第27話 塗爪師のススラハ・3


 穏やかな雨で湿った空気の中、ホルーリア招かれた部屋には、既にティバルラ様がいらっしゃった。アリシャラ公はおらず、ホルーリアも仕事に戻るとそそくさと去られた。


 扉を閉めて、ゆっくりとティバルラ様が座る椅子の元へ歩み寄る。なかなかまっすぐにティバルラ様を見られず、視線を下げたまま近寄った。すると、ぬっと手が伸びてきて頬に触れる。それを合図にするように俺は視線を上げ、ティバルラ様を見た。


「ススラハ」


 覚悟を、決めるしかない。頬に触れるティバルラ様の手に両手で触れる。


「あの時から、答えはとうに決まっておりました。ティバルラ様、俺もお供させていただきます」


 わずかにティバルラ様の腕が力が入ったのがわかる。そう言ったからには、もう引き下がりたくない。ティバルラ様は眉間にしわを寄せることなく、ただ少し悲しそうに俺に再び問う。


「……本当にいいのか」

「はい」


 その瞬間、扉が大きな音を立てて開き、突然侵入してきた輩が剣を振り回して襲い掛かってきた。


 ティバルラ様がいない間、なにか俺にもできることがあるんじゃないかってずっと探していた。戦術や野宿の様子をすべて覚えることはできなくても、せめて俺一人の身だけでも守れないかってずっと模索していた。


 俺の髪を切って満足されたザクリヤ様に声をかけて騎士様たちにも護身術を教えてもらえたことは今回の大きな成果だろう。


 相手が重装備で動きが遅く、俺の方が素早く動けるときは――!

 

 教えられたとおりに身体を動かした。それに敵が引っかかりしりもちをついた瞬間に、地面に落ちた剣を蹴った。敵の無力化を試みるだけでも、心臓はばくばくと緊張して身体は思うように動かない。呼吸は勝手に速くなるし、身体は硬直する。


 俺の後ろで様子を見ていたティバルラ様がゆっくりと剣がある方へ向かう。剣を持って、こちらに帰ってくると顔を隠した彼のほうに剣を渡した。


「……ザクリヤ」

「しょうがないでしょう。頼まれたから教えただけですよ。結構物覚えもよくて、なかなか教え甲斐がありましたよ」

「ザクリヤ」

「体格もいいし、大丈夫でしょ」

「そういう問題ではない」


 そう言いながらも手を貸してザクリヤ様を起こす。病み上がりの身体だろうが、戦場には関係ない。そう言って今回の役目を引き受けたと言っていた。その情報を横流ししてくれたのもザクリヤ様だった。


 練習だからこうして無力化できますと訴える姿勢はとれた。でも、本番ではティバルラ様どころか自分の身を護ることすら危ういだろう。


「俺は塗爪師以上にはなれない」


 情けない自分に、反吐が出る。きっとこれからもこのような思いを持ち続けるだろう。そんなのも百も承知だ。


「だからあなたに力を託し、あなたの痛みを引き受けます、ですから――」

「いい。答えは得た。ならばそれ以上俺がとやかく言うことはできない」


 ふと表情を柔らかくされたティバルラ様の手がまた伸びて、俺の前髪に触れた。


「……髪を切ったな。凛々しい顔が、よく見える」


 急に頬から熱が身体にこもっていくのがわかる。


「ススラハ」


 この熱に身を捧げたい。きっとそう思っているのは俺だけじゃないと、俺は知っている。


「爪を塗ってくれないか」


 名を呼ばれる喜びを、俺は良く知っている。



 俺の唯一の荷物であり商売道具、塗爪師としての誇りと証。爪を塗る前に手全体に熱を馴染ませるのはたぶん俺だけがやっている行為だ。対象者の身体の強張りを理解し、改めて身体に馴染ませ、他人の手と触れあうことで気持ちを和ませる。


 塗爪師からすれば、手足からその人を知る行為でもある。どこに力を入れて過ごしてきたか、どんな癖を作ってきたか、あるいは作らないとここまでこれなかったか。手足が憶えていることを、そっと手足から教えてもらう。


「塗らせていただきますね」


 まずは手の親指から下地を塗る。下地はすぐ乾くから両手両足と一周したらおおよそ乾いていることが多い。下地を塗って、乾いたら一回目の塗りを始める。


 穂先にまんべんなく塗料をつける。たとえ指に塗料がついても俺は死なない。少し多めにつけて塗っても、少なめに塗って足りなくて二度塗りしても、死んだりはしない。


 けれど、今日この時だけは違う。全身全霊を込めて塗って差し上げろ。それが今日の俺の役目だ。揺るぎない心持であるのだからなにも揺らぐことはない。


 しっかりと眼を見開いて慎重に、しかし思いきり塗っていく。それはまるで、俺の生をも肯定しているように思えた。


 なんだ俺、ちゃんと覚悟決まってんじゃん。


 ぽたりと汗が床に垂れる。短くなった髪の毛先にも汗がついていた。顔を上げて髪をかき上げて、ティバルラ様の方を向く。


 顔を上げた俺を見るティバルラ様の眼差しはいつもと全く違っていた。微笑んでいるのとも、優しく見守られているともどこか違う――いや、それらもすべてを兼ね揃えられているような眼差しは、俺を射る。


 不器用な御方の抱擁みたいな硬さを持った瞳を見た俺は、俺がティバルラ様を慕っていることに、そこでようやく気がついた。

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