第10話 ありがとう
「夏翔さん、あなたの死を受け、あなたのご家族が立ち上がりました。それに当時の東高校陸上部が賛同してようやっと信号機のない横断歩道が整備されたんです」
――ああ、やっぱり。
眼鏡くんの言葉に、忘れていた記憶がまた心の奥底から呼び起こされる。
「夏翔さんの死から七年という長い年月がかかって、その間に東高校陸上部は統廃合でなくなっちゃったけど、それでもその時のメンバーは活動を続けたようですね。ご家族も、息子の仲間たちの支えがあったから実現できたと、当時の新聞にコメントが載ってました」
「……それも、幼馴染が調べてくれたのか?」
「はい。……本当ならちゃんと信号機も設置させたかったみたいなんですけど、そこら辺はまた難しい問題みたいで。でも、おかげでこの道での事故はぐんと減りました」
眼鏡くんが真顔になって俺を見上げる。
「ありがとうございます」
深く深く、暖かい緑の瞳が俺を包み込む。
「……礼を言う相手、間違ってるよ」
俺は眼鏡くんから横断歩道に視線を転じた。そんな俺の背中に眼鏡くんの言葉が優しく降りそそぐ。
「素敵な家族に、お友達ですね」
俺は眼鏡くんに見つからないよう、目元を手で覆った。
あの日も俺は見ていた。
横断歩道が完成したあの日。
そこには少し歳を取った母親と、その隣には小学生の時に別て以来の元父親が立っていた。
そして、大人になっても変わらないみんなの笑顔。
思い出す。思い出す。
俺の中から大切な記憶が溢れて止まらない。
それは熱い奔流となって俺を洗い流していく。
後悔も、わだかまりも、罪も何もかもが身体中から溶け出して、消えていくようだった。
「ありがとう、眼鏡くん」
俺が声の震えを抑えながらなんとか伝えた感謝の言葉は、「お礼を言う相手、間違ってますよ」などという、可愛げのない返答で受け入れられた。見るとその口元は、にまにまとした笑いの形を作っている。
この、ジャージ小僧め。
俺は眼鏡くんの頭を小突き、その細い首に腕を回して、癖のない髪を力いっぱい撫でくりまわしてやった。
「わっ、
「な、なんだと?!」
言ってはならないことを言った罰として、俺はもっときつく眼鏡くんを抱きしめてその耳元にこう囁いた。
「……俺のいちばん、教えてやるよ」
ガリガリ、ガリガリ、眼鏡くんが地面を削る。
それに何の意味があるのかまだ分からないけれど、足元のキャンバスにはまるで漫画のように『絵』で『ストーリー』が展開されていく。
それはトラックに整列する引きの絵から始まった。
第一走者たちがスターティングブロックに足を掛けると、セットの声に緊張が走る。晴れた空にピストルの乾いた音が響き渡って、走者一斉にスタートを切った。
「まさか夏翔さんがリレーにも出場するはずだったなんて」
硬い地面に滑らかな線が紡がれて、ゆっくりとゆっくりと、けれど確実に俺が夢見た景色が広がっていく。
スタートダッシュを決めたひとりが群れからぐんと飛び出すと、その選手の顔のアップになった。前髪を風になびかせて視線を目標に定め、空を翔けるように走るその顔に、俺はなぜか既視感を覚えた。
決して格好よくはない必死の形相のその男――
これは……俺……?
「あー、ぼく、似顔絵は得意じゃないんで。人物はみんな『漫画の絵』になっちゃうから。ちょっとイケメンになっちゃったかなぁ」
手元と俺の顔をちらちらと見比べながら、眼鏡くんが生意気そうに笑ったが、俺の意識はその男に釘付けになっていた。
スタートダッシュを決めた俺が失速することなくコーナーを曲がり、瞬く間に第二走者へ距離を詰めていく。そしてそのバトンは正確にパスされ、次いで第三走者へ、そしてアンカーへと繋がっていくのだろう。
十二秒にも満たない距離を疾走した俺を、フィールドで待っていた仲間たちが笑顔で讃えてくれて、俺たちは固唾を飲んでレースの結果を見守って……。
ああ、そうさ。その先は見なくてもわかる。
アンカーはトップでゴールテープを切るだろう。俺たちのチームは予選を突破して全道大会へ出場する。それが俺たちの夢であり目標だった。
『夏を終わらせない』そんなありふれた言葉を、あの頃の俺たちはみんな本気で言っていた。
夏は終わらない。みんなで走り続けるんだ。
俺はまだまだみんなと一緒にいられるんだ――
眼鏡くんが俺の夢を紡いでくれた。一生叶わない俺の夢。
結局、俺は俺の自分勝手な夢を手放したくなくて、あの夏を終わらせたくなくて、この世にしがみついていただけなんだ。
そんなのが俺のいちばんだなんて知って、眼鏡くんはさぞがっかりしていることだろう。でもそれが俺だ。ちっぽけな俺なんだ。
大地のキャンバスに広がっていく眼鏡くんの描いた漫画。
それはキラキラと優しい光を放っている。
その光の色はもちろん翡翠色――眼鏡くんの色だ。
気づけば俺の内側からも、その深く優しい色が溢れ出していた。
続
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