第22話 半身のススラハ
帰還が遅延した時に、ティバルラ様の包帯を取り換えたのを思い出す。あの傷も痕になっているのかもしれないと思うと、俺は居ても立っても居られなくなって、先程の部屋に走って戻った。
いつもこんなに走らないから呼吸がすぐに苦しくなるし、足もいつもより重く感じる。口を大きく開けて空気を雑に取り込み、足全体で地面を踏みしめて前に進む。
――俺の戦場は、戦場に在らず。
先程言った言葉を改めて反芻する。
塗爪師は戦場の最前線には立たない。けれど、最前線に立ち続ける御方の隣でその身体を支える。
そうなることをちゃんと知っているから、塗爪師は塗爪の根幹を忘れない。
塗爪師は死地に出向かう人の最期に立ち会うためにまじないをかける。塗爪の行為は戦士以外の顔があることの証明でもある。大切な人がいること、守りたいものがあったこと、かれらの生活に戦う以外の選択肢もあったこと、そして戦士になると選択したこと――それらすべてを肯定する行為こそ塗爪だ。
しかし、同時にかれらを戦場に束縛するものでもある。塗爪師は戦場での身体強化の効果を与え、いつもよりも強い力を強制的にかれらに持たせて戦わせる。外から加わる肉体的な負荷は塗爪師が、精神的な負荷は騎士が担う。
その精神的な負荷を、ずっとひとりで抱えさせるつもりなのか。
俺はティバルラ様の傷を完全に癒すことはできない。これからもあの御方の身体はより傷つくというのに。
涙に溺れてしまいそうだった。俺が傷ついているわけではないのに、なんでこんなに苦しいのだろう。廊下を曲がろうとしたとき、強い衝撃に見舞われた。俺は受け身も取れずに、床に倒れる。痛みがじわじわと身体に波打ってくる。打撲くらいなのに、すぐに起き上がれなくて、余計に涙に溺れてしまう。
「大丈夫ですか?」
その声でようやく人とぶつかったことに気づく。けれどなかなか思うように返事ができない。
言葉の意味は分かるのに、どうにも声が出ない。今すぐにでも立ち上がって早く部屋に戻りたいのに、できない。涙が身体中を流れて、やがて感覚を支配する。からだが苦しくなって、息を求めて呼吸を速くする。
「あれ、君は……」
なんでこんなに苦しいんだろう。なんで、俺はこんなに弱いんだろう。
そう思ったら笑えてきて、それから目の前が真っ暗になった。
⁂
夢は見なかった。
だから身体がやわらかいもので包まれていることに気づいて、意識がはっきりした。あたたかくてふわふわで、少し腹部に重みを感じた。
そうして目を覚ました時に一番はじめに視界に見えたのは、ホルーリアだった。間抜け面だなあと思っていたら、すぐに視界から消えて、大声を張り上げる。
「目を覚ましました! 覚ましましたよ旦那様ぁ!」
ホルーリアの大声に驚きながら、あたりを見渡すと、腹部のあたりにティバルラ様がうなだれていた。俺慌てて身体を起こそうとすると、それを制する男性の声が聞こえた。
「眠ってるから動かない方が嬉しいと思うよ」
先程ぶつかった時に聞こえた声と同じだった。聞き覚えのある声で、顔を上げると、そこには顔の半分を包帯でぐるぐる巻きに固定された方が療養椅子に座っていた。
「ああ、これは前からの傷」
あまりにも俺が驚く顔で固まるものだから、彼は俺を安心させるようにそう言った。
「君のせいじゃない。だから、大丈夫だよ」
何気なく言われた続きの言葉に、涙は引き寄せられた。
そうだ。俺のせいでできた傷じゃない。俺の傷じゃ、ないんだから。
「ススラハ」
俺の腹部でうなだれていたティバルラ様がいつの間にかこちらを向いていた。そして、ゆっくりと身体を起こして近づいてこられた。
「お前は私の、半身だ。だから傷つくのだ。たとえ遠く離れていようとも、お前は私の傷を担っている塗爪師なのだから」
新しい涙がするりと頬を伝って流れる。けれど、呼吸は乱さない。しっかり呼吸をして身体の内側をほぐして、ゆっくりとわだかまりを解いていく。
視界に映る俺の腕に傷痕はほとんどない。傷痕にはならない負荷。そんな俺も、ちゃんと傷ついている。
だから苦しいんだ。
ティバルラ様の親指が俺の頬に触れる。ゆっくりと涙の痕をなぞられた。
「ふふ」
「……ザクリヤ。俺はなにかおかしいことをしてしまっただろうか」
その名前を聞いて、精霊はとことんいじわるだと思った。
「いや、ね? ススラハを見つけてよかったなあと改めて思っただけですよ」
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