第18話 名を書くティバルラ


 ティバルラ様に想い人、そんな浮ついた話は屋敷でも特に話題にはあがったことはない。でも、こちらでその話があがったということは、おそらくティバルラがアリシャラ公に相談していたところを盗み聞きしたか、あるいはあの人柄のアリシャラ公だったら祝いだと叫ぶ可能性もあるだろうと様子が手に取るようにわかる。そう思うと、噂が広がるのがあまりにも早くないか。


「こっちではそんな話聞いたことないけど……」


 どれだけ記憶を遡ってもまったくそんな話は聞いたことがない。でも、さぞかしよき友のような御方なんだろう。ティバルラ様の少し言葉足らずな部分を理解できる御方であるのはなんとなく察せる。


「でも、ティバルラ様のご寵愛を受けられる方だ。きっとよき人であることは間違いないだろう」

「……器が広すぎてもだめね」

「器?」


 ホルーリアがティバルラ様のように少し眉間にしわを寄せて、思いきり苦い顔をする。


「さ、アリシャラ様のところに行きましょ」





 ホルーリアの後をついていくと、アリシャラ公とティバルラ様が既に席について談笑されていた。彼女はお構いなく、会話に割って入った。ここにやって来て、ホルーリアは気が強くなったような気がした。


「失礼します。お客様をご案内しました」

「なんだ早かったね。もっと話してもよかったのに」


 アリシャラ公に招かれて、素直に彼の真向かいに座らせていただく。柔い笑みで微笑んでいるが、正直何を考えているかわからない笑みは怖い。かといって常に仏頂面を突き通しているティバルラ様もいつになく眉間にしわを寄せている。ティバルラ様の机周りには無数の紙が散らばっており、それらに難しそうな顔をして向き合っておられた。


 圧迫されている空間で、俺はどこを見ればいいのかわからず、目の前の大きな机の何も置かれていないところを眺めていた。


「ねえススラハ」


 ティバルラ様よりも高い声に呼ばれて目線を上げる。先程とは違い、アリシャラ公に威厳が宿っている。背筋を伸ばして返事をするが、俺の声はどうも震えていた。


「そんなに怖がらないで。君に頼みたいことがあるんだ。いいかな?」


 こんな小姓未満に一体何をさせるんだ。正直、なにかを試されるに違いない。でも、上の方の言うことはおとなしく聞くのが一番に決まっている。返答を早くしなければと思う一方で、なかなか声が出ない。速まる鼓動がさらに焦らせてくる。


 言葉を選び違えてはならない。


「できることならば」


 そうゆっくりと伝えると、アリシャラ公は、にんまりと唇で弧を描いた。するとティバルラ様が一枚の紙を見せてきた。


「ススラハ。お前の名前は、こう書くのか」


 ティバルラ様はアリシャラ公の会話もぶった切る。雰囲気付けたであろうアリシャラ公も「たはー……コイツ」と言って先程までの柔らかい空気に戻すようにけらけらと笑った。


 すると、ティバルラ様がしゃんとした声で、俺の名を呼ぶ。


「ちゃんと見ろススラハ」


 学がないと出会ったはじめの頃に言われていたことを思い出す。あれはてっきり塗爪の学だと思っていたが、字の読み書きができないことも指していたのか、と思いながら渡された紙をよく見る。


 震えることなくまっすぐに書かれた線で書かれた俺の名前。ススラハ。少し、最後の文字が伸びすぎな、けれどもまったく歪ではないティバルラ様らしい文字。


 それは暗闇のなかに現れた一筋の光のような大それた特別さはなく、かといって親しさを持つような優しさでもなく。ただ、一音一音俺の名の一部であることを確かめるように、大切に書かれたような文字だった。


 微笑むこともできず、ただ書かれた紙から視線を上げてまっすぐにティバルラ様を見つめる。


「そうです。これが俺の名です」

「ではそれをやろう」

「え?」


 そう言ったティバルラ様は俺の名を書いた紙を手に取り小さく破いた。それを俺の手のひらに乗せた。そして紙を俺の手で包むように上から握られた。


「これくらいしかできないが、せめて塗爪の代わりだと思ってくれ」

「え、どういう……」 

「ティバルラお前さぁ~!」


 状況も意味も飲み込めなくて、置いてけぼりだ。アリシャラ公にいたっては、ため息をつきながら「ホルーリア、砂糖撒いて!」と言うし、呼ばれた彼女も「承知しましたぁ!」と言って本当に砂糖を撒くし、どれもこれも意味がわからない。


「じゃあ、さっそくで悪いけどススラハには庭に行ってもらうから!」

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