叶うレイピアを携帯させよ」
きびきびと指示を出している。緊迫感のいや増す空気の中、ヨーゼフは小さく息をついた。それから腕の中のラインハルトを背を軽く叩き、
「大丈夫です、ラインハルト王太子殿下。わたしがラインハルト王太子殿下とゾフィー・マティルデ殿下に退魔の術法を施し、ヴォルフェンビュッテル伯爵閣下と騎士フォーアマンがここでお二人を守られます。何よりラインハルト殿下は、聡明さと強さを持ち合わせていらっしゃいます。案ずることはございません」
「……私も中庭に行く。見なくちゃいけないことがあるから」
ヨーゼフの真紅のマントをしっかと抱き、声音に涙の跡を残しながらも、ラインハルトは言った。泣き濡れた空色の瞳がヨーゼフを見上げる。そこに宿る光は強い。
ヨーゼフは唇を噛み締め、
「それはなりません、ラインハルト王太子殿下。蜘蛛の脅威、アドルフ・ベルントルト陛下の魔力を侮ってはなりません。厳しいことを申し上げますが、殿下が中庭にいらしたならば宮廷魔術師と騎士団員が殿下をお守り申し上げねばなりません。蜘蛛と相対する戦力が、その分減(げん)じてしまうのです。ラインハルト王太子殿下、貴方はアルトアイゼン王国の次代の王たるお方です。死ぬことはなりません」
「分かってる。でも私は見なくちゃいけないし、見届けなくちゃいけないんだ。―――アルトアイゼン王国を脅かす蜘蛛の力を、叔父上と母上の本意を、戦いの果てを。アルトアイゼン王国次期国王として」
「わたくしもラインハルトと同じ思いです。アルトアイゼン王家の血を引く者として。ヨーゼフ・ハイン」
ゾフィー・マティルデが毅然と言った。その端麗で気高い面差しは、空色の瞳は、ヨーゼフを真っ直ぐに見つめている。
「………」
ヨーゼフは黙し、メルヒオールとルドルフを見やった。闇色の双眸には必死の光が宿っている。メルヒオールは素っ気なく、
「ヨーゼフ・ハイン。君の退魔の術法の効力は確かかね」
「はい、宰相閣下!」
「ならば君はラインハルト王太子殿下とゾフィー・マティルデ殿下に術法を行使し給え。そしてヴォルフェンビュッテル伯爵殿、騎士フォーアマン」
「何でございましょう、宰相閣下」
「ラインハルト王太子殿下、ゾフィー・マティルデ殿下をお守り申し上げていただきたい。場は蜘蛛の乱舞する中庭ゆえ、些か難儀かと存ずるが」
「承知致した。必ずや両殿下をお守り申し上げましょう、宰相閣下」
「騎士ウルリッヒ・アウグスト・フォーアマン、命に替えましても、必ずや!」
「ああ、それはいけないんです。騎士フォーアマン」
フォーアマンが浅黒く引き締まった顔をヨーゼフに向けた。ヨーゼフはゾフィー・マティルデにいたずらっぽい目配せをし、
「ゾフィー・マティルデ殿下は、ご自身の為に流される血をお望みではないんです」
「ヨーゼフ・ハイン!」
雪白の頬を紅くしたゾフィー・マティルデにヨーゼフは微笑し、その手を取った。清らな白光がゾフィー・マティルデの身に流れ込む。
「退魔の術法です、ゾフィー・マティルデ殿下」
言い、手を解こうとしたヨーゼフを、ゾフィー・マティルデは離そうとしなかった。ヨーゼフの手を握り締め、闇色の双眸を見つめる。ヨーゼフは黙し、空色の瞳を静かに見つめ返した。
―――生きてください、ヨーゼフ。蜘蛛、そして叔父上との戦いを。
―――承知致しましてございます。わたしが心底から御身(おんみ)の幸福を願う方。
ややあって、
「済みましてございます、ゾフィー・マティルデ殿下」
ヨーゼフは静かに――努めて静かに――言い、術法をラインハルトにも施した。そのまま姉弟から身を離し、室内に居合わせる人々に恭しい辞儀をすると、部屋を飛び出して行った。
その後ろにオイゲンが続いた。
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