第3話 使用人のススラハ

 門をくぐってはじめに感じたのは涼しさと視覚の賑やかさだった。門外は砂にまみれていたのに、中庭には木々が茂り、水路が通っていた。恒久的に水を確保するには、ラオドーラ国の北にある山岳地帯の水源からここまで地下水路を引く必要がある。ちゃんと灌漑された土地には、生命は再び芽生える。それを唱えるように、真ん中に設置された水盤から水音が響く。


 水の音は心地よく、風は体を預けられるくらい安心できるような涼しさで、とてもよくできた空間だったから、俺は思わず足を止めた。ちゃぽんとなにかが水の中に落とされた音を聞いて我に返り、慌てて言われた通りに真正面の居間に移動する。


 居間に入ると既にそこには背の高い大柄な青年が立っていた。俺よりもやや年上だろうか、振り向いたその顔には傷がいくつか刻まれていた。眉や口元には特によく目立った傷がある。


 無言が続いたことに気づき、視線を逸らすように俺はひざまずいた。


「は、はじめまして。塗爪師のススラハです。このたびは――」


「……名をティバルラ。ラフィリヤ騎士団の団長にあたる」


 雇い主であるティバルラ様は俺の言葉を遮り、名乗った。そしてすぐに俺に背中を向けた。嫌な予感がした。


「ところで私には塗爪は必要ないと思っている」


 想定していなかったけれど、的確に言われてほしくなかった言葉を受ける。でもなぜか、心は落ち着いていた。


「だが、お前を養うのは既に決定したことだ。だからその面に関しては心配しなくていい」





 そう言われてからやることがなくなった俺は使用人として屋敷で暮らしている。給料はいいし、ほかの使用人のも皆よい人ばかりだ。手放したくない日常ではあるんだけど、でもやっぱりそわそわする。塗爪師として雇われたはずなのに、どうして俺はこんなことをしているんだろう。


 今節が終わりを告げると、ラフィリヤ騎士団は魔物討伐や隣国の国境へと足を運ぶことを再開する。ティバルラ様たちは主に魔物討伐を主として動く。人の出入りが忙しない団でもある。


 ティバルラ様は屋敷に帰っても、食事と武器磨きに少し時間を割いて、すぐに眠りにつく。ティバルラ様の主室には武具たちが寝具の近くにあって、他に目立ったものは置かれていない。本当に眠るための部屋って感じだ。寝具もぺらぺらの平たいもので、到底騎士団の団長が使用しているものには見えない。


 けれど、眠るときだけティバルラ様の眉間から皺はなくなる。余程心地の良い、安心できる寝具なのだろう。


 余談だがティバルラ様は、めったに怒らない。いつも不愛想な顔をしてはいるし口数は少ない。あからさまに不機嫌なときはあるが、それを周りにまき散らすことはしない。そういうときは、大体ひとりになるように心がけておられるようだし、ぶっきらぼうではあるが、先に機嫌悪いことを伝えてくれる。


 最近の俺はというと、汚い仕事はできるだけしたくないと思う人が多いだろうから、主に清掃をする仕事を引き受けることにした。便所をはじめ、廊下や各部屋、風の塔に日干しレンガの隙間の砂埃まで隅々に触れていく。


 指先から汚れに触れることで、余計に塗爪を思い出す。いや、思い出すために汚れに触れるのだ。


 清掃は無心でできるからわりと好きだ。なにかを考える代わりに体を動かす。今の俺には持ってこいの仕事だ。


 ある日、ティバルラ様の主室の掃除をしていると、彼がすぐに引き返してきた。


「忘れ物ですか?」

「……ああ。ススラハ、だったか。お前は何をしている?」

「俺はこの屋敷の掃除をしています。ご覧の通り、今はティバルラ様の主室を」


 するとティバルラ様は部屋を見渡した。


「確かに帰りやすい部屋になった。ただ、物は動かさないでくれると助かる」


 そう言うとティバルラ様は俺に背を向ける。大きな背中だった。武具を背負ったその背を見ていると、秘めていたはずの感情が薪となり、不思議と身体を熱くして、いつの間にか口を開いていた。


「――俺は、清掃をしに来たのではありません。塗爪師の仕事をしにきました。爪を塗らせていただけませんか」


 一生ここで使用人として生きるくらいなら、追い出された方がマシだ――ずっと、ずっとそう思っていたんだ。


「たとえあなたには必要がなくとも、俺には必要なんです」


ああ、俺、本当は怒っていたんだ。

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