第14話 名づけられるティバルラ

 ティバルラ様から出た言葉に驚く。でも、次に屋敷を出るのはアリシャラ公のところに向かう三日後だ。それ以外にティバルラ様自ら出向く用事はなかったはず。じゃあ、なんのために?


 そう混乱して返事ができずにいると、ティバルラ様が続けて口を開く。


「……だめか」


 少し残念そうに思っているような声色で呟くティバルラ様を見て、俺は「だめです」なんて言える強い意志はない。


「いいえ!」


 一言で短く返すと、少しティバルラ様の瞳の光が揺れたような気がした。ティバルラ様は「ではさっそく」と言いながら部屋の扉を開けて先に入ってしまわれた。なにか無茶なことに使用されないなら……と跳ねる心臓を鎮めながら部屋に入る。


「あ、待ってください。道具を忘れて――」


 部屋に入って道具を持ってきていないことに気づき、一歩後ろに下がろうとすると、ティバルラ様が振り返る。


「これをつけてほしいのだが」


 その手にはいつも使用する金色の塗装ではなく、夕陽色の塗装が握られていた。おそらく、塗爪師の効果とは一切関係ない私物だろう。


「……塗爪師としての効果の付与はできませんが」

「ああ、必要ない」


 なにはともあれ、戦いに使用しようとは思っていないことが分かり、俺は一安心しながら夕陽色の塗装を受け取った。


 夕陽色の塗装のなかに、光が閉じ込められたような光沢剤が入っている。様々な角度できらきらと光る細工がしてある。既に何度か使っているらしく、瓶の中身は半分以上減っていた。


「右手だけに塗ってほしい」

「承知しました」


 先に下地を塗り、乾かす間、ティバルラ様はまた俺の名を呼ぶ。俺がはい、と返事をすると、僅かに口角を上げたような気がした。


「なぜ塗爪の前にこれを塗るのだ」

「爪の表面を滑らかにして整えてやるのです。そうして定着力を上げるのですよ」


 そう教えると、ティバルラ様はご自身の手全体を眺めるようにくるくると手首を回す。


「知らない世界やわからない世界を聞くと、胸が躍る」


 やわく、優しいまなざしだった。観ていた左手を俺に差し出す。渡された瓶を開けて夕陽色に染まった小さな筆先でティバルラ様の爪を一度塗っていく。


 すべての爪を一度塗り、うっすらと橙色にかかる。


「私はいろんな世界を見たい。同時に、そのためなら他を蹂躙する――あるいは蹂躙してしまう可能性を私自身が持っていることを思い出すのだ」


 ティバルラ様の瞳がご自身の爪から離れて、俺に向けられえる。ゆっくりと身体に刃が沈んでいくような感覚があった。先程とは違う、重みのあるまなざしだ。俺の鼓動は身体中を駆け巡って、太ももで大きく脈を打つ。


「私に塗爪をする時、どんな想いで塗っている」


 臆してはならない。それがこの御方に対しての敬意だ。


「――今は名づけるように塗ることを、試みております」

「名づける?」

「とても失礼なことかもしれません、が」

「いい。話してくれ」


 一度、口内に溜まった唾液を流すように喉を鳴らした。


「当たり前ですが、俺は俺の人生しか知りません。他者の人生について真に理解することはないと思っております。でも、俺達は互いに知り合いともに生きる、あるいは生きなければならない状況になる」


 ティバルラ様の左手を取り、再び夕陽色を塗っていく。爪の上の夕陽が、濃くなっていく。


「名づけるというのは、どんな状況であれ、生の肯定であると思います。その対象が望む望まない関係なく一方的にできてしまう行為であり、責任が伴う大事な儀式。これからティバルラ様にとって大事な局面がやってくるでしょう」


 窓から風が入ってくる。前髪が揺れて、思わず目を瞑る。髪を直して、改めてティバルラ様と向き合う。


「そんな時はおおよそ貴方が一人ぼっちの時です。そんな時に、手に塗られた爪を見るのです。その時『我が名は、我こそがティバルラである』と改めて思い出してほしいのですよ」


 そう言い終えると、キザな言い回しをしたかもしれないという気持ちになった。けれど、この言い方が浮かんだのだから仕方ない。ぐるぐると一人反省会をする。ちらりと顔を上げてティバルラ様のほうを見てみると真な顔つきでこちらを見ていた。やっぱり無礼な話だっただろうか、なんて思っていると、ティバルラ様はまた夕陽色に染まった左手の爪を見つめた。


「……私に私の名前を刻印するように塗る、ということか」

「そ、うですね。その言い方の方が近いかもしれないです……」


 噛み砕かされるように言い直されると、なんとも恥ずかしい。


 三回目の塗りをしようと準備をしようとすると、「これでいい」と言われる。そしてもう一度、爪をじっくりと見つめられる。


「これは、とても奮い立たせられるな」


 そう言ったティバルラ様は、感情が凪いだような瞳をしていた。

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