第28話 給仕のホルーリア


「あんたが塗爪をしてるところを見た時さ」


 朝、旅立つ前。湯浴みの後のすこし湿った髪のままで歩いていると、ホルーリアに会った。同じ方向に用事があったから一緒に向かうことになり、何の話をしようかと考えていたらホルーリアから話題を提供された。


「あ、こいつは無茶するなって思った」


 ふふと笑われながら、ホルーリアは握っていた空の洗濯かごを片手で振り回した。ホルーリアは学舎ではとても静かな子で、打ち解けるまでに時間がかかった子でもあった。用心深いというか、警戒心がなかなか解けないというか、なにか相手の核を見ないと信頼できなかったのだろう。俺がいくら母に憧れて塗爪師になりたいんだと言っても嘘を教え込まれていると思い込んで勝手に落ち込む人でもあったし、とにかく自分に自信のない子だった。


 それがここまで自我をはっきり出して意欲的に仕事に取り込んでいるとは正直幻を見ているかと思った。思い切り笑って、時に必死な形相になり、人のことを思いやれるところまでたどり着いていると思うと、余程、よき人やよき場所に巡り会えたんだなあとこっちも嬉しくなれた。


「無茶しないでねって言っても、あんたは塗爪師としての誇りがあるだろうから、無茶はするんだろうけどさ」

「ホルーリアにはないのか。塗爪師としての誇り」


 そう聞き返すと、ホルーリアはまたうふふと笑った。


「塗爪師としての誇りはないかな。だって、私奥様に拾われた身だもの」


 アリシャラ公じゃなかったのかと驚いていると、すぐにそれを指摘してまたけらけらと笑った。どこに行っても断れ続けた塗爪師のホルーリアは、最後に僻地のアリシャラ公の元へたどり着く。そこで彼女に声をかけたのは奥方のアシュリタ様だったという。


『でも、塗爪師としてではないわ。今までの貴方を捨てる覚悟があるのなら貴方、わたくしの元で働きなさい』


 結果ホルーリアは死にものぐるいでみにつけた塗爪師としての知識を捨てて、給仕として今この城で働いている。内気だった己をも捨てて、もぎ取ったのだ彼女は。


「でもたまに人手が足りない時とかは塗爪もするわ。奥様に言われたことはなんでもするって決めたもの」


 ホルーリアは笑うのをやめて、光差す窓辺の向こうをしっかりと見た。その眼光は鋭く、冷ややかなものだった。秘めた刃を彼女は持ち合わせていた。もうあの頃のホルーリアはいないことを俺は悟った。そんな瞳のまま、彼女は俺の方に向き直した。


「でも私、あんたに負けたくないと思った」


 そう言って顔をほころばせたホルーリアは、あの頃と変わらない笑みを浮かべていた。


「私がそうであるように、あんたはティバルラ様じゃないと嫌なんでしょ」


 ほんとうを知りたいと思う、あの期待で心がはずんでいる表情。それがあまりにも懐かしくて、俺は返す言葉を失っていた。


「ティバルラ様だからお仕えしたいんでしょ」


 そうだ。


「だから、傷を代わりに背負えるし、お守りしたいと思うんでしょう」


 その通りだ。あの御方だから、俺はここにいる。あの御方の傷になるくらいなら、俺が引き受けると思えるし、力になりたいと思うし、安らぎあれと願いたい。それに迷いなど一切ない。


 ホルーリアが光を宿したままの瞳で射止める。


「だったら戦場を見誤るなよ」


 そうか。ただの塗爪師だったらいいわけじゃない。俺はティバルラ様の塗爪師で在り続けたいのか。


 ティバルラ様が戦場に再び向かうのならば、奮い立たせるような塗爪師になる。負荷をひとりで抱えさせたくないのならば、ひとりの人間としてあの御方の隣に立ち、支える。


「塗爪師は塗爪師でしかない」


 あの御方に名づけるような塗爪を施すのと同じように、俺は今の俺を必要とすることを肯定すべきだ。


「塗爪師の戦場はどこだ?」


 その答えはとうに決まっている。


「常に、爪の上だ」


 まっすぐとホルーリアを見つめてそう言い返す。するとホルーリアは歯を見せて笑ってくれて、ばんっと力強く背中を叩いてくれた。


「よしゃ、行ってこい!」


 湿っていた髪は乾いていて、すっかり頭は軽かった。


「ありがとう、ホルーリア」


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