二〇二五年 福地 暁斗 Ⅶ
暁斗は休日の朝、少し早めに目覚めた。今日は、久しぶりに瑞雲と映画を観に行く予定がある。瑞雲は既に起きていて、静かに身支度を整えていた。二人で映画に出かけるのは、いったい何年ぶりだろうか。少なくとも結婚してから、忙しさを理由に、デートらしいことはほとんどしていない。振り返れば、二人の時間がいつの間にか、薄い霧のように過ぎ去っていたように思える。暁斗はそんな自分に僅かな後悔を覚えながら、今日はその霧を少しでも晴らそうと決心していた。
映画館に向かう途中、少しひんやりとした風が頬を撫で、秋の訪れを感じさせた。瑞雲の隣を歩く暁斗の足取りは、なぜか軽やかで、彼女と並ぶその時間が新鮮に感じられる。ポスターに貼られた映画の宣伝を眺めながら、ふと彼女の笑顔が視界に入る。結婚し、日々の生活に追われ、気づかぬうちに瑞雲のその笑顔が遠のいていたことに暁斗は気づいた。
昼は少し贅沢なイタリアンの店を予約していた。
瑞雲はパスタが好きだ。特別な記念日でもないこの日を選んで彼女を外に誘ったのには、理由があった。暁斗の胸の中には、ずっと棘のように残っている言葉がある。
『君は、真実を隠した。人として許されないことをしたんだ。最低だよ』
あの瞬間の瑞雲の顔が、今も暁斗の心を刺す。
暁斗は、妻の気持ちに寄り添えただろうか。彼女が抱えていた苦しみや孤独を、見つめようとしただろうか。事件の渦中で、彼女に対して発してしまったその一言が、時間と共に暁斗の中で大きな後悔となり、押し寄せていた。
パスタを食べ終わるとコーヒーが運ばれてきた。カップから立ち上る蒸気が、二人の間に薄い幕を作るように揺らいでいる。暁斗はカップに手を伸ばし、その温かさを感じながら、静かに話を切り出した。
「四年前の事件の日、僕が瑞雲に告白したことを覚えている?」
瑞雲は、ふと顔を上げ、僅かに揶揄うような目つきで真顔を作った。
「もちろん覚えている」
「あの時、瑞雲は僕に対して特別な気持ちなんて、持っていなかったよね」
「そうね、確かにそうだった」
瑞雲は肩をすくめるように微笑んだ。
「実は、僕は気づいていたんだ。瑞雲が健司に惹かれていたことに。小学生の頃から、瑞雲は健司が好きだったよね」
瑞雲は顔をしかめながら、過去の思い出を軽く流すように言った。
「そんなのどうでもいいじゃない。過ぎたことでしょ」
「健司は僕の気持ちや、瑞雲の気持ちに気づいていたと思う?」
瑞雲は躊躇いもなく、即座に答えた。
「気づいていた。間違いなく」
「どうしてそう思うの?」
瑞雲はしばし沈黙した後、ふと遠くを見るような目をして言った。
「四年前のあの日の帰り道、暁斗と健司の様子が妙だったから。健司はずっと無口で、突然『雨が降りそうだから』なんて言って、駅まで一人で走っていったでしょう。あれは健司なりの口実だったの。私と暁斗を二人きりにさせるために。暁斗と健司の作戦だったんでしょ?」
暁斗は少し眉をひそめ、視線を落としながら静かに答えた。
「違うよ」
コーヒーの熱がぼんやりと霧散していくように、暁斗は瑞雲の記憶を曖昧にさせる。
「僕が瑞雲へ向ける想いについて健司に話したことは、一度もない。健司が駅に向かって走ったのは、本当に急いでいたからだと思うよ。あの時、瑞雲が何を考えていたのか、そして今、何を感じているのか、尋ねないと分からないものだよね」
瑞雲は黙り、ただ暁斗の目をじっと見つめている。
「事件の捜査に関わっていくうちに、僕たちのクラスメイトが抱えていた秘密を少しずつ知ることになった。何人かは、自分の秘密を守るために、事件に関する大切な証言を隠していた」
「そうだったのね」
瑞雲は、短く相槌を打った。
「正直に言うと、下田が亡くなったのは、彼らが偽りの証言をしたせいだと思った。彼らの話を聞くたびに、怒りが込み上げてきたんだ」
暁斗は言葉を噛みしめながら、瑞雲の顔を見つめる。
暁斗が『人として許されないことをしたんだ』と瑞雲に向けて告げたのは、つい最近のことであった。
「四年前、一人の命が奪われた。真実を隠すことは、決して許されることじゃない。それは今でも僕の信念だよ。でも、彼らにも言い出せなかった理由があったんだ。それに気づいた時、自分の中で何かが崩れたように感じた」
言葉の一つひとつが、暁斗の中で渦巻く後悔とともに紡がれていく。四年間にわたり隠されてきた真実は、その重みを知る者にとって、もはや自分自身の中に閉じ込めておくことすら苦痛になっていたはずだ。かつてのクラスメイトの後悔に向き合ったからこそ、暁斗は感じることができた。
――真実を隠そうと決めた本人こそが、誰よりも苦しみを抱え続けていたはずだ。
暁斗はカップを手にしながら、目の前の瑞雲に向き合った。彼女の瞳は静かで、そこにはこれまでの苦悩や迷いが全て沈み込んでいるように見える。
「瑞雲にあの時、言ってしまったことを、ずっと後悔している。『真実を隠した』とか、『人として許されない』とか、そんなふうに責めたこと、今思えば本当に酷いことを言ったと思う」
瑞雲は無言のまま暁斗を見つめていた。暁斗は言葉を続けた。
「瑞雲の気持ちを考えずに、ただ正しさや理屈だけを振りかざして、瑞雲を追い詰めてしまった。それが、どれだけ傷つけてしまったのか、今になって分かるよ」
暁斗はふっと息をつく。続ける言葉に迷いながらも、自分の感情に正直に向き合った。
「僕は、自分の正義感に酔っていただけだったかもしれない。事件のことがあって、真実を追い求めることが絶対だと思ってた。でも、そんなことに固執して、瑞雲の気持ちに寄り添うことを忘れていた。瑞雲がどうしてその頃、真実を隠そうとしたのか、それに至るまでの苦しみを全く理解しようとしなかった」
彼女の表情は変わらないが、何かを押し殺すような緊張を微かに感じ取れた。
「僕が、瑞雲の夫として、何よりも先にするべきだったのは、瑞雲を責めることじゃなくて、瑞雲の苦しみに寄り添ってあげることだったんだ。瑞雲が感じた痛みや葛藤を、一緒に抱えてあげるべきだった。それなのに、僕はそれができなかった。守らなきゃいけないはずの僕が、瑞雲に一番大きな重荷を背負わせてしまったんだと思う。ごめん」
暁斗の声が一瞬、詰まった。コーヒーの香りが漂う店内で、瑞雲は静かに口を開いた。
「いいえ。暁斗が言ってたこと、間違ってないよ。私は、ずっと真実を隠してきたし、それが良くないことだって分かってた。でも、言えなかった。自分の陽向ちゃんに抱いていた感情を吐き出すのが怖くて、自分の弱さを認めたくなかったのかもしれない」
瑞雲の静かな告白は、淡々と続いていく。
「当時の私の行動は、誤りばかりだった。陽向を憎んでしまったことも、自分の感情に流されて、結果的に犯人を庇う行動を取ってしまったこと。後悔している。どうして、あの時ちゃんと真実を伝えていればって、何度も思った」
瑞雲の冷静な声の中には深い後悔が隠れているように感じる。暁斗は、彼女がどれだけ自分を責めてきたのか、その後悔がどれほど彼女の心を縛ってきたのかを、初めて目の当たりにしているようだった。
「でもね、一つだけ、あの頃に私がした選択として、後悔していないことがあるの」
彼女は暁斗をじっと見つめた。その目は揺るがず、言葉には確かな決意がこもっている。
「私が暁斗を選んだこと。それだけは、間違いではなかったと、ずっと信じている。暁斗が私を責めたのは正しかった。あの時、誰かに責められなければ、きっと私は、自分の過ちを真に理解することができなかったと思う。暁斗の言葉が、私を現実に引き戻してくれたの」
瑞雲は微笑んだ。その微笑には、どこか安堵の色があり、彼女が少しずつ救われていく姿が垣間見えた。
「本当にごめんなさい」
瑞雲は静かに呟いた。暁斗も、瑞雲と同じように、そっと謝罪の言葉を口にした。
二日後、浅野護の家の前に到着したのは、曇天に薄い光が漏れる早朝だった。
重たい雲がゆっくりと移動し、冷たく湿った空気が辺りを包んでいる。暁斗はパトカーの助手席に座り、ゆっくりとシートベルトを外した。横には海老根が冷静な顔つきでハンドルを握っていたが、車を止めると一瞬、深い息をついた。
車を降りると、周囲の景色が目に入る。住宅街はまだ静けさに包まれ、浅野の家は並ぶ家々の中でひっそりと佇んでいる。小さな二階建ての古びた家。草が無造作に伸びた庭に、誰も手入れをしていないことがわかる。郵便受けには数枚のチラシが挟まれている。暁斗はその様子を見つめながら、この数日間の展開を思い返していた。
令状が無事に発行されたのは、浅野護に対するいくつかの証拠が十分に揃ったからだ。星の証言によって崩れたカラオケのアリバイ、そして小動物への虐待事件との関連性が明らかにされた。警察内部でも慎重に検討が重ねられ、最後に検察の承認を得て、裁判所から捜索差押え令状が発行された。その過程で法的な要件が細かく確認され、裁判官に提出された資料も厳密に吟味された。暁斗はそのプロセスを見守る中で、浅野への疑いが日に日に強まっていくのを感じていたが、同時に心のどこかで不安も残っていた。
捜索を開始する前に、何人かの刑事が静かに指示を出し合っている。捜査主任が書類を確認し、海老根が手に持つ令状をちらりと見た。法的な要件は全て揃っている――この時点で、浅野護が拒否しても強制的に捜査を行う権限が県警にあることを暁斗は再確認する。法の名の下に、証拠を押収し、事情聴取を行う段階に進んだのだ。
暁斗の視線は刑事たちの動きに移る。刑事二人が暁斗の前に進み、玄関に向かう足音がほのかに響いた。重厚な木製の扉の前に立つと、ノックの音が静かな住宅街に響き渡る。玄関の脇には少し錆びた表札があり、名前が微かに読めた。暁斗はその『浅野』という文字をじっと見つめながら、胸の中で心の準備をした。
チャイムが押され、しばらくすると玄関の扉がゆっくりと開く。すぐに、浅野護の母親がドアから顔を出した。彼女は警察官たちの姿に驚くどころか、どこかほころんだ笑顔を見せている。その無邪気とも言える表情に、異様な雰囲気を暁斗は感じた。
チャイムを押した捜査主任が令状を見せても母親の和やかな表情は変わらない。
普通、警察が令状を持って訪問してきた場合、何かしらの緊張が走るはずだが、彼女はあまりにも安堵したかのように振る舞っている。
「護は今、家にはいませんが」
溌剌とした声で母親は応えた。
「今朝、二年ぶりに外に出たんです。本当に嬉しくて……あの子、やっと元気になってくれたみたいです」
浅野の母親の明るい声が、返って暁斗の胸中に不安を広げていく。浅野が長い間家に閉じこもっていたことは事実だとしても、令状を見せられた状況で、あまりにもこの反応は不釣り合いだと思った。
「どちらに行かれたか、ご存知ですか?」
刑事が尋ねると、母親は一瞬考え込むように視線を宙に彷徨わせ、再び微笑んだ。
「それが、どこに行ったかは分からないんです。ただ、あまりにも久しぶりだったので、あまり問い詰めないようにしようと思って」
母親の笑顔には、後ろめたさを感じない。本当に浅野の母親は、彼がどこに行ったのか知らないのであろう。
暁斗の前方で刑事が短く息を吐き、指で令状を示しながら母親に向けて語りかけた
「お母さん、浅野護さんに対して、捜索令状が出ています。家の中を調べさせていただきます」
有無を言わせない迫力があった。その瞬間、母親の笑顔は一瞬にして消え、瞳が不安と恐怖に揺れる。
「いや、家の中は、今日はちょっと――」
母親は慌てて玄関の扉を押さえ、微妙に身体を前に出して警察官たちを押し留めようとした。その動作は、ただの反射的なものではなく、何かを隠そうとしている明確な意図が感じられる。動向した他の刑事たちも、暁斗と同じ感覚を抱いたであろう。
「すみませんが、令状がありますので、調べさせていただきます」
暁斗の後方にいた海老根が落ち着いた声で言い、他の刑事たちも準備を整えていく。
「いや、護は本当にいないんです。家の中は、今、ちょっと散らかっていて止めてください!」
必死で言い訳を並べる母親の声には焦りが滲み出ていて、動揺していることが暁斗にも伝わる。浅野が何かを隠している、或いは浅野自身が隠れている可能性も考えられた。いずれにしても事件に関係する証拠が家の中にあるかもしれない。
「お母さん、捜索は法に基づいて行います。協力してください」
刑事の言葉には抑えた圧力が込められていた。母親は一瞬怯んだが、それでも必死に扉を押さえていた。他の刑事たちは、令状を手にして既に動き出していた。玄関の周囲を警戒し、家の内部に入る準備を進める。
母親は力なく扉から手を離した。警察官たちが一斉に動き、玄関を越えて家の中へと進んでいく。
家宅捜索が始まると、数名の刑事たちは手際よく家の中へと入り込んだ。廊下を歩く足音が響き、淡々とした作業が繰り広げられていく。玄関先では、海老根と暁斗が母親に付き添いながら、その様子を冷静に見守っていた。二人は警備班として、逃走や外部からの妨害者の侵入を防ぐ役割を担っている。母親は、息子を心配する表情のまま、放心したように項垂れていた。顔には困惑と焦りが浮かび、目は虚ろだった。
「すみませんが、ここでお待ちください」
玄関のドアを閉めた海老根は、リビングまで母親を連れ、ソファーに座らせた。
暁斗は、家の中が想像以上に荒れていることに気づいた。リビングのソファには乱雑に脱ぎ捨てられた衣類が積み上がり、テーブルの上には未開封の郵便物や新聞が雑然と置かれている。キッチンも整頓されているとは言い難く、食器がシンクに溜まり、古びたカーテンはカビが広がっていた。特に目を引いたのは、リビングの一角に置かれた段ボール箱の山だった。中には古びた雑誌や壊れた家電が無造作に詰め込まれており、その箱の一つが蓋を外され、散らばった中身が床に広がっていた。
暁斗は、この光景にかすかな不安を覚えた。家の中がこれほどまでに荒れた状態であることは、長年にわたる精神的な疲弊や孤立を反映しているように見えた。この場所で何が起こっていたのか。浅野護は追い込まれていたのではないか。
『今朝、二年ぶりに外に出たんです。本当に嬉しくて……あの子、やっと元気になってくれたみたいです』
母親は、息子が外に出たことを誇らしげに語りながらも、言葉の端々に焦りを隠しきれない様子があった。それにもかかわらず、息子に対する母親の執拗な愛情は、彼女が現実の厳しさから目を逸らしているようである。
捜査の手が一つの段ボール箱に伸びた瞬間、刑事の動きがピタリと止まった。一階の和室の段ボールの中から、細長い物が見つかったのだ。それは、血液のようなものが付着したのこぎりであった。刃には乾いた赤黒い痕跡が微かに残っている。更に、その隣には使用済みと思われるゴム手袋が投げ捨てられるように放置されていた。ゴム手袋の内側にもうっすらと血の跡が見える。
海老根が口を一文字に結び、緊張感が漂う表情を見せた。
一人の刑事が階段付近で指示を飛ばす指揮官に報告しに行く。指揮官は静かに指示を出し、証拠品が慎重に回収された。
ゴム手袋と血痕の付いたのこぎり――それは明らかに異常なものである。この家に何か重大な秘密が隠されていることを強く示唆していた。母親はその場で崩れ落ち、息子への愛情と現実とのギャップからか、彼女の表情はひどく歪んでいた。
二階からの物音が一層激しくなっていく。捜査班の一人が暁斗と海老根に二階へ向かうよう指示を出した。どうやら指揮官の命令らしい。暁斗と海老根は持ち場を屈強な刑事に引き継ぎ、二階へと向かった。床板がきしむ音が暁斗の耳に冷たく響く。
捜査班の刑事たちが部屋の中で何かを探している様子が目に入った。階段の終わりで手招きする刑事に無言のまま従い、暁斗と海老根はある部屋へと案内された。
そこは浅野護の部屋だと告げられた。
無機質でどこか冷たい空気が漂うその部屋は、過去と現在が交錯する静寂の中にあった。刑事は何の言葉も発さず、数枚の封筒を暁斗に手渡す。暁斗は封筒を慎重に受け取ると、その中の一つを開封した。
封筒の中からは、手紙が現れた。目を走らせると、暁斗の心臓は重く脈を打ち始めた。手紙の文面は、浅野が四年前の陽向さん殺しの犯人であることを知っている、という明確な内容が書かれている。
文字が一つ一つ、くっきりと視界に狭まってくる感覚を暁斗は覚えた。警察が迷宮の中へ入り込んだその事件の影に『浅野護』という名が浮かび上がっていること。そして、浅野が犯人であると示す手紙を出した人物がいること。
暁斗が本当に息を詰まらせたのは、手紙の末尾に記されていた一つの名前だった。
『尾道健司』
暁斗の幼馴染の名前がそこに、鮮やかに記されていた。
「この人物を知っているか?」
年配の刑事に尋ねられ、暁斗はまるで声を失ったかのように、呆然と頷いた。指が微かに震えていることに自分でも気づいていた。別の封筒を手に取ると、その中には更に多くの手紙が詰め込まれていた。健司が浅野に宛てた物で、封筒には日時が詳細に記されている。健司は何度も手紙を送り続けていた。
「はい。同級生です」
「当時の三年一組の生徒だった?」
「いいえ。隣のクラスでした」
暁斗が手紙を次々にめくり、目を走らせる。文面はどれも、同じことを繰り返していた。
四年前の陽向さん殺害の犯人は浅野護であり、木曜日に連続して起こった生物虐待の犯人も浅野護であると健司は確信しているようであった。手紙の中には、証拠を握っていること、浅野と直接会って話す必要があると懇願する内容が記載されている。
「大丈夫か?」
刑事に問いかけられ、暁斗はハッと現実に引き戻された。今は警察官としての立場にいる。個人的な感情に飲み込まれてはならないと、自分に言い聞かせる。それでも、尾道健司という名前が心の中で重く響き続けていた。
「大丈夫です」
暁斗の胸には、警察官としての冷静さを保とうとする理性と、親友の名前を目にした衝撃が、波のように交互に押し寄せていた。
「尾道健司が浅野護を呼び出した可能性がある。手紙の内容で、何か手がかりになりそうな箇所はあった?」
暁斗は受け取った全ての手紙を読み終えていたが、その内容はほとんど同じようなことが書かれており、尾道健司が具体的に場所や時間を指定して浅野護を呼び出した内容は存在していない。
「ありません」
「手紙はどのくらいの頻度で送られていた?」
暁斗は全ての封筒の日付を確かめて答えた。
「二か月に一回程度のようです。それが二年間に渡って届けられています」
「一番新しい封筒の日付は?」
海老根が慌てたように言った。
「今から三カ月前です」
海老根は唇を強く結んでから告げる。
「良くないことが起きるかもしれない」
暁斗の脳裏に、かつての仲間である下田の死が閃いた。今回も同じことが繰り返されるのではないかという不安が、彼の心を掻き立てた。
「少し遅かったのかも――」
悔やむように告げた海老根は、暁斗の顔をまっすぐ見つめ、言葉を紡いだ。
「尾道健司さんに連絡を取れる?」
暁斗が何かを返そうとしたその時、二階の階段を上がってきた指揮官の足音が響いた。海老根を厳しい目で見据えた指揮官が、短く命令を下した。
「勝手なことはするな。捜査は慎重に進めろ」
この現場の指揮官の言葉に暁斗は息を詰めた。警察において、指揮系統の従順さは絶対だ。だが、心の中では、浅野護と健司に関して、早急に動かなければならないという焦燥が強く駆り立てられている。
「そんな状況じゃありません、指揮官。今すぐ、浅野護と尾道健司の身柄を押さえるべきです!」
海老根が食い下がった。声の端には切迫感が漂っている。
暁斗もまた、その言葉に同調せずにはいられなかった。口を開いた瞬間、喉に何かが詰まったかのような感覚に襲われたが、彼はかろうじて絞り出すように言葉を紡いだ。
「お願いです」
今この瞬間に何もしなければ、また誰かが犠牲になるかもしれないという確信が暁斗の胸を締めつける。
指揮官が沈んだ表情で問いかけた。
「緊急性があると思う根拠はあるのか?」
暁斗の答えを待たず、海老根が続けた。
「あります。尾道健司が浅野護に命を狙われているかもしれません」
その言葉に指揮官の顔がさらに険しくなった。緊張が走る部屋の中で、海老根は根拠を口にする。
「二年間も浅野護はこの家から一歩も外に出ていません。それが何かを決意したかのように、突然外に出たんです。そして、これまで定期的に二か月ごとに届いていた尾道健司からの手紙ですが、最新のものがありません。この部屋に残されている最後の手紙が三か月前のものです。最新の手紙がもし浅野の手元にあるとすれば、尾道健司に会いに行った可能性が高いです。浅野護は、何かを行動に移そうとしている可能性があります」
海老根の推論を聞きながら、暁斗の心の奥では一層の焦燥感が高まっていった。
指揮官は深く目を閉じ、眉間に深い皺を刻んだまま、しばらくの沈黙を保った。重い空気が部屋を支配し、暁斗の心臓が一拍ごとに重く響いていた。海老根の話が途切れると、指揮官はゆっくりと目を開け、その視線を鋭くした。
「分かった。尾道健司に連絡を取れ。ただし、くれぐれも慎重にだ」
指揮官の言葉には明確な重みがあり、場の空気をピンと張り詰めさせた。
暁斗は、自身の携帯電話を握りしめたまま、尾道健司の名前を指先で探り当て、躊躇うことなく電話をかけた。呼び出し音が耳に響くたびに、心臓が一つ一つ重く跳ねるように感じる。数回のコールの後、電話が繋がった。
「どうかしたか?」
健司のいつも通りの、落ち着いた声が耳に届く。その平然とした響きに、暁斗は一瞬言葉を失いそうになるが慌てて言葉を絞りだした。
「今、どこにいるの?」
「仕事だよ」
健司は淡々と応える。
「具体的には、どこで仕事してるんだ?」
一拍の間を置いてから、健司は「会社だ」とあっさり答えた。
彼が働いている電子部品メーカーのオフィスを思い浮かべながらも、暁斗の心にはわずかな違和感が過ぎった。
「健司、今、背後から子どもたちの声が聞こえるけど、どこにいる?」
彼の問いは慎重さを装っていたが、その声には不安が混じっていた。幼馴染の言葉と現実との食い違いが、無意識に暁斗を警戒させた。
健司はしばしの沈黙の後、深いため息を吐いた。
「――悪い。散歩中の園児たちが通りすぎた」
まるで、何事もなかったかのように、健司は状況を逸らそうとしている。暁斗の中で、次第に疑念が膨らんでいく。
「健司は経理の仕事をしているんだよね?」
「そうだよ」
「仕事中なのに外にいるの?」
「経理だからって、ずっと執務室の中にいるわけじゃないだろ」
健司は呆れたように応じたが、その声にはどこか苛立ちが滲んでいる。暁斗は、これ以上直接的な問いを投げかけても真実を引き出せないだろうと悟った。健司の本音を聞き出すためには、脈絡を変えるしかない。
暁斗は指揮官に目を向けた。指揮官は静かに頷く。それが合図のように、暁斗は冷静を装いながらも、切り札を切り出した。
「浅野護の家にいるんだ。健司が書いた手紙も、ちゃんと読んだ」
電話の向こうから、健司が一瞬息を呑む音が聞こえた。そして、次に返ってきた声は、それまでとは異なり、どこか深い疲労と諦念を帯びていた。
「あぁ……」
健司の声は全てを諦めた者の声だった。暁斗は内心でさらに緊張を強めながら、言葉を続けた。
「今、どこにいる?」
「言えない」
「これから浅野護と会うところなの?」
「そうだ。奴が犯人だ」
健司の声には、確信があった。しかし、その確信は、暁斗にさらなる不安を抱かせた。浅野護との直接的な接触が、健司自身にとってどれほど危険なことか、彼は理解していないのかもしれない。
「待ってくれ、健司。危険だよ。これ以上進んじゃいけない。警察に任せてくれ。どこにいる?」
しかし、健司は困ったように、そしてどこか寂しげに笑った。
「ごめんな。もう決めたことなんだ」
その言葉が暁斗の耳に届いた瞬間、彼の心は一気に冷え込んだ。何度も「健司!」と呼びかけたが、通話は一方的に切れ、短い通知音が断続的に響くばかりだった。
暁斗は受話器を見つめながら、拳を握りしめた。
健司の決意は固く、もう彼の言葉が届かないことを悟らざるを得なかった。
刑事たちが慌てて立ち上がり、緊迫した空気が一気に部屋を満たす。指揮官が無線機を手に取り、冷静かつ迅速に指令を発した。
「尾道健司と浅野護、ただちに身柄を保護せよ」
その声は確かに響いたが、暁斗の胸の中には、もはや手遅れなのではないかという暗い予感が広がっていた。
暁斗は急いで海老根の車に乗り込んだ。だが、海老根はすぐには発進せず、ハンドルを握ったまま何かを考え込んでいる。
「浅野護と尾道健司が会うとして、どこで待ち合わせをしたと思う?」
海老根の声には焦りが滲んでいた。短く投げかけられた問いに、暁斗は返事をする前に、健司との先ほどの電話を思い返す。
会話の一つひとつを頭の中で繰り返し、僅かな手がかりを探る。
「園児の声が聴こえました」
その言葉が車内に響いた瞬間、海老根が「園児……」と呟くように復唱する。暁斗も同じように『園児』と心の中で何度か唱えた。その瞬間、暁斗の胸の中で、一つの仮説が徐々に形を成していった。
「赤丘市中央公園です!」
声が思わず声が高くなった。海老根もその考えに納得したように、短く頷くと、エンジンをかけて車を急発進させた。車内には緊張が漂っているが、冷静さを保とうとする暁斗は、気持ちを落ち着けながら口を開く。
「『闇の四日目』の犯人――つまり、あの時の連続小動物虐待の犯人は浅野健司だったんですよね?」
海老根は短く頷く。
彼女の視線はフロントガラスの先、前方をまっすぐ見つめていた。
「海老根警部補は、『闇の四日目』の犯人と京堂陽向さん殺害の犯人が別だと思っているんですよね?」
「今日でほぼ確信に変わったわ。あの事件が四年間も未解決だった理由は、いくつかの先入観が警察内部にあったからよ。その一つが、小動物虐待の犯人と京堂陽向さんの殺害犯を同一人物と考え続けていたことね」
暁斗は何も言わず、海老根の言葉に耳を傾けた。
車のエンジン音だけが、二人の間に重い沈黙を引き裂くように響く。
「あの日、有馬神社で猫を殺したのは浅野護。でも、彼は猫の死骸をその場に放置しているはず。彼が他に起こした事件と同じようにね」
海老根の声は冷静だったが、その奥に潜む複雑な思考が垣間見えた。
「それなら、なぜその猫の死骸が赤丘市中央公園の多目的トイレで発見されたのか、ということですね?」
暁斗は問いを投げかけつつも、その答えが簡単には出ないことを感じていた。海老根は軽く頷くと、暁斗に目を向け、静かに言葉を続けた。
「どうしてだと思う?」
暁斗は一瞬考え込む。健司との電話の内容や、今までの事件の流れを思い返しながら、慎重に口を開く。
「京堂陽向さん殺害の犯人が死骸を運んだからですか?」
暁斗の声には微かに迷いが滲んでいた。
「違うわ」
海老根は短く答え、暁斗の反応を見守るように少しの間を取った後、自分が導き出した結論を静かに伝えた。
「運んだのは、被害者よ」
「京堂陽向が?」
暁斗は驚きを隠せず、声が少し上ずった。
「そう。厳密には、もっと複雑な経緯があるはずだけどね」
海老根は、暁斗の顔に浮かんだ疑問の色を横目で確認し、さらに詳しく説明を続けた。
「まず、下田啓史と京堂陽向の関係を整理してみた。当時、京堂陽向は中学生、下田啓史は高校三年生だった。そして、二人は恋愛関係にあったのよ。その根拠が四年前のある日、体育館の倉庫にあった精液ね」
鑑定の結果、下田啓史のDNAと倉庫で発見された精液が一致していることが判明した。
ダンスの練習を終えた陽向は、体育館の扉の前で義母の迎えを待っていたが、実際の迎えの時間を少し遅い時間に偽って伝えていた。倉庫から精液が発見された日の前夜、体育館を使用していたのは、暁斗が参加するダンスサークルだった。そして、下田啓史の自宅から体育館の合鍵が見つかったことや、陽向が下田に対して特別な視線を投げかけていたという瑞雲の証言から、二人が人目を避けて親密な時間を過ごしていたことが推測される。
「コーチとして関わっていた中学生との関係に、下田は何かしらの葛藤を抱えていたのかもしれませんね」
暁斗は、そう考えつつも、それが真実であるかどうかを確かめる術はなかった。下田が抱える問題について、暁斗は彼の口から聴くことができなかった。
海老根が口を開く。
「その頃、開光高校の体育館付近で、もう一つ事件があったのを覚えている?」
暁斗は頷きながら答える。
「体育館のすぐ裏で、猫が虐待された状態で見つかったことですよね」
その事件が発覚したのは金曜日の早朝、体育館の裏手で猫の死骸が発見された。浅野護が関与していると考えられているが、海老根が注目しているのは、猫殺しの犯人が誰であるのかということではなさそうだった。
「もしかしたら、下田啓史と京堂陽向は、その猫が殺害される現場を、木曜日の真夜中の体育館の中から目撃していたのかもしれないわ」
暁斗の心に不穏な予感が広がる。言葉にできないが、何かが見えない形で繋がっているように感じられた。
「ダンスサークルの練習は、毎週、日曜日と木曜日に行われていたの。練習が終わると、下田啓史と京堂陽向は決まって電気をつけずに、体育館の倉庫へと身を潜めた。暗闇の中で、足音や小動物のかすかな鳴き声が響いていたわ。倉庫の隙間から体育館の外をそっと覗くと、クラスメイトの浅野護が猫を虐待しているのが見えたのよ。そんなところかしら。その時、二人は警察よりも先に猫の死骸を回収する方法を知った」
「回収って、どうしてそんなことを?」
暁斗には、海老根の言葉がまるで二人が猫の死骸を必要としていたかのように響いたが、それは信じ難いことであった。不可解な行動にどんな理由があるのだろうと言うのだろうか。
「京堂陽向さんは『あなたの家族を壊します』というドラマを観ていたの。福地巡査の奥さんから聞いた話だと、彼女はそのドラマに登場した相澤梨月にも憧れていたらしいわ」
暁斗は、猫の死骸を回収することと、そのドラマがどう関係しているのか理解できず、考えを巡らせた。思い浮かぶことはなかったが、突然あるシーンを思い出し、「あっ!」と思わず声を上げてしまった。
「うるさいわね」と海老根は少し呆れたように言った。
暁斗は落ち着きを取り戻しながら説明する。
「あのドラマでは、義母の浮気相手の家に猫の死骸を届けるシーンがありました」
海老根は静かに頷いた。
「そうよ。『あなたの家族を壊します』を観ていた京堂陽向は、自分と同じような虐待を受けている少女に強い共感を抱いていたの。その少女を演じていたのが相澤梨月だった。京堂が彼女に会いたがっていたのは、そこに理由があると思うわ。あのドラマの象徴的なシーン――義母の浮気相手に猫の死骸を届ける行動。京堂はそのドラマの展開を、現実でも繰り返そうとしていたのよ」
暁斗は静かにその意味を噛みしめる。
「ドラマの結末のようになることを京堂陽向さんは望んでいたの」
ドラマの結末――それは、二つの家庭が壊れていくという結末であった。
京堂陽向が、自分の前から消えてほしい二人の存在を、ドラマの結末のように消し去ることを望んだのだろう。
「そして、下田啓史と京堂陽向は、ある木曜日を決行の日として選んだのよ」
「事件が起きた四年前のあの日ですね」
暁斗は思い返しながらそう言うと、海老根は静かに頷いた。
「学校が終わった後、下田啓史は浅野護の後をつけていた。浅野は電車に乗り、有馬二丁目駅で降りている」
暁斗の頭に浮かぶのは、防犯カメラに映った浅野護の姿と、その少し後ろをつけて歩く下田の姿だった。有馬二丁目駅のホーム、あの独特の薄暗い映像が思い出される。
「浅野護が向かったのは、有馬神社の境内の裏手。日没前だったけれど、その時間は人影がなく、浅野護はそこで猫に虐待を加えた」
赤丘市中央公園で発見された猫の死骸は、有馬神社で虐待を受けていたことが後に判明している。
海老根は、車を左折させるために一瞬言葉を止めた。暁斗は海老根の横顔を見つめながら、次に何が語られるのかを静かに待つ。
「浅野が神社を後にした後、下田啓史はその猫の死骸を回収して開光高校の体育館へ向かった。二つの目的があったわ。クラスの学園祭の準備と、京堂陽向にその猫の死骸を届けること」
暁斗はその瞬間、胸の奥が鈍く軋むのを感じた。
「あの日の体育館でそんなことが――」
信じられないという思いと、それが現実だったのだろうという妙な納得感が心の中で交差する。
「猫の死骸を渡すまでは、二人の計画は順調に進んでいた。けれど……」
その時、車のフロントガラス越しに赤丘市中央公園のフェンスが見えてきた。海老根は急にブレーキを踏み、車はガクンと止まる。暁斗は一瞬、息が詰まったが、すぐにシートベルトを外し、公園内の多目的トイレを目指して車を飛び出した。
トイレのドアに手をかけるが、鍵がかかっていた。
焦るようにドアを叩くが、返事はない。
「すみません、どなたか入っていますよね?」
海老根も落ち着いた声で呼びかけたが、やはり反応はない。
暁斗は胸の中で何かが引っかかるような感覚に襲われた。そして、不意にあることを思い出す。ポケットからスマートフォンを取り出し、躊躇いもなく健司へ電話をかけた。
トイレの中から、微かに聞こえてくる着信音。それは、モーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジークだった。心臓が高鳴るのを抑えられず、暁斗は足を止め、しばらくドアの前で固まっていた。
「健司が中にいます。間違いありません!」
海老根は無言のまま多目的トイレのドアに手をかけた。その小柄な体に見合わぬ力で、ドアの隙間を探り、警棒を差し込んでテコの原理でこじ開ける。金属音が微かに響き、ドアがわずかに揺れた。次の瞬間、彼女はドアを押し込み、完全に開け放った。
ドアの向こうには、一人の男が立ち尽くしていた。長い髪が乱れ、無精髭が顔を覆う。着ている服はくたびれていて、どこかみすぼらしく、彼の姿は遠い過去の学生時代の姿とは大きくかけ離れていた。それでも、その瞳にはまだ微かに浅野護の面影が残っている。だが、彼の目には疲労と焦燥が滲み、かつての若々しい輝きはとうに失われているようであった。
暁斗は息を飲んだ。
浅野護の背後、薄暗いトイレの床には尾道健司が横たわっていた。彼の顔は蒼白で、手足はロープで縛られており、暴行を受けた痕跡が顔や体に見える。健司の体は細く痩せ衰え、息も浅いが、かろうじて生きていることがわかった。
暁斗はその場に立ち尽くし、目の前の光景を受け止めきれずにいた。
尾道の衰弱した姿に、怒りや悲しみといった複雑な感情が胸の奥で混ざり合う。
「警察が来るなんて聞いていない。騙したな!」と弱弱しい浅野の声がトイレ内に響く。
弱りきった尾道は返事をしないが、その変わり海老根が応えた。
「彼は何も騙していないわ」
浅野護は一歩後ろに下がり怯えた目を見せた。
「動物虐待の犯人として、貴方を捕まえにきた」
海老根の言葉を聞いた瞬間、浅野護は膝から崩れ落ちた。膝を抱え、震える声で「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返す。その姿は、無力で痛々しいほどだ。虐待を行う者の心理には、しばしば自分より弱い存在に対する支配欲求が根底にあるとされる。浅野は、支配の感覚を手放した瞬間、警察官という圧倒的な権力の前に屈服し、心が砕けてしまったのだろう。浅野の謝罪の声は、もはや自分を守るための最後の手段でしかなかった。
「どうして浅野を呼び出して、二人きりになろうとしたの?」
海老根は崩れ落ちる浅野に構わず、健司に質問をした。
暁斗の頭の中では、すでに健司がここにいる理由は明確になっていた。だからこそ、浅野の自宅を出た後、海老根の車に乗り込んだ瞬間、赤岡中央公園に健司がいる可能性を感じ取っていたのだ。だが暁斗は、どうしてもその事実を健司自身の口から否定してほしかった。心のどこかで、まだ信じたくない自分がいたのだ。
健司は、痛々しいほど弱々しい声で呟いた。
「……殺されたかった」
四年間、健司は罪の意識に苛まれていた――その予感が今、暁斗の中で核心へと変わっていく。
「四年前、家族同然に暮らしていた猫を『闇の四日目』の犯人に殺され、深い傷を負っていた?」
海老根の言葉に、健司は頷く。
「母が死んで、俺の家族はシマシマしかいなくなった。あの猫が、俺にとっての唯一の家族だったんです。そのシマシマを――あんなふうに、欲望のはけ口にした犯人が、許せなかった」
健司の瞳は焦点が定まらず、虚ろだったが、その言葉は明瞭に聞こえた。
「願わくば、貴方は同じ思いを犯人に味わわせたかった?」
海老根の冷たい眼が健司に問いかける。
「はい」
健司は弱弱しく息を吸い込み、短く返事をした。
「四年前のその日、あなたは偶然にも猫を殺した犯人を見つけた。いや、見つけたつもりだった。それは勘違いだったの。あなたは京堂陽向さんが『闇の四日目』の犯人だと思ってしまった。それが、この事件が起きた真相ね」
健司は黙って、薄く開けた目を海老根に向ける。
「京堂陽向さんはただ、あるドラマのシーンに影響を受けて、猫の死骸を持っていただけ。あなたはその姿を見て、勝手に『闇の四日目』の犯人が京堂陽向だと思い込んでしまった」
事件の日の帰り道、暁斗、瑞雲、健司の三人は、開光高校の体育館の前で京堂陽向を目撃した。夜も遅く、不穏な事件が続いている状況下で、声をかけに行ったのは健司だった。『陽向ちゃん』と呼びかけ、小走りで陽向の元に近寄る健司の足音に、陽向は気づかなかったのかもしれない。
「陽向の背後に近づき、俺の存在に気づかない彼女が何を見ているのか、その視線の先を追ってしまたんです。彼女の鞄の中に猫の死骸が見えた瞬間、俺は凍りつきました。そのおぞましい光景が、鮮明に脳裏に焼き付いてしばらく離れませんでした」
「どうやって彼女をここ、赤丘市中央公園に呼び出したの?」
「下田と彼女が親密な関係であることに気がついていました。練習の後に二人が夜の体育館に入っていく姿を目撃したことがあります。四年前の事件の日も彼女が親を待っているのではなく。下田を待っているということは知っていました。だから、彼女に言ったんです。『下田が赤丘市中央公園に来てくれと伝言を頼まれた』と嘘を言った。陽向が下田に確認する手段がないことも俺は知っていました」
下田が当時使用していたスマートフォンのバッテリーが不調であったことを、海老根は下田の母親に確認していた。
「陽向は俺の言っていることを信じました」
陽向と話して戻ってきた健司は、『もうすぐ、陽向ちゃんの母親が迎えに来るみたいだから大丈夫』と暁斗と瑞雲に告げた。
あの時、健司は既に決意を固めていたのだろう。
帰り道、話に上の空になり、急に黙り込んだ健司の異変に暁斗は気づかなかった。雨が振ってきて、『傘持ってないから、先行くな』と言い残し、走り去る健司の背中を見送った。よく覚えている。あの時、暁斗の心は瑞雲のことでいっぱいだった。もし、健司の違和感に少しでも気づいて声をかけていたなら、四年前の悲劇は防げたかもしれない。
「自宅近くの駅で降りたあなたは、自宅へ帰らず、赤丘市中央公園へ向かった。そして京堂陽向さんも同じ頃、歩いて公園に来ていたのでしょうね?」
健司は目を強く閉じた。
海老根は冷静に続ける。
「あなたは公園で京堂陽向さんを見つけ、多目的トイレに連れ込み、暴行を加えた。途中で何か理由があって一度トイレの外に出たが、その隙に陽向さんは警察に通報した。しかし不幸にも、その通報が捜査を混乱させてしまったの」
健司は二組の生徒であった。当時、彼は暁斗たち一組のクラスの学園祭の準備を手伝っていた。三年一組の生徒に紛れていた健司を、陽向が三年一組の生徒だと勘違いしたのは無理もない。しかし、初動捜査で警察は三年一組の生徒が犯人だと決めつけ、他のクラスの生徒に対する調査や証拠収集は甘くなってしまった。
これは明らかに警察の捜査が怠慢だったと言わざるを得ない。
被害者の証言に引きずられ、真実を見誤った結果、三年一組の生徒に限定した狭い範囲で捜査を行ってしまった。通信データの取得も三年一組の生徒しか照会を得られていない。確かに、個人情報保護の問題から、捜査範囲を無制限に広げることはできなかった。裁判所の令状を取得し、通信会社から得たデータには、時間や位置の詳細な情報が含まれていたものの、全ての手がかりを洗い出すには至らなかった。
四年間も捜査が停滞していたのは、明らかに異常だ。通信記録や目撃証言、映像が揃いながらも、なぜ真実にたどり着けなかったのか。あまりにも長く、無駄に思える時間の中で、下田の命は奪われてしまった。もし最初から、事件の本質に向き合い、広い視点で調査が進んでいれば、下田の死は防げたかもしれない。
暁斗が抱いたのは、悔やんでも取り返しのつかない、やり場のない怒りと深い喪失感だった。
「あなたが京堂陽向さんを殺したのね?」
「はい。事件の詳細が耳に入るにつれ、自分の勘違いに徐々に気づき始めました」
「浅野護が『闇の四日目の犯人』だと、貴方は二年前から気がついていた。どうして?」
「事件の日の下田と浅野の行動を知り、浅野が猫を殺し、下田がその死骸を運んだのではないかと思ったのがきっかけです」
暁斗の胸に止めどない怒りが込み上げてきた。だが、それは単なる憤りではなく、親友を目の前にして感じる苦悩と裏切られた思いからくる複雑な感情だった。
「下田も、京堂陽向さんも……どうして、あんな形で死ななければならなかったんだ。理由なんて、なかったじゃないか!」
暁斗の言葉には、自分の無力さに対する悔しさが滲んでいた。健司が犯人であることに怒っているわけではなかった。親友だったからこそ、彼がこんな道を選んでしまったことが、どうしようもなく憎かった。
「全く理由なんてない。俺は殺されるべきだったんだ」
健司の声は、罪の意識に押しつぶされ、死を望む者のように響いた。暁斗は、タイル張りの冷たい床に横たわる健司を見つめる。ここにいる彼の姿自体が、その言葉が真実であることを証明しているかのようだった。
健司は、殺人衝動を持つ浅野護を故意に煽り、赤丘市中央公園に呼び出したのだ。彼は、自分が無防備な状態に置かれれば、浅野がその本性を剥き出しにするだろうと、浅野の心の中にある殺人衝動に気がつき、それを利用しようと考えた。
――それは単なる罪から逃れるための身勝手な行為ではないか。
暁斗の胸に、また新たな怒りが沸き起こった。健司は、自分の罪を浅野に押し付けようとしていた。
「浅野との待ち合わせ場所を赤丘市中央公園に決めたのは、ここが四年前、京堂陽向が殺害された現場だからだよね。健司は、今回の出来事をその事件と関連付けたかった。自分の死が、ネットで煽動された者による単なる殺人として扱われるのを避けたかったんだよね? 四年前の犯人が再び手を下したかのように思わせるため、自分の犯した罪さえ浅野に被せるため、この場所を選んだんだよね?」
暁斗は、健司が依然として罪に向き合おうとしていないことを痛感し、深い無力感に襲われていた。
「自分が家族のように大切にしていた猫を殺されたこと、浅野が犯人だとわかって、浅野を苦しめようと計画した?」
暁斗の言葉に健司は顔を背けたる。
浅野護が健司を殺せば、浅野は健司殺しの罪を背負い、さらに四年前の京堂陽向の殺害も彼の罪にされる――そう考えたに違いない。浅野の罪が重くなることで、自らも罪の償いを果たしたように感じたのだろう。だが、それはあまりに身勝手で、自分を犠牲にした贖罪だ。
当時、三年一組だった生徒たちは今もなお、ネット上や周囲からの誹謗中傷に晒され、さらには何者かに襲われるかもしれないという恐怖に耐えている。彼らは、四年間も苦しみ続けてきたのだ。それにも関わらず健司は、暁斗たちの苦悩に対して一貫して目を背け続けてきた。
遠くから、パトカーのサイレンの音が近づいてくる。
「暁斗は俺が四年前の犯人だと、分かっていたのか?」
健司はようやく口を開き、声を絞り出した。
暁斗は短く「ああ」と答えた。健司を疑ったきっかけは、海老根が暁斗に渡した澤田海里の供述調書を読んだときだった。違和感が一つあった。事件の夜、澤田は深夜にコンビニへ向かい、その道中で健司と会い、軽く会話を交わしたという。その時間帯は午後十時四十分を過ぎていた。
――どうして健司は、そんな時間に外を歩いていたのだろうか?
あの夜、暁斗と健司は途中まで一緒に帰っていた。傘がなかった健司は、駅に向かって走っていったはずだ。事件が起きた十時二十分には自宅にいなければおかしい。仮にどこかで寄り道をしていたにしても、澤田との軽い会話という事実には何かが引っかかった。その夜、雨は一度も止まなかったのだ。健司が傘を持たずに外にいたというのは不自然ではないか。一度家に帰り、再び外に出たという説明ならば納得がいく。だが、どうして深夜に再び外に出る理由があるのだろうか。疑念は静かに広がり、暁斗の心を重くさせた。
ふと、何人かの警官が公園内に入ってくるのが見えた。フェンスの脇にはパトカーがずらりと並び、その異様な光景に気づいた野次馬たちが徐々に集まってくる。
健司と浅野は、それぞれ警官に抱え起こされる。
健司は、「ごめん」と呟いたが、暁斗はその言葉に反応できなかった。
――そんな謝罪で済まされるはずがない。
暁斗は警察官だ。法の前では、許しや赦しといった感情論ではなく、犯した罪が判断されるべきだという現実を、彼自身も誰より理解している。
『犯人が憎いか?』
あの居酒屋で健司が問いかけた言葉だ。その質問にどんな返答を望んでいたのだろうか。
『憎いに決まっているだろう。殺してししまいたほどに憎いよ』
あの時、健司は頷いていた。
四年前の事件の犯人に対する怒りは今だって変わることはない。それでも――親友として、健司を見捨てることができるのか、と自問する。
健司の犯した過ちは決して赦されるものではないだろう。健司は、今まさに全てを失おうとしている。いや、違う――四年前の事件以来、健司は既に全てを失っていたのではないか。
――健司が抱えていた苦しみに、なぜ自分は気づいてやれなかったのか。もし、その苦しみに寄り添っていたら、状況は変わっていたのではないか。
後悔の念が、じわじわと暁斗の心を締めつける。
「ずっと、健司のことを友達だと思っていたんだ」
健司の背中に、静かに声をかける。
親友として。なぜ、もっと早く、本心を伝えることができなかったのだろうか。途方もない悔しさが胸を押しつぶそうとするのを、暁斗は強くと目を閉じて堪えた。
☆
「海老根さんって煙草吸うんですね」
赤岡市警察署の非常階段に、煙草の匂いが混ざった夜風が吹き抜けていく。
「たまにね。吸わないようにしているんだけど、事件が終わった時はこうやって吸いたくなるのよ」
海老根はどこか遠くを見つめる。
暁斗と海老根は、並んで赤岡市の街を見下ろしていた。遥か遠く、街灯が点々と連なる景色はどこか寂しげで、それでも心のどこかに安心感をもたらす光景だった。暁斗はふと遠くの灯りを見つめ、深いため息を漏らす。思い出すのは、四年前の事件のことだ。
「結局、私はここに立っているんです」と、暁斗が静かに呟く。
「あの事件のあと、大学進学を諦めて警察官を選びました。本当にこれで良かったのか、ずっとわからなかったんです。正直、迷い続けていました」
夜空の下、暁斗の言葉は風に溶け込むように消えていく。
「でも、今回の事件を通じて、少しだけわかった気がするです」
暁斗は拳を軽く握りしめ、目の前の街に視線を戻す。海老根は表情を変えず、眼下を見下ろしていた。
「私があの日、警察官になることを選んだのは、きっと間違いじゃなかったんだって。どんなに悩んで、どんなに苦しかったとしても、私はやっぱりこの道を歩くべきだった」
過去の自分と、いまの自分。暁斗はその二つを静かに繋ぎ、受け入れようとしていた。四年前の事件に縛られ、自分の人生がどこに向かうべきなのか見えなかったが、今は少しだけその道筋が見えている。
「事件の当事者たちを救いたいと強く思いました。それが、これから自分が警察官としてやっていく信念だと思います。私の使命はまだここにあると信じています」
暁斗は言葉に、確かな決意と、新たな覚悟が滲ませる。
海老根は暁斗の横顔をじっと見つめ、やがて微かに笑った。その笑みには、どこか安堵と、そしてちょっとした茶目っ気が含まれていた。
「福地巡査? 君のその覚悟は立派だと思う。なんかさ、いっちょ前なことを言ってるけど正直言って、まだまだ警察官としては甘いところが多すぎるのよ」
海老根は少し肩を竦めた。
「まず、聞き込みの時にもっと慎重に話を進めること。あとは、現場での判断力ね。最善な判断を下すためには情報量が何よりも重要。複合する情報の中から最善の一手を冷静に掴み取るの。福地巡査は、急ぐとすぐ顔に出るし、まぁ、それと……」
海老根は軽く鼻を鳴らして笑った。
「君は自分の意志が固いと見せかけているが、私にはまだ迷いが見える。警察官が私情を挟むのは許されないことよ。現場で感情を揺さぶられてはいけない。君の気持ちは理解できるが、君は組織から信頼され、この職務を任されている。その意味をもう少し理解しなさい」
暁斗は少し苦笑いしながら、「それは確かに、そうですね」と頷く。
「でもね」と海老根はふと真剣な表情に戻り、暁斗の肩に軽く手を置いた。
「それでも福地巡査には期待してるのよ。私たちみたいな古い警察官にはない、新しい視点を持っていると思うよ。だからこそ、君のような若い力が、この組織には必要なの」
暁斗は驚いて海老根を見つめる。
いつも冷徹にみえる海老根から、こんな言葉を聞くとは思っていなかった。
「ありがとうございます」
暁斗は素直にそう言って、少しだけ笑顔を見せた。
「まぁ、私ももう少しは君を鍛え直してあげるよ」
「あの、私は赤丘市の地域課の人間ですが?」
海老根が溜息を漏らす。
「そうだったわね。それなら、昇って来なさい」
海老根は笑いながら、非常階段を一歩踏み出す。
暁斗は、再び夜の街に視線を向けた。
星の少ない空の下、明かりが途切れなく続く街。その中で、今までとは違う未来が少しずつ見えてきた気がする。
自分の選んだ道は、決して間違いではなかった。そして、その先に続く道も、きっとこれからは迷うことなく進んでいけるだろう――警察官として、そして一人の人間として。
暁斗はその夜風の中で、少しだけ深呼吸をして、心の中で未来に向けて静かに階段を昇る。
赤丘市の夜景を見下ろしていた暁斗と海老根の静かな時間は、ふとした動きで破られた。
「あら、あれ?」と海老根が眼下を覗き込む。
暁斗もその視線につられて下を見ると、警察署の駐車場の前、LED灯に照らされた一人の女性の姿が目に入った。瑞雲。事件のことを聞いて心配し、ここまで来たのだろう。
「君がまだ一人前じゃないからだよ。まずは奥さんを安心させられる警察官になりなさい」
暁斗は短く息を吐いた。
自分が警察官としての役割を果たせていない、家族を守る立場としても不十分だ――その思いが暁斗の心を揺らす。しかし、それでも歩み続けなければならない。後悔と反省を積み重ねながら、それでも前を向こうとする決意が、ここに立っている自分の全てである。
ふと、頭上から何かを感じたのか、瑞雲が上を見上げる。暁斗の姿を見つけた彼女は、遠くから微笑み、手を振った。その穏やかな仕草に、暁斗の胸に込み上げていた不安はふっと溶けていった。
「本当にまだまだなのかもしれませんね」と暁斗は呟き、静かに瑞雲に向かって手を振り返した。
完
殺人犯がいたクラス がにまた @anpiruro21
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