第36話 堕ちる竜


「なんで、なんで気づかなかった!」

「落ち着いてススラハ!」


 精霊にそう言われながらも、噛みしめる衝撃が歯茎に伝わる。夜風が身体に刺さるのがわかる。そして、腕の関節にぴりぴりとかすかな痛みが走る。馬の手綱を離さないように強く握り締める。


 無事で、どうかご無事で。


 呼吸がつらくなるだけなのに、涙が出てくる。まるで自らを罰するために苦しくなることを望むように、呼吸が乱れていく。


 腕が引きちぎれるように痛む。指先に力を入れろ。決して手綱を離すな。


「ティバルラ様……!」


 視界が揺れる。頭を地面に強打したような、揺れ。頭ではわかっていても、意識が痛みに混ざる。歯にすら力が入らない。ゆっくりと口が開く。


「起きて!」

「寝ちゃだめだよ!」


 だめだ、このままじゃあ――ティバルラ様を護れない。


 顎が動いた音が体内に響いて、痛みが一瞬で身体を駆ける。口の中にまずい味が勝手に広がる。もう一度舌の傷をえぐるように歯を立てる。自らの使命を忘れないように、痛みを覚える。


「起きろススラハ……!」


 駆ける馬から落ちないように、しがみつくように乗った。木々の間を縫うように馬は駆けた。木々の枝がかする腕が痛い。


 竜の雄叫びが響く。森の草木が逆立つように揺れる。圧倒されるなかでも馬は足を止めず、走る速度を落とさない。剣すらも持っていない人間が単騎で突っ込んでいくことも、ティバルラ様の足手まといになることも十分承知の上だ。


 舌を噛んだあたりから身体にそれといった負荷がかかっていないこともわかっている。


 それに先程の雄叫びを聞く限り、竜はまだ堕ちていない。竜もそれをわかっていて、ティバルラ様について行ったのだと思う。これがティバルラ様の最後の頼みなのだから。


 走っていた馬が徐々に速度を落として、ゆっくりと止まる姿勢に入る。馬から下りて礼を言う。


「もう一つ、君に無茶を言うね」





 足場が不安定な森の中を必死に走る。馬よりもずっと遅く、痛みに鈍感にもなれない。身体の奥底からじわじわと痛む本人以外認知できない負荷とは違い、直接身体に目で認識できる傷を負う。どちらも痛いのは変わりないが、傷ができるのと同時に痛みが走ると怖さが余計に増す。今から俺は戦場に向かうのだという怖さが、急に現れるのだ。


 それでも幸いなことに、身体が動く。


 月の光がやけに強く見える。戦場はそこだ。俺は戦場では役立たずだから、茂みに隠れるのが一番だろう。その時地響きのような音が轟く。木々が小枝のように折れていく音もうるさく響き、やがて静寂が取り残されたのを聞いて茂みから向こう側を覗いた。


 泉の中に血を垂れ流して倒れている大蛇がいた。そこにティバルラ様の御姿も竜もない。まだ戦いは続いている。そっと茂みから出て大蛇を確認する。首元に致命傷がある。大蛇の首が浸かっている泉は大蛇の血に染まっていた。大蛇の身体にそれ以上の傷は見当たらない。おそらく昼間に撒いた酒入りの泉の水を飲んで眠ったのだろう。そしてティバルラ様が寝首を切り落とした。


 蛇の身体をよく観察すると、腹のあたりにわずかに手のようなものが見えた。刃のような爪を見る限り、竜の手が退化したもののように見える。片目の大蛇に合流した方だから堕ちてすぐの竜と見れば納得はいく。


 すると腹部に大きく痛みが走る。距離が近いせいか、痛みの回りが速く、重い。


「いっ……!」


 ティバルラ様は片目の大蛇とまだ戦っている。この様子だと片目の大蛇は泉の水を飲まなかった。でなければ、ここまで暴れることはないはずだ。


 そう思い木々が倒れている方を見た時、竜の悲鳴が森中に響いた。巨体が地面に突っ伏すような音が聞こえた。


 竜か、それとも大蛇か。


「ティバルラ様!」


 俺が行ったところで何ができる?


 そうわかっていながらも身体は動いた。倒れる木々の間を縫うように走っていく。全身が痛く、重い。いつもならもう気絶している頃だろう。口から垂れ出す血すらも気にせずにただティバルラ様の元に走った。


 血の匂いが濃く、身体中に纏う。大蛇の血と同じような臭い。水に浸かってないぶん、より濃く鼻を刺激する。倒れている木々に血が飛び散っていて、開けた道に出るとそこには項垂れている血まみれの竜を見つけた。


 そしてその奥で、もう片方の目を潰されて息も絶え絶えに横たわった大蛇がいた。その首に大剣を振りかぶったティバルラ様の御姿があった。


「我こそは、ティバルラなり!」


 

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