第4話 爪無しのティバルラ


 振り返ろうとするティバルラ様が怖かった。けれど、何事もなくこのまま過ごすわけにはいかなかった。彼の眉間に皺が深く寄せられている。怒っている、当然だろう。使用人ごときにこんな物言いされたんだ。覚悟はできている。


 せめて、目は逸らさない。ティバルラ様は透き通った水のような瞳をしていた。真ん中に居座る瞳孔は黒々と輝き、何かを考えているのか計り知れない。


「塗爪には能力強化の付与効果があると聞く」

「はい。それは俺にもできます」


 そう俺が答えると、ティバルラ様は余計に難しそうな表情をした。


「だが、私は足の爪がほぼない」


 俺は一度大きく目を見開いて、すぐに視線をティバルラ様の足元に下げる。すると彼は、つけていた防具をわざわざ外した。


「傭兵時代の何度目かの冬で、凍傷になった。それから指もいくつか失くした」


 靴を脱がれて、やがて露わになった素足ですら多くの傷を纏ってる。そんなティバルラ様の爪先は親指しか残っていなかったし、何本かの指は関節ひとつぶん短かった。


 塗爪による身体強化の加護は、対象者の両手足に塗ってこそ効果があらわれる。


「改めて尋ねる。ススラハ。お前はこのような足でもまじないを、塗爪師としての仕事を全うできるのか?」


 そう言われて俺はティバルラ様を見上げる。いじわるでそう言っているのではない。ただ、言葉の通り問いかけているだけだ。


 昔は塗爪は死ぬかもしれない人々にこそ与えられるものだった。それでもと、死地に出向かなければならない人が存在する。それを見送ることしかできない俺たちは、彼らの勇ましいとされる姿を見ることは叶わない。


 多くの屍に守られて生き延びる人々は、どうかと祈らずにはいられないだろう。あなたが無事に生きて帰って来てくれますように――そんな祈りを込めながら爪を塗っただろう。所詮おまじない程度だ、そう捉えられてもいい。おまじないがあるかないかで命が保たれるなら、それで大切な人が帰ってくるのなら。


 そしてそんな些細な祈りに応えるように、塗爪による第二の力は宿ったのだ。塗爪師に与えられた恩恵、それは対象者の強化付与。生きて帰ってきてほしい、そんな人々の想いが力として発揮できる機会を得た。


 ティバルラ様が爪がないから塗爪は必要がないのではないかと疑うお心はごもっともだ。


 だから、俺も全力で応えなければならない。


「できます」


 そう言って、呼吸を止める。


 するとティバルラ様は防具をつけ直した。一瞬に目に映った眉間の皺は先程よりも柔らかくなっていた。しっかりと装備した後、すっと背を向けた。その背は先程とはどこか雰囲気が違うように見えた。


「そうか。では、明日の早朝に事を頼む。何時に部屋を訪ねてもいい」


 そう言われてティバルラ様は主室を出ていかれた。


 足音が聞こえなくなると、俺は緊張が解けたようにその場にしゃがみこんだ。止めていた呼吸を取り戻して、どっと汗が噴き出る。


 爪のないティバルラ様にやれることはただ一つしかない。

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