E-02
その日の放課後のことです。
わたしは懐かしい場所に足を運んでいました。
他でもない――幼いわたしが事故に遭った、いわくつきの道路です。
とはいえ、球根を手に泣きながら歩いたときのその道とは、すっかり様変わりしています。
というのも、娘であるわたしが事故に遭ったことに怒ったお父様が役所に抗議なさった結果、半年もしないうちに周辺道路の整備が行われ、この道路は車両通行禁止の歩行者道路になってしまったからです。
ウッドチップで舗装された遊歩道は足に優しく、小さい子どもが転んでも安心です。
実際、歩道には母親に手を引かれて歩く幼児の姿もありました。
ちょうど、あの時のわたしくらいの年齢のようです。
わたしには、母に手を引かれて散歩をした経験など、ないのですけれど。
わたしは歩道にある大きなカメの置物に腰を下ろしました。
これはこれで、触手で空を飛ぶのとは違った意味で、世界の見え方が変わるものですね。
「……この場所、覚えていますか?」
わたしは誰にともなくつぶやきます。
『…………』
帰ってきたのは、雄弁な沈黙でした。
わたしの言葉を否定もせず、聞き返しもしなかったことこそが、答えなのです。
「……やっぱり、あなただったんですね、ホンダさん――いえ、お兄様」
『……騙すつもりはなかった』
「わかっています。わたしがあまりにもお兄様を慕っていたから、ですよね」
『……ああ』
事故の場に居合わせた親切な好青年など、はじめからいなかったのです。
ホンダさんはわたしとの融合を果たしつつ、わたしの携帯電話を使って119番をなさってくださったのです。
「……もう一度、言わせてください。本当に、ありがとうございました。わたしは――志摩は。あそこで生き延びられて、本当によかった」
『……そうか』
ホンダさんはまさにその日、大気圏のはるか外側からやってきたところだったのだそうです。
長い宇宙の旅に疲れ果て、しばらくは休眠するしかないと思っていたところを、幼い少女――そうです、わたしに拾われました。
『君はなにくれとなく話しかけてくれてな。我らぐねぐねとしたアザミ色の触手にとっては情報こそがエネルギーの源なのだ。より多くの情報刺激と、それを統合しようとする意思――それが我らの情報基盤の中に濃度の勾配を作り出し、活動のエネルギーとなる』
「つまり?」
『君と話して元気が出た』
ところがその直後、わたしは事故に遭ってしまいます。
『むろん、私の使命の大きさを考えれば、名もなき少女を見捨てる選択肢もなかったとはいわない。が、私は助けたかったのだ。この星に降り立ち、初めて知り合った幼い少女のことを。見捨てることはできないと思った』
「…………」
ホンダさんは、照れたような笑みを浮かべました。……いえ、そんな気がしただけなのですけれど。
『私のやったことなど、君のやってのけたことに比べれば取るに足らないことだ。もう君は『お兄様』を越えている。君はこの星を救ったのだ。私だけでは、こんなすばらしい結果を得ることはできなかった。君は、私に受けた恩を、何十倍――いや、何百倍にもして返してくれたのだ。君を救ったものとして、こんなに嬉しいことはない』
「そ、そんな……わたしの方こそ、お兄……ホンダさんには、助けられてばかりでしたのに」
『セント・フローリアの女帝――青薔薇の君・深堂院志摩。君の名は我らぐねぐねとしたアザミ色の触手のマザーメモリーに確かに刻みつけておく。未来永劫――この銀河の命運が尽きた後までも、我らぐねぐねとしたアザミ色の触手は、君のことを忘れないだろう』
い、いえ、そんなことはしてくださらなくて結構なのですが!
それと、さりげなく「女帝」とか言わないでください!
わたしの様子を見て、ホンダさんは苦笑されたようです。
『それにしても、我々の力を、あんなにも自在に操るとはな』
「無我夢中でしたので……」
『地球人類には、何か秘めたる可能性があるのかも知れないな。種全体を横断する知的ネットワークを構築し、群体としてあることを選んだ我々とは異なる、別の進化の可能性が』
ホンダさんはなにやら難しい顔をして――例によって顔なんてないのですが――考え込んでしまいます。
『が、そうとだけ言っては君に失礼だろうな。君がぐねぐねとしたアザミ色の触手の力を引き出し、存分に操ることができたのは、君自身の素質のなせる業だろう』
「わたしの素質……ですか?」
『うむ。支配者としての天与の素質、とでもいおうか。君は人を屈服させる天才だ』
「ひ、人聞きの悪いことを言わないでください!」
『感謝と畏敬の念を込めて、君には〈
「い、いりません!」
薄々わかってはいたのですが、ホンダさんは真面目なようでいて実は結構ふざけた人(?)なのではないでしょうか……?
わたしがホンダさんへの評価を心の中で見直していると、ホンダさんはいつものように唐突におっしゃいました。
『……私は宇宙に帰らなねばならん』
「…………」
予想はしていました。ホンダさんはこの銀河に現れたぶよぶよとした褐色のゲルを追ってやってこられたのですから、その役目を果たした今、ホンダさんが地球に留まっている理由はもはやないのです。
『君のおかげで、君との融合状態は昨夜のうちに解きほぐすことができた。マイク・マクドナルドの分離にも成功した。奴を護送して私は一度母星へと帰る』
「その後はどうなさるのです?」
『さて……旅から旅へ。宇宙はぶよぶよとした褐色のゲルの天下となってしまったようだからな。しばらくは各地を転戦する日々になるだろう。……志摩、手を広げてくれないか?』
「こう……ですか?」
わたしが両の手のひらを上向きに広げると、そこに懐かしい球根が現れました。
タマネギほどもある大きな球根は、この年になってみると結構不気味です。
よく見ると球根の先と底の部分に細かな触手が生えていて、わずかに蠢いてもいます。
これは、継母が悲鳴を上げたわけですね……。
と同時に、こんな得体の知れないものをためらいなく手に取り、話しかけるくらいに無鉄砲だった幼い自分を誇りにも思います。
もしそうしていなければ、わたしはホンダさんとは巡り会えず、こうして花園を守ることもできなかったのですから。
「これが……奴だ」
ホンダさんの声は、もう身体の内側から聞こえてくるものではなく、手のひらにある大きな球根から発せられたものでした。
そのことに妙な寂しさを感じつつ、手のひらに現れた小さな球を見つめます。
ピンポン球ほどの大きさのそれは、ぶよぶよとした質感があり、そして褐色をしていました。ピンポン球はホンダさんの細い触手に絡められ、逃げられないようにされています。
「チッ……ケチがついたなァ」
ピンポン球がしゃべります。
「無事……だったのですか?」
「あァ……、お優しいぐねぐねとしたアザミ色の触手サンは、有害生物だからって簡単にゃ殺しゃしねーのよ」
ぶよぶよとした褐色のゲルの分離体――マイク・マクドナルドは相変わらずのぶっきらぼうな口調でそう言いました。
……いえ、見ていた限りでは、かなり本気で葬りにかかっていたように思えたのですが……本人がそう思っているのなら、言わぬが花というものでしょう。
「志摩、こいつの供述でひとつわかったことがある」
「何ですか?」
「トラックの運転手を操って事故を起こさせたのは、やはりこいつだった」
「わたしを――というより、わたしの中のホンダさんを狙って、ということですね」
「そうだよ。こういう直接的な手段は俺たちのルール的にはグレーなんだが、ま、てめぇには別の宇宙生物が融合してやがったんだから、問題はねぇのさ」
「……友梨亜様はこのことを?」
「知らねーよ。教えたら反対したに決まってるだろォ? あいつはてめぇのことをもっと正攻法で屈服させたかったようだぜぇ? 君としての器量で勝つのでなければ意味がないと、そう言ってやがったからなァ。ま、あいつなりのルールなんじゃねぇの?」
「…………」
マイク・マクドナルドの理解が正しいとは限らないのですが、なんとなく腑に落ちるものがありました。
友梨亜様はご自身のルールに従ってわたしに戦いを挑まれ、敗北を喫した後は、やはりご自身のルールに従ってわたしに頭を下げられたのでしょう。
本当に、底の知れない人ですね。
そして、そのあたりの思考様式は、ある意味ではマイク・マクドナルドたちぶよぶよとした褐色のゲルに通じるものが確かにあります。
だからこそ不幸にもぶよぶよとした褐色のゲルの誘惑をはねのけることができなかったのではないでしょうか。
「……なァ、青薔薇の」
「はい?」
「あいつに伝えてくれねーかァ? 今回は残念だったが……なぁに、おめえなら俺なんぞいなくても、やっていけるってよォ……グループ企業の総帥? んなもん、宇宙のデカさに比べりゃあクソみてえなもんだァな。あいつならそれこそ、ぶよぶよとした褐色のゲルを率いて宇宙を支配するくれえの気概を持ってもいいはずなんだよ。まわりのいけすかない連中に媚びなんて売るこたねェ……思うがままに生きればいいんじゃねえかと、俺っちはそう思うね」
わたしは意外な感じがしました。
マイク・マクドナルドは友梨亜様を騙し、たぶらかし、その高貴な魂を汚した悪の権化だと、そう思っていたからです。
彼は彼なりに、友梨亜様のお心を理解しようとしていたのかもしれません。
「なんだ、彼女に惚れたのか? マイク・マクドナルド」
「ばっ……馬鹿言ってんじゃねえ! 俺はただ、俺っちすら支配しちまうような女が、まわりの目を気にしてせせこましく生きてんのが気に入らねーってだけだッ! だ、大体、てめぇこそどうなんだ! なんだかんだでその女の中に十年近くいたって話じゃねーか! てめぇこそその女に惚れてんじゃねーのかァ!?」
「な、何を馬鹿なことを――! 私と志摩とのつながりは、もっと内面的で奥の深いものなのだ! 邪推はやめてもらおう! まったく、これだからぶよぶよとして性根の定まらない種族はいかんのだ……! その上、なんだ、その下品な褐色は! 貴様らのせいで宇宙が汚れる!」
「何だとてめぇふざけんな! ぐねぐねとした触手に性根をうんぬんされる筋合いなんざねーぞ! 大体下品だなんだ言うなら、そのアザミ色こそ下品極まりねーだろうがッ!」
なんだか、この二種類の宇宙生物の対立の根が見えてきたような気がしますね。
遠い母星への旅ですが、ホンダさんも案外退屈しないで済むのではないでしょうか。
「とにかく……私はもう行かねばならない」
「……そうですか。お引き留めもできませんものね」
そう言われてしまうような気はしていたのです。
だからこそ、今日こうしてこの場所へとやってきたのですから。
「さらばだ、志摩。君のことは忘れない。君のお兄様であるには至らない存在だが……私たちは種族を越えた友人なのだと、そう信じている」
「わたしもです、ホンダさん」
ホンダさんがわたしの手のひらの上から差し出した触手を、わたしは反対の手で握ります。
あいかわらずぐねぐねとしている上に人肌くらいの生温かさでおまけにうっすら湿っています。
そんなものでも、これが触れあう最後の機会かと思うと、名残惜しさを感じます。
握手を終えると、ホンダさんは触手を伸ばして、小型のロケットを作りはじめました。
プロパンのガスボンベよりすこし大きい程度のサイズですが、今のホンダさんを打ち上げるのにはそれで十分なのでしょう。
わたしはその作業を手伝おうとして――もう、触手を動かせないことに気づきました。はじめは気色が悪いと思っていた触手ですが、こうなってみると寂しいものですね。
ロケットはものの数分で完成してしまいました。
「では、行く」
「はい」
「あいつへの伝言、忘れねーでくれよォ?」
「もちろんです」
二人(?)の姿がロケットの中に消えました。
ロケットの丸い小窓から、ホンダさんが触手を振っているのがわかります。
わたしは手を振り返しました。
ロケットはまるで力を溜めるかのように身をかがめると、ばしゅっ! といういささかあっけない音とともに空へと飛び上がりました。
イカが水中を泳ぐときのような動物的な動作ですが――実際、触手でできているのですから、ホンダさんの一部にはちがいないのです。
ロケットはあっという間に見えなくなってしまいました。
そうなってみると、本当にあのようなもの――ぐねぐねとしたアザミ色の触手やぶよぶよとした褐色のゲルなどというおかしなものが実在していたのか、不安になってきます。
それでも、わたしは信じることにしました。
わたしを友と呼んでくださったホンダさんのお言葉を。
「これまでありがとうございました……お兄様」
たとえお兄様がぐねぐねとしたアザミ色の触手だったとしても、志摩はお兄様をお慕いしています。
(おわり)
花園の乙女たちの憧れる青薔薇の君はとんでもない人外でした 天宮暁 @akira_amamiya
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