第5話 塗爪師のススラハ
自室で塗爪の道具を念入りに確認してから部屋を出る。門を少し開けていただいて、陽の色が空に滲んでいくのを見届けてから中庭を通る。水盤は潤ったままで、水面を覗くと表情の硬い俺の顔が揺れている。視線を上げると周りの緑は青々としており、いつも通りの日であることを表現してくれる。
これは決して戦いでも、勝負事ですらない。塗爪師として、当然の儀式をするだけだ。朝の冷たい風が眼に当たって、頭が冴える。
室内に入ると、使用人仲間がティバルラ様の部屋の前で塗爪をする際に必要になるものを準備してくれていた。
「言われた通り必要なものを用意したから確認してくれ」
ぬるま湯が入った瓶とぬるま湯を入れる器がいくつか、触り心地のよい布が数枚――すべて用意されている。
「揃えてくれてありがとう」
「いいよ。それよりお仕事、がんばれよな!」
緊張して強張っていた背中を押されることがこんなにも嬉しかったことはない。
扉の前で立ち止まり、鼻から息を吸い込んで口から吐き出す。心臓がこれでもかと鼓動する。誰に塗爪をしようが緊張するのはいつものことだった。扉の中央付近についた金属をやんわりと握り、それを使って三度ノックする。
しばらくすると扉が少しだけ開いた。俺は慌ててティバルラ様の主室に入った。
「お休みのところ申し訳ございません」
「謝るな。私の寝起きが悪いだけだ」
道具が入った鞄を置く場所を探していると、いつも何にも使用していない机の上に塗爪に必要な塗装類が置いてあった。黄金色の塗装ははじめてお目にかかるものだったから思わず立ち止まって見惚れてしまう。
「それでよかったか」
「はい。ありがとうございます。さっそくですが足の施術から行います」
ティバルラ様の留守中に先に運んでおいた施術用の椅子にご案内し、腰かけてもらう。その間に足を置く折り畳み式の踏み台を拡げる。小さな踏み台の上が俺の仕事場だ。
左足から乗せてもらい、俺はその間にぬるま湯を器に少し流し込み、手をつけて温める。先日見たところ、左足は薬指が欠損して他の指よりも短く、爪がない。それと中指と小指の爪はいくつかの小粒が固まったようにつぶれていた。
「まず、足をほぐしていきます。それから爪の形がきれいな親指から塗らせていただきます」
「ああ。頼む」
鞄の中から潤滑剤が入った瓶を取り出す。すこしだけ手で温めるように握る。それから、潤滑剤を手の上に乗せて体温で馴染ませる。今回はこの所作が一番重要だと言っても過言ではないだろう。
この瞬間が来ると、ついに塗爪が始まるんだと先程までの緊張など忘れて気持ちが高揚する。
潤滑剤によって俺の手がてらてらと輝いているように見えた。
「失礼します」
そう言ってティバルラ様の御足に触れる。脛を囲うようにして骨の周りをほぐしていく。足首を回して足先に指を伸ばしていく。指を絡ませるように足の指を握り、伸びた指先で付け根をほぐすように押す。
柔軟に動く優れた御足だ。きっとご自身でも日々疲れを落とすために動かしているのだろう。
硬くなった筋肉を削ぐように手を動かしてもするりと滑る。けれど、足裏と足先は別だ。指の長さが合わない分、他の指で調整するしかない。特に小指はそれによる損傷がある。横の皮膚が完全に固まっているのと、靴で削れて爪自体も本来の四分の一にも満たなくなっている。爪に関しては中指も同じような見た目をしている。
硬くなった小指に触れれば触れるほど、この方が一体どれだけの地面を踏みしめてきたを想像した。砂、瓦礫、もしかすれば人間の死体や魔物の死骸の上も踏みしめたことがあるかもしれない。
そんな方の帰りを、俺はこれから待ち続ける。
「今、あたたかさを感じますか?」
「ああ、とても。足先だけではないように感じる」
俺は足元から視線を上げる。ティバルラ様はゆったりとくつろぐように身体を施術椅子に預けられている。視線が交わって俺はできるだけ早口にならないようにゆっくりと話しかけることを意識しながら微笑む。
「今馴染ませるように塗っている潤滑剤に、塗爪師しか使用できない力を付与してあります」
「……対象者の強化付与か」
「そうです。本来なら塗爪に施されるものですね」
潤滑剤を塗りつけるようにティバルラ様の足先に優しく触る。
「中指と小指は、爪が生える部分がまだ生きています。ですからこの力を用いて、爪を再生します」
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