第五話「希望の記憶」

第五話「希望の記憶」

 鏡をまるですり抜けるように通り終え、ゆっくりと目を開けるとそこには辺り一面に広がる晴天の空しかなかった。床もほぼ俺が空中に浮いているような状態で、歩けはするものの床という感覚が無かった。

 幻想的で今が現実では無いようにしか思えない景色に唖然としながらも、辺りを見渡し零を捜した。

 どこにも零がいないどころか、俺が通り抜けた鏡も無くなっていた。

 零を救うまでは出られないということだろう。

 俺は床の感覚が無いまま歩き始めた。どこを見ても同じ景色なので、自分が立っているのかすら分からなくなっていくが、混乱する平衡感覚を正気に戻すべく息を大きく吸い気持ちを整える。

 再び歩き始めてどのくらい経っただろうか。そろそろ現実であれば足が疲れて痛くなってきそうな頃、ようやく視界に黒い点が映る。何かまでは分からないが、それが錯覚や幻覚では無いことは確かだった。

 走ってその黒い点まで向かうと、次第にそれが四角い形をした大きなものであることは分かった。

 何かと思い手を伸ばせば触れる距離まで来た時、真っ黒の壁の様なものは徐々に色を帯びる。そして浮かび上がったのは誰かの家の中にある部屋だろうか。

 部屋の扉が開いて中に入ってきたのは一人の男性だった。顔は中年くらいだろうか。髭が荒く髪も整ってなかった。

 部屋の中は暗く、熊のぬいぐるみがベッドから雑に落ちていた。

「おい!また母さんに何か買ってもらったんだろう!」

 男性は非常に気が立っており、声から相当な怒りが感じ取れた。

「ごめんなさい...」少女の声がした。

 青い髪の少女はベッドの横に座り込み耳を真っ赤にして目を両手で擦っていた。おそらく泣いているのだろう。

「うちにはただでさえ金が無いんだ。それなのにこんなぬいぐるみ...分かっているのか!」

 男性は少女に近づきながら怒鳴った。

「なんでこんなにイライラさせるんだ...どうなるか分かっているよな」男性がそう言った瞬間、少女の目を擦る手が止まり、絶望に光を失っている目を見せた。

 そして男性が近づき、少女の髪を引っ張る。

 俺は何が起きているのか理解に遅れ、男性を止めようとその場に行こうとしたが、見えない壁がそれを拒み続ける。

「や...め――きゃ!」

 少女は身体を男性の力強い拳で殴られ、まだ幼い悲鳴を上げた。

 良く見るとその男性には見覚えがあった。確か零の父親だ。あんなに俺の前では優しそうにしていたのに、裏では零に暴力を振るっていたのか。子どもに、しかも実の娘に暴力を振るう父親の姿に憎悪を抱きながら、自身がそれに気付くこと無く零へ接していたことに無力感を感じた。

 その公表には出せないような光景は段々と暗くなり、見えなくなっていく。

 次に映し出されたのは、零の母と楽しそうに会話をする零だった。

「ねぇ、お母さん、今日はハル君が来て私を守ってくれたんだよ」

「素敵なお友達ね」

「お母さん...元気無いよ...?」

「気のせい...だよ」

 いつも元気な零の母がこの時は別人かと思うほど暗かった。そして零が外へと遊びに行った時、零の母は部屋から出てくる零の父と話している。

「おい、あいつはまた外に行ったのか...お前が零の代わりにいつもの倍痛い思いをしているのにな?」皮肉のように零の母を向いて言った。

「零には手を出さないで。それだけ守ってくれたら良い」

 どうやら零は母が代わりに殴られているのを知っており、自分のせいで他の人が傷ついている現状を思うだけで苦しかったのだろう。

 そしてまた目の前が暗くなる。次に映ったのは小学校の頃俺が零の前で須藤に殴られている場面だった。

 クラス全体が映し出され、俺が殴られてクラスがざわついている様子が流れる。クラスの全員がその様子を見ている中、零だけは教室の隅でうずくまっていた。そして零の声が聞こえる。

「...なん...で。私なんか...庇うの...私のせいで...」かすれていた声が聞こえ、零がこの時どう思っていたかが分かる。

 俺は零が自分のせいだと思っていたことを知り、この時どうすれば良かったのか分からなくなってしまった。そのまま零が男子たちに何か悪口を言われているのを見過ごすわけにはいかないが、零が自分のせいだと抱え込んでいるのに俺がまた彼女に負担を与えるわけにもいかない。

 また暗闇が目の前の光景を覆う。

 次に映ったのは零を見た最後の日。小学校の卒業式、校舎裏で零が告白されている場だった。

 あの時見えなかった須藤の顔が良く見える。

「付き合ってください!」零に向かい須藤は勢いよく頭を下げて零に告白するが零は申し訳なさそうに言った。

「私...好きな人がいるから...」

「透晴のことか?」

「うん...」零は顔を赤くしながら下を向き答えた。

「なんであんなヤツ...男っぽくもない顔して、隅でずっと本読んで皆で遊ぶ時も楽しそうにしないで...あんなヤツの――」

「やめて!」零は須藤に向かい叫んだ。

「ねぇ、あいつと付き合ってもお前きっと楽しくないよ。なら俺が付き合った方が――」

「貴方みたいな人嫌い!」

 零が大きな声でハッキリ言ったので、直接嫌いと言われた須藤はなんとも言えないような表情をして拳を握りこんだ。

 そこでまだ背の小さい俺が須藤に向かって走り出していた。そして俺は須藤に殴られている。自分が殴られているのを第三者の視点で見るというのはなんとも妙な気分になるが、零の様子がおかしい。

 小声で「やめて...」と言い続けているのだ。俺は零の全てを見て何故そこまで零が暴力に対して恐怖を感じるのかが分かった。

 俺は案の定零について何も知らなかった。ただ零を庇っていれば零が護られると思っていたが、心は護りきれていなかったのだ。

 良かれと思いやっていたことが別の苦痛を与えている。

 その現状は、俺が今まで目を逸らしていたものだった。

 もう黒い壁には何も映らなくなり、晴天の空は鈍色の雲で覆い尽くされる。

 後ろを振り向くと、先程通ってきた道に花々が咲き乱れていた。

 ここはあの場所に似ている。公園に昔あった、綺麗な花畑だ。今はもう運動スペースのために花が全て無くなっており、そこに元々花畑が無かったかのようになっている。

 花畑には様々な色の花が咲いているが、1番多いのは空色の花だった。

 花畑に進もうとすると、突風が吹き花から音を出していた。

 顔を上げると花畑の中央に1人の女性がこちらに背を向けて立っていた。俺とは違う高校の薄い水色の制服を着ており、明るい水色の髪を持っている女子高生。

 新目零が立っていた。半透明に透けていない、そのままの零の姿。

 俺は彼女を助けるために来た。だが先程の光景が脳裏に過ぎり、前に踏み出せない。

「...見たんだよね、私の過去」零の声は感情が宿っていなかった。

「ああ」

「分かるでしょ。私を守ろうとした結果どうなったのか」

「...ああ」

「結局誰も救われてない。それなら貴方を嫌いになって他人として過ごしていた方がマシだったかも」

「...」

 その通りかもしれない。俺は結局何もしていない。

「なんでここに来たの?」

「...零を助けるため」

「懲りずに私を助けてくれるんだ。貴方がそこまでしてくれるのが私じゃなかったらきっと今頃2人とも幸せだったよ」

「俺は...」

「でも。ここに来たらもう戻れない。貴方はまた私のせいで失うんだ」

 俺は何も言えなかった。

「私は貴方に接してもらえるだけで幸せだった」

 幸せ。幸せとはなんだ。それすら見出せなくなる。

「でもここで2人仲良く永遠に閉じ込められるのも良いかもね」

「そうだな」

 それもいいかもしれない。そうすれば永遠に俺が零から離れることも無く、零はもう自分のせいにする必要も無い。

「じゃあここで一緒に――」零はこちらを向いて言った。

「いや、俺と帰るぞ」

「なんで?あの世界にいても苦しむだけだよ」

「お前には普通の生活を送って欲しいと思っていた。お前には幸せに生きて欲しいと思っていた」

「私の過去を見て?」

「違う!」

 つい叫んでしまい、零は驚いた顔をした。

「俺はお前が居なくなってからもずっと、何処かで幸せに生きて欲しいと願っていた!」

 俺は花畑を進む。

「でも...戻ってもまた――」

「その時はまた俺がお前の代わりに苦しんでやる。でもそれはお前のせいじゃない。俺がやりたくてやるからな」零はその言葉を聞き困惑していた。

「暴力が怖いなら暴力に頼らないような解決方法を探るし、喧嘩が怖いなら喧嘩じゃなくてお前を護っているだけだと考えればいい」

「でも、それじゃ私のせいで貴方は苦しんじゃう!」零は泣きそうな声で言った。俺を遠ざけようとしているようにも見える。

「じゃあその分俺と一緒に幸せになればいい。そうすれば苦しんだ俺も、自分のせいだと思っているお前の心の苦しみも、全部チャラだ」

「...え?」

「俺はお前が好きだ。この責任、取れよ。お前のせいで俺はお前に執着するんだから」

「......え」

 零は涙を流して困惑した声を出した。

「俺はあの時から好きだった。お前が俺に接してくれた時から」

「本当...?」

「ああ、だからお前は自分のせいにしなくていい。俺の意思で助けるんだからな」

「私...ずっと...好きだって言って欲しかった...ずっと怖かった...!透明人間として独りなのは...」零は先程よりも多く涙を流していた。

 俺は零の傍まで近づき、零の左肩に手を置いた。

「安心しろ、もう独りじゃねえ」そう言うと、零はいきなり俺の後ろに手を回して俺を抱き寄せた。

「私も...好き」零は俺の胸元に顔を疼くめながらくぐもった声で言った。

「ずっと...ハル君を見た時から...」段々と零の声が小さくなってゆく。

 そうして気が付いた頃には周りの景色は暗い工場へと戻っていた。

 天井には穴があき月の光が差し込む。

「透晴――」薫が大声を出して近づこうとするので俺は薫に静かにするようジェスチャーで伝える。

 なぜなら零が俺にもたれかかって寝ているからだ。もう身体が透けてはいない。普通の女子高生だ。

「その人が、零か」

 外志は静かに聞いてきた。

「良かった...」透華は疲れ切った声で言った。

 透華は俺と零が無事に戻ってきたのを見て安心したのか体の力が抜けて雛先輩に慌てて支えられた。

 俺は零の体全体を抱える。零の体は細く、筋力があまり無い俺でも簡単に持ち上げられた。

「綺麗な子...」奏先輩と雛先輩は零に見とれていた。その気持ちはよく分かる。

 寝顔を見ていると可愛すぎて悶絶してしまいそうになる。

 零の寝顔があまりにも幸せそうなので起こすのも気が引ける。だがこのまま零の家まで連れていくのも俺の体力が持ちそうにない。

 そう悩んでいると、工場の瓦礫から物音がした。

 全員が身構える。

「奏様!」

 瓦礫の上からいきなり声がしたので全員で驚いてしまう。

「はぁ...」

 奏先輩だけは驚かず、溜息をついて頭に手を当てていた。

「なんでここにいるって分かった...」

 すると瓦礫から一切止まることなく女性が飛び降りてきた。その女性はひらひらと揺れる白いフリルが目立つメイド服を着ていた。黒く肩に掛かる程度の髪を1つのヘアゴムで止めている。身長は俺と同じくらいで、一瞬男性かと見間違えるその冷徹で若い顔は、いかにも優秀なメイドを思わせる。

「奏様。あまり遅くまで外出は危険ですので、今後はお控えになられますように。特にこのような廃工場など言語道――」

「いいでしょ。心配する人家にいないんだし」

「私が心配します」余程献身的なメイドのようだが、今の状況は完全に奏先輩の母にしか見えない。

「申し遅れました、私は晴空雨はれぞらあめと言います。皆様も、早くお帰りになった方が宜しいと思います。私が車で送りましょう」

「え...自分で――」薫は断ろうとするが途中で雨さんの言葉が割り込んできた。

「高校生だろうと子どもは子どもです。もし愉快犯に人質として連れ去られても対応できるのですか?」

「それは――」

「さ、行きますよ。貴方たちもついていらっしゃい」

 俺たちは雨さんのされるがまま広いワゴン車に乗り、それぞれ家まで送ってくれた。帰る途中、奏先輩が隣で物凄い勢いで説教されていたのを眺めていると、あの完璧そうに見えた奏先輩が叱られているのを雛が微笑し、それに気付いた雨さんが雛にも説教し始めた。

 奏先輩が小さな頃から雨さん自身子どもであったにも関わらず奏先輩の世話をし続けたらしい。奏先輩の親は父親のみで、母の顔を見たことがないと言っていた。そして父親は海外で良く仕事をするので帰ってくることが滅多にない。

 意外な奏先輩の家庭事情を知った時には零の家に着いていた。

 零がいなくなってから中々零の家には来なかったのでとても懐かしく感じた。

 玄関まで零を抱えて連れていく。零の父は零が行方不明になってからその虐待の全貌が晒されたので捕まってしまい、専業主婦だった母は自立して一人暮らしのために仕事を始めていた。

 もう夜1時ごろだったので、呼び鈴を押したら迷惑だろう。だが零が元に戻っている以上、零をここに置いていくわけにもいかない。

 もう俺の家で休ませようかと考えた時、玄関の扉の奥から小さな振動が近づいている事に気付いた。

 俺は突然の足音が聞こえて無性に焦ってしまう。そして扉が開いた。

「あら、透晴君じゃない。久し――」扉のノブを掴みながら零の母は俺の腕に抱えている女子高生を見て言葉が詰まった。

「その子...もしかして」

「分かります?」俺は冗談交じりで聞いてみた。

「...分からないわけ無いじゃない...この瞬間を願わない日なんて無かった...んだから」母は泣いていた。

 零の母は声を抑えて泣こうとして手を口に当てていたが、その口からは声が漏れてしまう。

「...れ...い。随分と綺麗になって...」

 零の母は零の顔を両手で支えて零の寝顔を見ていた。

「ありがとう...透晴君...そしておかえり、零...」

 俺はそれを見て安心してしまったのか、身体の力が抜ける。

 違う、安心したのではない。

 身体に力が入らない。それに、胸元と右腕にとてつもない痛みが走っている。それどころか体中が苦痛に呑まれていく。

 目の前が暗くなり、まともに立てなくなっていく。次第に意識が薄れていき、何も考えられなくなっていた。ただ体中が痛い。

 ゆっくりと瞼が降りて、誰かが俺を呼ぶ声が聞こえたが、それを最後に意識が途絶えた。


 目が覚めると、見知らぬ真っ白な天井が視界に入る。暖かな掛け布団を持ちながら上半身をゆっくり起こした。

 左を見るとどこか知らない景色が広がっている窓があった。

 右をみるとここがどこかの病院である事が分かる。

 そして下には眠っている零。

「あ、起きた。零、起きたよ」そうして零を起こしてくれたのは零の母だった。

「ん...あ!ハル君!良かった...」

 零は起きた途端に俺の顔を見て、安堵の息を漏らした。

 どうやら俺は意識が無くなった後、この病院で入院していたらしい。日付を見ると意識を失った日から二日が経過していた。

「零、透晴君の隣にずっといてくれたんだよ」

 そうか。俺の為に零が。

「おはようございま――起きた!透晴君!心配したんだから!」そう言い病室に入ってきたのは、楓と俺の母だった。

「あんたなんでそんな無茶したの!胸元に刺し傷なんて...死んだらどうするの!」

 俺の母は非常に怒っており、この後10分程の説教が始まった。

 平和とはこのことを言うのだろうか。零が傍にいて、零の母も笑顔が戻り、何事もなかったかのように事が終息していく。


 いつもと変わらない日々。あの日零を助けるまでに多々不思議なことが起こり、あれが本当は夢だったのではないかと思ってしまう。

 いつもの空き教室に行き、あの日の俺に起きた不思議なことの詳細を報告しようと引き戸を開けると、すぐ目の前に荒砥先輩が立っており驚いてしまった。

「うわっ」

 すると荒砥先輩は後ろに隠していた何かを取り出してこちらに向けた。

「おめでとうございます!」荒砥先輩の後ろには夕が隠れており、全く隠れていることに気付かなかった。

 夕は荒砥先輩と同時にパーティークラッカーの紐を引き、大きな破裂音が二重に響いた。紙吹雪が俺にかかる。

「おめでとう。透晴。今日は打ち上げだ!ヒャア!」荒砥先輩は普段では想像のつかないようなほどはしゃいでいた。

「荒砥先輩は、お菓子が合法的に食べられるからってテンション上がってて」

 夕が荒砥先輩を引き気味で見ながら俺にそう言った。ここまで喜ぶほどお菓子が好きなのだろう。

「もう、頑張ったのは透晴先輩なんですから、あまり多く食べないでくださいね!」

 教室の中を見ると複数の机を合わせてその上に大量のお菓子が置いてあるのでそれを囲んで座っていた。

 教室の奥には透華を挟むようにして奏先輩と雛先輩が椅子に座っていた。

「さっそくだけどあの廃工場の話をしてくれる?」

 奏先輩はいつもと変わらず冷静に聞いてきた。雛先輩が隣で透華の髪を結んでいる。

 あの日俺に起きたことを全て話した。奏先輩は途中からずっと黙りこんでしまい、ちゃんと聞いているのか分からなくなった。

「それ...私と同じ力だと思う」透華は静かにそう言った。

「透華と同じ力って、透晴君が『水晶の巫覡』だって言うの?」

「分からない。私がまだ『水晶の巫覡』たちと一緒にいた時も透晴って名前聞いたことが無い」

 また知らない単語が出てしまった。『水晶の巫覡』。俺は別に先祖が神社の神主や巫覡だった歴史が無い。

「とにかく、また調べる必要がありそう」奏先輩はそう言って隣で。

「まあ、今日は良いじゃん。打ち上げだよ」雛先輩は考える奏先輩の顔をのぞきながら言った。

「...そうだね」


 次の日。今日は転校生が来るらしい。どんな人なのだろうと期待と想像で脳を埋め尽くされながら朝のホームルームが始まった。

「さて、転校生を紹介する。入りなさい」

 担任の先生がそう言うと引き戸が開き、歩く音だけが静寂な教室に響き渡る。

 見たことのある明るい水色の髪。他の女子生徒とは一線を画す美貌。圧倒的なスタイル。

 ただ今までと違うのは、俺たちの学校の制服を着ているという点だった。

「初めまして、新目零って言います」

「新目さんはあそこの...確か晶同と幼馴染って言っていたよな。ちょうど晶同の隣があいているから、あそこに座ってくれ」

 俺は混乱していた。教室も同じようにざわついていた。

「ねぇ、あの子、可愛すぎない?」

「あいつ、彼氏いるのかな...」

「透晴が幼馴染なんて...あいつもついに隅に置け無くなったな」薫の声も聞こえた気がするが無視することにした。

「...おい、試験はどうした」

 俺は隣で平然と座っている零に聞いた。ここの試験は地味に難しいものなので、中学校の義務教育を完全に受けていない零には無理ではないのだろうか。

「私が透明人間になってから何もしてないとでも思った?ずっと教室にいたんだから」まさか透明人間の間に勉強したとでも言うのだろうか。ものには干渉できないので、零は教科の内容を全てではないがここの試験に受かるほどには暗記しているということになる。

「お前そんな頭良かったのか」

「あれ?ハル君に算数教えてあげてたのはだれなのかなー」

 そう言えば零は昔から理解力と記憶力が良い事を完全に忘れていた。

 ホームルームの後の休み時間、すっかり零は人気者になり、教室に馴染んでいた。

「髪綺麗だよねー、シャンプー何使ってるのー」

「えっとね――」

「なあ、新目さんって彼氏いるのか?」男子がそう言うと女子たちも共に盛り上がっていた。俺はその様子を教室の隅で本を読みながら聞いていた。

「いるよー」

「え、誰なの!?もしかして晶同君?」

 どうやら女子たちは恋愛に関して男子より勘が鋭いようだ。実は零を助けた次の日、正式に付き合うこととなったのだ。俺は零が何と答えるのか気になり、本を下ろした。すると目の前に楓がいたので驚いてしまった。

「零ちゃんって結構綺麗になったよねー。でも、私負けないし透晴君が付き合っていたとしても諦めないから」

 いつもより楓の発言から圧を感じた。

 薫と外志がこちらに近づいてくる。

「ずりーよ透晴!あんな可愛い子幼馴染なんてさ!」外志はそう言い、俺の肩を叩いてくる。

「これで彼女いないのは外志だけになったな」

 薫はそう言い、皆で笑った。

「ねぇ、ハル君」いつの間にか群がる生徒たちを押し退け俺の近くに来ていた零は俺を呼んだ。

「ん、なんだ?」

「昼休み、屋上来て」そう言われたので昼休み、言われたとおりに屋上へと向かう。屋上に続く扉を開けると、涼しい風が俺を外へと誘う。屋上には誰もおらず、扉を閉めると騒がしかった学校の音が殆ど聞こえなくなる。

「ごめんね、いきなり呼んじゃって」

「大丈夫だ。どうせ何もすること無いし」

「ねぇ、こっち来てよ」

 俺は零に近づいていく。そして零の二歩先に立った。

「もっと近づいて」

「え?」俺は何が起きるのか分からずに、下を向くと視界に零しか映らなくなってしまう程近づいた。零の綺麗な肌が鮮明に映り、謎の緊張感が俺の顔を次第に赤くしていった。

 次の瞬間、顔を両手で持たれて零が目を閉じた。

 俺は次起こった事に対して目を全開にしてしまった。零が俺の顔を少し下げてやわらかい唇を俺の唇に触れさせたのだ。

「は!?ちょ...あ、お前...俺まだ早いだろ!」

 零が俺から顔を離して微笑していることから俺が赤面して焦っていることに対して笑っている事が分かった。

「ごめん、だってハル君にキスしようって言ってもまだ早いって言いそうだから」

 いたずらに零は笑顔で言った。

「ハル君は私の事大切にしたいんでしょ?だからキスおあずけするんだ」

「だってほら...ムードとかあるだろ」

「じゃあそういう雰囲気になったら、そういうことしてくれるの?」

「語弊を生むような事言うんじゃない」

 零は俺の言葉を気いて小悪魔的な表情を浮かべる。今はただ、彼女が浮かべる表情の全てが愛おしかった。俺はたまらずに先程の仕返しと言わんばかりに零を抱きしめる。

「え?ちょ...ハル君!」

 すると後ろから屋上の扉が開く音がした。

「え」二人揃って同じ驚き方をする。

「あー...そういう関係...楽しんで!」そう言って立ち去ろうとするのは俺と同じクラスの男子だった。

「ちょっと待ってくれ!」俺はそう言い彼を止めようとするが、彼はもうすでに階段を降りて行ってしまった。

 そしてその男子に見られてしまったせいか、後に学校で俺が付き合い始めたことが何故か噂になった。


「透晴君。休みの日にごめんね」

「いえ、大丈夫です」

 俺は今、とある山奥の教会に奏先輩と透華の三人で来ていた。木々が隠すように教会が建っており、教会全体が白色で、まるで御伽噺に出てきそうな建物だった。

「それで、なんでここに?」

「貴方が本当に『水晶の巫覡』か調べるため」透華が言った。

「『水晶の巫覡』って?」

「私やお姉ちゃんみたいに『旋律筆者』とは違う特別な力を使える人のことを言うの」

 『水晶の巫覡』はこの世界に代々影から存在する『旋律筆者』を選別するとともに透明人間を護るという使命を生まれた時から背負っている存在のこと。『旋律筆者』とは違い、任意で『鎖裂』を使える上に光の輪を出現させ攻撃できる『護断』が使える。だが『水晶の巫覡』はこの教会で生まれ育った人間の中でも特に優秀な人材が年に一人だけなれる。つまり俺が『水晶の巫覡』の力を使えるのは今までにない特例で何が起きているのか透華でも分からないらしい。

 だからこの教会にいる透華と親しい教育係に聞けば何か分かるかもしれないのでここに来たと。

 教会の正面に立つと、巨人が使うのではないかと思ってしまうほど異常に大きな扉が存在感を放っているのが分かる。

 透華は扉に手をかざした。すると扉に描かれている十字の模様が光輝き、金属音が重く響いた。途端に巨大な扉がゆっくりと開き、教会の内部が次第に見えてきた。中は暗く、ほぼ何も見えない状態だ。

 教会の中に入ると、ステンドグラスを太陽が照らし神秘的な床を作り上げる。それと同時に周囲が明るくなり、一般的な明るさへ変わった。

 教会には綺麗にチャーチチェアが並び、奥には一際大きなステンドグラスが神々しく待ち構えている。その手前には祭壇があり、ほぼ透明の水晶が飾ってある。そして聖女の恰好をした女性が祭壇に向かい膝をついていた。

 女性はこちらに気付いたのか顔を上げてこちらを見た。

「あら、可愛らしい来訪者が三人も。どのようなご用件でしょう。懺悔ですか?」その女性は聞いていると眠くなってしまうような声で言った。

「...違う。聞きたいことがあるの」

「まあ、その声...もしかして透華ちゃん?こんなに大人っぽくなっちゃって。相変わらず綺麗ね」

 女性は立ち上がりゆっくりと足音を鳴らしてこちらに来る。

 非常におっとりとしたイメージの顔付きはこれこそ美人といったものだった。スタイルも良く、何がとは言わないがとても大きい。

「貴方は全く変わらず綺麗なままだね」透華はその女性の顔を見て言った。

 どうやら透華の知り合いだろうか。

「こちらのお友達は?」その女性は俺と奏先輩を見て言った。

「私晴空奏って言います」

「俺は晶同透晴です」

「私は咲園愛乃さきぞのあいの。ここの管理人?をしてるわ」

 何故自分の職業を疑問に思っているような言い方をするのだろうか。

「あら?両方とも『旋律筆者』なのね!ついに透華ちゃんも『旋律筆者』を...さらにこんなにも可愛いなんて」

 何故か咲園さんは俺をじっと見つめている。

「もしかして、それ俺にも言ってます?」

「勿論!こんな可愛い子、中々いないのよ。もっと自分に自信を持って!」

「俺、男なんですけど...」

「見てわかるわ。可愛いと言われる権利は男女平等よ」咲園さんはそう言って微笑む。その破壊力は咲園から光が出ているように見えるほど眩しかった。

「それで?聞きたいことは何かしら」

「実は...」


 咲園さんは気配りも良く、立ち話もなんだからと教会の奥にある咲園さんの部屋の中で話すことになった。

「ごめんなさいね、今まで晶同さんのような事例が1つも無くて...」

「いえ、お時間を頂きありがとうございました」

「それにしても...明生ちゃんがそんな風になっていたなんて」

「どんな人だったんですか?」

「良く透華ちゃんと一緒にいた子ね。この教会にいた時はずっと仲良さそうにしていたのだけど...それにとってもいい子だったの。何があったのかしら」

『水晶の巫覡』は生まれつき髪と目が白いらしい。明生も元々白かったらしいが、俺が見た時には赤色が混ざっていた。

「明生の髪は赤色が混ざってました」

「それも明生ちゃんが変わってしまった原因なのかしら...」咲園さんは不安そうな声を出す。

 『水晶の巫覡』の教育係だったらしく、ちょうど明生と透華も担当する子どもの1人であり明生については非常に心配なのだろう。

「さっきここの管理人って言ってましたけど何かの宗教とかあるんですか?」

「ええ。でも宗教と言っても信仰対象は神ではないのよ。この世界に実在した、救世主なの。その人は百年に一度あの祭壇にあった水晶に宿るとされているの」

 あのほぼ透明で綺麗な水晶のことだろう。

「あなたが司教なんですか?」

「いいえ、司教様は別にいらっしゃるのよ。私はここの管理を任されているだけ。毎朝ここに来るのだけど、貴方達が来る前に帰られてしまったの――」咲園さんはそう言っている途中で何かを思い出したのか止まってしまった。

「そうだ!司教様に会えば何か分かるかも知れないわ!」

 咲園さんがそう言った途端に、隣に座っている透華はとても嫌そうな顔をした。

「...え。あの人に会うの?」

「何か嫌なことでもあったのか?」

 俺がそう聞くと透華は首を振り答えた。

「違う...私があの人苦手なだけ...」

「まあ聞くだけだから、すぐ帰れるよ」奏先輩はそう言って透華の頭を撫でた。

「なら良いけど...」

 透華は不満そうに身体を丸めた。

「じゃあ、行きましょうか」

 咲園さんは席を立ち、壁一面の本棚に向かい、手をかざした。淡い光とともに、本棚も光り始める。

 その途端に部屋が小さく揺れ始め、本棚が動き奥に真っ暗な空間が見える。

 咲園さんに連れられてその空間へと入ると、赤外線レーダーでも付いているのか勝手に電気がついた。

 奥には現代技術では見ることのできないような近未来を感じる機械的な構造や中世のイメージがある彫刻の入った扉のエレベーターがあった。

「さ、入って」

 咲園さんに後ろからそう言うと、扉に白い光の線が流れ込み音もなくスライドして開いたので中へ入る。

 中は広く、4人が入るには十分な大きさだった。銀色の壁には金の線で模様が隅々まで描かれており、どこか上品な雰囲気を漂わせていた。

 咲園さんがエレベーターについているボタンを押すと、扉が閉まり下に降り始める。エレベーターには窓が付いているが、今のところは土の壁しか見えない。

 そしてしばらく沈黙が続き、そろそろこの空気を変えるため咲園さんに話しかけようとすると、窓から光が差し込み外の景色が見えるようになった。

「透晴君見てよ!凄い!」

 奏先輩が珍しく楽しそうな声を上げたので窓から下を覗くと、そこには1つの街程の広さの空間が存在し、その空間をほとんど使い巨大な建物が建っていた。

 そして下にしか降りていないはずなのに、その空間には空が広がっていた。

「ここは教会の地下なのだけど、空はご先祖様、始祖の『水晶の巫覡』が神の力を借りて作り上げたらしいの」

 建物は全体的に教会と同じく白色で統一されており、橋のような構造の道がいくつも絡み合ってそこに行けば二度と出られなくなるのではないかと思うほどだ。そしてその入り組んだ道の中央に聳え立っているのは、今まで見たことが無い、まるで御伽噺に出てくる白の様な教会だった。更に教会の周りにある道を囲むようにいくつもの同じ構造をした建物が建っている。

 その現実離れした光景に圧巻されていると、既にエレベーターが止まっており巨大な教会を見上げるような位置にいた。

 エレベーターの扉が開き、教会へと続くのかすら分からない道が見えた。床も白く、清潔感がある。いかにも神聖な場所を思わせる通路を歩いていると、白いワンピースを着た子どもたちが元気に追いかけっこをしている場を見た。

 通路の外は底が見えないほどの奈落なのに、よくこんな心もとない手すりの通路で無邪気に遊べるものだ。

「あ!そとのひとだ!」5人ほどいる中で一番元気のよさそうな男の子がそう言って俺に走って近づいてくる。

「なあ!姉ちゃんってかれしいるの!?」

 俺が姉ちゃんと呼ばれたことに疑問を持ちながら、俺は女ではないことを言おうとする。

「この人はお姉さんではありませんよ。お兄さんです」

 咲園さんは優しく包むようにそう言いながら男の子の頭を撫でる。

「お疲れ様です、咲園さん」

 子どもたちに囲まれて忙しそうにそれぞれの対応をしながら咲園さんと同じ聖女の格好をしている女性が咲園さんに丁寧な挨拶をした。

「お疲れ様、今司教様はいらっしゃるかしら」

「司教様なら書類仕事があるからと自室におられますよ」

「ありがとう、仕事頑張ってね」そう言われると女性は笑顔で何故か俺を見て言った。

「男性の方なのですね、一瞬女性に見違えるほど綺麗ですよ」そう言って女性は俺に顔が触れるか触れないかの所まで近づいてきた。

「え」

「髪を伸ばしたら似合いそうですね。私が作った短時間で髪が伸びる薬をあげましょうか?それかいっその事女の子になっちゃいます?」

 女性は俺の髪を触りながら楽しそうに聞いてくる。

「いえ、大丈夫です...」

 俺は後ろにいる奏先輩たちへと助けを求めようとしたが、奏先輩は小声で透華に何か言っていた。

「なんか、ここの人たちに人気だね、しかも女と間違えられるなんて...」

「私も初めて見た時女の人かと思ったもん」

 話に夢中で俺の助けを求める動作は目に入っていないようだ。


 この後も道中で何回か他の女性に会ったのだが、どうやら俺はここに人には女性と間違われやすいらしい。

 やっとのことで入り組んだ道を進み教会の前へ辿り着いた。

 教会の中に入ると、地上のよりも圧倒的な存在感を放つステンドグラスが正面に設置されている。

「おや、咲園さん。何の用でしょう」いつの間にか気配もなく咲園さんの目の前に立っていた不思議な雰囲気の男性が爽やかな声で言った。自室にいたのではないのか。

「ああ!これはこれは、透華ではありませんか!こんなにも美しくなって...透華のお母様にとても似てらっしゃる」

 不思議な雰囲気の男性は透華の顔を近くで見ながら透華の頬を触る。その瞬間に透華は嫌なのか呆れているのか分からないひきつった顔で男性から目を逸らしていた。

 その表情を見て咲園さんは透華から男性を遠ざけるように話題を逸らす。

「実はお聞きしたいことがありまして」

「なんでしょう?」男性は透華から手を離し咲園さんの顔を見て言った。

「この子...晶同透晴さんが――」

 咲園さんが詳細を説明する。

「ふむ。そのような文献はここにはありませんね。お役に立てず申し訳ない」

 男性が頭を下げ、その動作でこの男性の育ちが良いことが分かる。

「ですが、貴方は彼に似ている。貴方を見るだけで彼を思い出しますよ。貴方のように女性と見間違えるほどの美貌を持っている人でした」

「申し遅れました。私は聖敬人ひじりけいとと申します。ここの司教という役職になるのでしょうか。よろしくお願いします」

 そう言って聖さんは俺の顎を上げて俺の目線を合わせた。

「綺麗な目です。そして彼は貴方と同じようにここの生まれでは無いのに『水晶の巫覡』の力が使えたのです」

「彼って一体何者なんですか?」俺がそう聞くと、聖さんは微笑んで言った。

「彼は私たちの信仰対象ですよ。彼がいたからこそ今の私たちがある。とても優しくて、貴方のように綺麗な人でした。ああ、貴方を見ていると百年前を思い出します...」

「百年前!?」

 見た目は20代程にしか見えないのに百年前の記憶があるのか。

「言ってませんでしたね。私達『水晶の巫覡』は長寿なんですよ」笑顔で咲園さんが言った。

 『水晶の巫覡』が長寿なら今咲園さんは何歳なのだろうか。勿論そんなことを聞くのは失礼なので聞こうとはしなかった。

 咲園さんは何かを思い出したかのように声色を高くして言った。

「そうだ!貴方の力が彼と同じなのならあの宝石が使えるはずでは?」

「その手がありましたか。では晶同さん。ついてきてくれますか?」

 何故俺がついて行くのかは分からないが、とりあえずついて行くことにした。


 思っていたよりも戻るのに時間が掛かってしまった。というのも聖さんの自室に連れられてから、その宝石とやらを見せてもらった。宝石は銀のネックレスにはまっており、白く輝いている。

「これを首に付けてこの教会にある祭壇の前に立ってみてください」

 俺は言われた通りにネックレスを首に巻き、聖さんの自室から出て祭壇の前に立つ。

 ステンドグラスは俺の身体を様々な色に染め、祭壇には俺と同じようにステンドグラスの影響を受け元の色が分からないほど彩色の水晶が置いてあった。

「俺は何をすればいいですか?」

「この水晶に対して自分の色を思い浮かべてください。『水晶の巫覡』であれば白に光りますが、彼と同じ力であればその色はステンドグラスの色をも変えてしまうほど強い青になります」

 俺は頭の中で自分の色を思い浮かべ水晶を見た。水晶は次第にステンドグラスを巻き込み色を白一色に染め上げる。

 俺は『水晶の巫覡』だったのだろうか。だがステンドグラスに広がるほどの強い色。

「これは...」聖さんは細い目を見開いて小さくそう言った。

 何か不味い事でもしただろうか。咲園さんや奏先輩たちも黙り込んでステンドグラスを見ている。途端、ステンドグラスが何か小刻みにぶつかっているかのような音を出し始める。

「晶同さん!危ない!」

 聖さんの声がした方を向くと、俺に向かって走り出していた。そのまま聖さんは俺の腕を掴みステンドグラスから俺を離した。

 そしてステンドグラスから大きな音が鳴り、割れ目が入り始めた。次第にそれはステンドグラス全体へと広がっていき、ついに上から崩れるように割れた。

 ステンドグラスは破片となって光を纏い落ちていく。俺はなんでステンドグラスが割れたのか分からずに困惑した声を出した。

「なんで...?」

「まさか...いや、ここまでではなかったはず...」

 聖さんは何か考え事をし始めてしまった。咲園さんは驚愕を隠しきれず口に手を当てて割れたステンドグラスの破片を見ていた。

「大丈夫?」奏先輩はそう言い俺へと駆け寄ってくれいていた。

「大丈夫です。何が起こってるんですかね」

 奏先輩は何が何だか分からないと言いたげな顔をしている。俺もおそらく同じような顔をしているだろう。

 俺は首のネックレスを持って聖さんに返そうとするが、聖さんは手で俺を制した。

「いや、それの正しい持ち主はおそらく貴方です。お譲りしますよ。そんな事より、聞きたいことがあります」

「なんですか?」

「貴方は先ほど咲園さんが説明してくれた時に、透明人間を助けたと言いましたね、確か零さんと言いましたか」

「はい」

「私たち『水晶の巫覡』は透明人間を護ることが使命です。それは透明人間を元に戻すことが非常に困難なため。しかし、過去に透明人間を助けた事例がない訳ではありません」

「過去に透明人間を助けることのできた人がいるっていうことですか」

「その通り。その者は私たちが生まれる前、約120年ほど前に愛すべき者を透明人間から元に戻し、『水晶の巫覡』では無いのに似た力を使える得体の知れない存在でした」

「...まさか」咲園さんは静かに言った。

「『衝心の守人しょうしんのもりびと』かもしれません。まだ詳しくは分かりませんが、その可能性が高いかと」

「なんですかそれ」

 また俺の知らない単語が出てしまった。

「『衝心の守人』は『水晶の巫覡』ですらほぼ不可能な透明人間の救助を可能にしてしまう存在です。ですがその強力な力ゆえに寿命を縮めてしまう...だからその力はどうか控えてください」

「分かりました」

「それと、そのネックレスを着けていれば『鎖裂』の暴走を多少制御することもできます。貴方の力の本質が分かるまではなるべく付けてください」聖さんは平然とした顔で暴走すると言った。

「暴走...するんですか...?」

「ああ、力を使い慣れていないと暴走する時がありますね。今の子どもたちも、少し言うことを聞いてくれないくらいには暴走します」

 俺は恐る恐る聞いた。

「...『衝心の守人』の場合は...?」

「まあ、町1つ消し飛ぶくらいには。だからもしどうしても使うときが来てしまったら最善の注意を払ってください」

 町1つ消し飛ぶのが本当なら、今の俺は制御出来ない兵器同然であり、そう考えると俺が今どんな状態なのか考えるだけで非常に恐ろしい。


 地上に戻り、咲園さんに挨拶をして教会を離れる。

「ご用はお済みでしょうか」

 山を降りて町に戻った時、そこには雨さんが立っていた。

 奏先輩が外出する時は必ずいるのではないだろうか。

「何で毎回分かるの...?」奏先輩は困惑した声を出して聞いた。

「仕事ですので」

「家では仕事中でも甘える癖に?」

 奏先輩から衝撃の言葉が出てきた。それが真実かどうかは雨さんの赤くした顔を見て分かってしまった。

「奏様...!それは...とにかく、奏様を迎えに来ました。今回は晶同様のために零様も車で待機していますので、早く向かいましょう」

 雨さんの車の前に行くと、車の扉が開く。中からは心配そうな表情をした零が出てきた。

「なんで来たんだ?」

「その...ハル君奏先輩と一緒にいるから雨さんが迎えに行くついでに私も乗せて行ってくれることになって...」

「それは分かったが、なんでそんなに心配そうなんだ」

「何かあったのかなって...私何も知らないし...私一応...ハル君の...彼...女」段々声が小さくなり、何を言っているのか分からなくなる。

「ごめんな、心配させたりして」俺はそう言い零の頭を撫でた。

「あ...あ、とにかく!一人で何でも抱え込もうとしないでね!」

 零は俺から離れるように走って車に乗り扉を閉めてしまった。


 今日は久しぶりに零の家で遊ぶ約束をしたので、零の家の前に来ていた。零の家は一階建てで幅が広く普通より高そうな黒塗りのモダンハウスだ。

「いらっしゃい、透晴君」そう言って玄関に立っていたのは零の母だった。

 零が見つかって普通の生活が戻ってから零の母は元気になったし、父がいなくなり主婦を辞めて仕事をし始めてからとても頼もしい表情になっている。零に似た綺麗な美貌は、零が見つかるまではやつれていたが今では元通りの綺麗な顔になり、声も掠れていた感情の無い声から少し色気がありつつ聞き取りやすいまさに大人の女性と言った声色に戻っていた。

「ハル君!いらっしゃい!」元気な声が玄関から右にあるリビングから聞こえてきた。

 リビングに向かうと、淡いピンク色のエプロンを付けた私服姿の零がいた。

 リビングの食卓には大量のクッキーが大皿に置いてあった。

「お母さんと一緒に焼いてみたんだー」

「零ったらあんなに楽しそうにして...母さんも見てて嬉しくなっちゃう」

 零の母の笑顔は何より幸せな感情が誰よりも顕著に出ており、それは零にも遺伝している。

 零の家で食卓の椅子に座るのは何時ぶりだろうか。零の母は俺を自分の息子のように扱ってくれるので、友人の家という感覚はなくほぼ自分の家のような雰囲気をいつも感じていた。

 クッキーを手に取る。程良く温かい感触が手に伝わるので、おそらく焼きたてなのだろう。口に入れると、高級感を感じられる上品な味と零の好みが若干出ている甘いチョコの味が口の中で広がる。

「美味いよ、これ」

 正直に思った感想を声に出すと、少し不安げな表情をしていた零の顔が安堵の表情へと変わった。

「良かった...」

 

 しばらく食卓で零とその母との会話を楽しんでいると、零の母は真剣な顔をして言った。

「透晴君。改めて、零を助けてくれてありがとう。私、零を失ってあのクソ旦那もいなくなってから毎日大変で...零が戻らなかったら笑顔になれる日なんて来なかったわ」

「俺はただ零がいる人生を取り戻したかっただけです」そう言うと零の母は何故かいたずらに微笑み、零を見て言った。

「だって、零。愛されてるねー」

 俺は自分が言った事の別の意味を理解し、零とともに顔を赤くした。

「会わないうちに随分男らしくなって...お母さん惚れちゃうかも」

 零の母がそう言った途端、零は母を見て驚いた顔で声を漏らした。

「え...」

「冗談...ですよね?」俺は恐る恐る聞いた。

「あら?ちゃんと伝わって無かったかしら?まあ...零も私に似てるし、零が好きになった男を私が好きになってもおかしくないってこと。だからちゃんと零は透晴君を私に取られないようにたくさんアプローチしなきゃね」

「はい...」

 零の母が微笑んでいる隣で、零は母に騙されて拗ねたように顔を下に向けた。

「ハル君!もう部屋行こう!」

 急ぐように零は席を立ち俺の手を引いてくる。

「零、透晴君とそういうことをする時は、ちゃんと私に言いなさいよ!私が邪魔しちゃいけないから」零の母は小悪魔的な笑顔で零に言った。

「そういうことってどういうこと!」

 零は母に怒鳴った後、速足で俺を連れて零の部屋へと向かった。

 零の部屋はとても整っており、姉さんにも見習ってほしいくらいだった。

「変わらないな。ここは」

「そうだねー。私がいない間、お母さんがずっと掃除や整理してくれてたって」

 零の母はよほど零を待っていたのだろう。

「あのね...ハル君...」

 零はもじもじしながら下を向いて上目づかいでこちらを見てくる。可愛すぎる。

「もし...ハル君が...そういうことしたいなら...私...その...受け入れるよ...」

 何をだ。そういうことがどういう事なのかは互いに分かっているが、本当にしていいのだろうか。まだ付き合ってから早い気がするし、俺はあまり知識がある方ではないので、零をリード出来なければ恰好悪い姿を零に見せることになるだろう。

 いつもと変わらない零の恥ずかしがる表情が可愛すぎて、その顔に劣情を抱いてしまう。零が女性であることを俺に意識させてくる。

「だめだ、零。まだ早いよ」

「またそうやって私を避けるの?私は別に良いよ?...ハル君なら」

 零は顔を赤くしていたが、俺に目を合わせようと努力してるのが分かる。

「俺はもっと零を大切に――」

「ピルは飲んだよ?ちゃんと...その...ゴムも...買った」

 俺は苦労したであろう零の決断を、ここで簡単に無碍にして果たして零を大切にしていると言えるのだろうか。俺だけでなく、零の考えを尊重するべきなのではないだろうか。

 考えに考えを重ね、ついに覚悟を決める。

「分かった。だが、期待はするな。俺はそういうことの知識が無いんだ」


 零との行為中、零が可愛すぎて俺は永遠に悶絶していた。零の甘い声も、俺を誘う表情も、身体も、全てが可愛かった。

 そして行為が終わって着替えも終わりそろそろ帰ろうとした頃。

「今日は...ありがと。...その...無茶を聞いてくれて」

「いや、俺が零を大切にしたいあまり避けていたせいだ。ごめんな」

 俺は零を抱きしめた。再び零の顔が赤くなり、零の鼓動と体温を感じる。零の鼓動を感じると、零が自分だけのもののように感じて幸せな気持ちになる。

「好きだよ」

「...俺も」


 今日は月が良く見える。今日は月が良く見える。いっそのこと、この世界の透明人間全てを照らして見えるようにしてくれないだろうか。だが、そうでなくても、今は零がはっきりと見える。それだけで幸せだった。

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忘却の水晶〜透明な女子高生〜 あきのもあい @akinomoai

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