第8話 失くした宝物を探すように

「シズカ……って」


 眼鏡くんが何か言っている。けれどそれに答えられないほど、俺の頭の中も心の中も蘇る記憶の渦に飲み込まれ、今や俺は窒息寸前だった。

 立っていられずに、その場に膝からくずおれる。ガッと地面に手をつくと冷たい土の感触があった。

 ついた俺の掌に削られて眼鏡くんが描いてくれた走者が何人か消えてしまったが、気にしてはいられなかった。


「夏翔さん!」


 眼鏡くんの声に、静香の声が重なる。



「――危ない、夏翔ーッ!!」


 バイクが派手な音を立てて横滑りし、ライダーが車道に投げ出される。

 破壊音、怒声、悲鳴。その中には静香とキャプテンの声も混じっている。


 競技場の入場口付近にまばらにいたジャージの群れが一斉に距離を取る中、跳ね飛ばされた俺の元に駆け付けたのはキャプテンただひとりだった。


 静香はその場で棒立ちになり、やがて空気が抜けた風船のように萎んでその場にへたり込んだ。


 騒ぎを聞きつけ姿を現した中武が、血相を変えて携帯を取り出しどこかへ電話を掛けると、競技場内へ戻り監督や他の部員を連れて戻って来た。


 監督と数人の部員が俺の元に走って来る。あれはレースメンバーだ。泣き出す女子部員たち。状況がうまく把握できないのか、呆然と立ちすくむ者が殆どだった。


 やがて救急車が到着し、数人の白い集団が俺とライダーの元に駆け付け、そうしてライダーだけが運ばれて行った。あちらは怪我は軽くはなさそうだったが、命に別状は無かったのだ。


 その時、どうして、と静香が言った。

 どうして、どうして。

 それは徐々に膨れ上がり破裂して、大きな泣き声に変わった。

 俺は彼女と付き合いだしてから初めて、静香の涙を見ていた――魂となって。



 眼鏡くんは俺が悲劇に見舞われたと言ったが、実際は違う。

 悲劇だったのは残された者たちの方だ。

 あの事故現場は二次被害もなく、一般的な交通事故として処理されただろうが、あの日あの場所は間違いなく地獄だった。

 その地獄を作ったのは他の誰でもない、俺自身だった。


 俺が車道に飛び出したりしなければ防げたはずの事故。そうすれば、大切な仲間たちに俺が死ぬ瞬間を見せずに済んだんだ。

 あのライダーだって、人を轢き殺してしまうなんて想像を絶するトラウマと罪を背負わずに済んだのに。


 大会にだってちゃんと出場して、リレーでキャプテンにバトンを繋ぎ優勝できたかもしれない。キャプテンは最後の夏だった。静香と必ず全道大会に行く約束だってしていたのに、結局、何も叶えられなかった。


 更に言えば俺の母親はシングルマザーで、俺には他に兄弟はいなかった。再婚話も聞いたことがない。そんな母親を独りにしてしまった。


 俺の罪は重い。すべて俺の責任で、でも死んでしまってからじゃもう遅い。何もかもが手遅れだ。

 俺はそんな自分が許せなくて、憎くて憎くて、そして何より、そんな現実を直視したくなくて――大切な記憶に蓋をしてしまっていたんだ。


「……思い出したよ。眼鏡くんのおかげだ。ありがとう」

「何言ってるんですか、夏翔さん。大丈夫ですか、しっかりしてください」


 眼鏡くんがしゃがみ込み、蹲る俺の顔を覗き込んでくる。俺は自分を落ち着けるように息を整えると、その場にどさりと腰を落とし胡坐をかいた。

 見上げる空高く、八月の太陽が輝いている。思えばアイツはずっと俺の傍にいて、俺が忘れないように、逃げ出さないように見張り続けてくれていたんだ。


「夏翔さん……?」


 眼鏡くんが心配そうに俺の隣に座り込む。


「聞いてくれるか、眼鏡くん。俺、この夏、十三回忌ってヤツだったんだぜ」


 すると眼鏡くんは少し考え込むような表情を見せ、「そうなりますかね」と自分で自分に頷いた。そのあどけなさに笑みが漏れる。


「久々にみんなが法要に駆けつけてくれたみたいなんだ。ここにいても感じることができるみたいでさ。みんなの声が聞こえた気がするんだ」


 きっとそれは疑いようのない事実だろう。この夏に限らず、きっとその前も、恐らくは定期的に誰かが俺の墓前に会いに来てくれていたのを感じる。みんなの声が耳元に蘇るような気がするんだ。

 ほら――……



高校での夏は終わっちまったが、大学でも陸上は続ける。だから安心してくれ。


全道に行くって約束、守れなくて本当にごめんね。


東校の陸上部はなくなっちゃったけど、新生陸上部として伝統の白ジャージは残ったんだって。すごくない?!


先輩、なんと俺、東輝陸上部の顧問になったんすよ。夏の雪辱は俺が晴らして見せますから!



 俺は空の彼方へ目を凝らす。

 青空に、失くした宝物を探すように。


「それは、あなたが愛されている証拠ですね」


 隣では眼鏡くんも空に向かって、力強くそう言った。見るとその瞳に青が映り込んで、まるで虹色の宝石のように輝いている。


「ああ、そうだな。俺、そんな大事なことからも、目を背けていたんだな……」


 仲間たちの嘆き悲しむ顔を見たくなくて、明るく楽しかった頃の思い出に浸っていたくて。

 俺が存在しない未来を思い描くのが怖ろしくて。

 本当に俺はどうしようもないヤツだ。


「……みんなとっくに、いいオッサンやオバサンになってんのかな。俺だけ十代だなんて、なんか申し訳ないなぁ」


 わざと自虐を込めてそう笑うと、「それなら」と眼鏡くんが立ち上がった。パンパンと尻についた土を払い落とす。


「いいものを見せてあげます」


 眼鏡くんがふにゃりと笑った。





  続

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