第7話 あなたのいちばん

「夏翔さんはそのどちらでもない」


 そう言って眼鏡くんは、俺に差し出した自分の右手に木の枝が握られたままなことに気づいて、少し決まり悪そうにパパッと左手に持ち替えると、小さく咳払いをして改めて空になった右手を差し出した。

 その白い頬がほんのり色づいていて可愛らしい。俺は思わずその手を取った。


 ——熱い。


 繋がった掌から先程よりももっと熱い電流が流れ込み、血管を通って俺の体内を駆け巡る。熱いが決して激しくはない、優しい翡翠色の迸りが俺を内側から包み込む。

 

 腹の奥がひときわ熱い。冷たく凝った塊が熔かされていく。

 とける。俺が解けて緑色になる。

 待ってくれ、まだ俺にはやらなきゃならないことがあるんだ。

 まだ、まだ――


「夏翔さん」


 俺を呼ぶその声に引き戻されるかのように、俺は薄く目を開いた。

 少年の形をした翡翠色の光の塊が、ゆっくりと眼鏡くんになる。

 俺の手をぎゅっと握ると、眼鏡くんは「やっぱり」と微笑んだ。


「あなたは意志の強い人だ。風化するでもなく、悪い方に堕ちるでもなく、あなたはあなたのままを貫いている。すごい人です」


 眼鏡くんは言いながら、握手の形に繋がった俺たちの手をゆっくりと揺らす。まるで母親と手を繋いで喜んでいる無邪気な子供のように。その幼いしぐさがじんわりと胸に染みる。


「……俺は、悪霊じゃないのか?」


 そう確認すると、眼鏡くんの瞳がぱちくりと見開かれる。次に眼鏡くんがゆるゆると首を横に振った。  


「やだな、夏翔さんは悪霊じゃありませんよ。何言ってるんですか」


 眼鏡くんが目を点にしながら抗議してくるが、俺にはその自覚があった。

 だって俺は欲しかった。ゴールテープをトップで切れる程の俊足を。

 生きたいと思った。だから羨ましくて妬ましくて――憎かった。


 眼鏡くんの熱に熔かされてすっかり軽くなった腹を擦りながらそう苦笑すると、眼鏡くんも困ったように眉尻を下げて首を振る。今度はしっかりと、否定するように。


「その思いに呑み込まれてしまった成れの果てが、所謂、悪霊です。あなたは全然違う」

「けど、実際に俺は」

「自分にないモノが欲しいとか、羨ましいとか、そんなの普通の感情でしょ。生きてるとか死んでるとか関係ない。人間なら誰だって持ってる気持ちだ。ぼくだって」


 そう言うと眼鏡くんは、何故かジトッと俺の頭の天辺から足の爪先まで眺めまわしたかと思うと、あからさまに大きなため息をついた。それから横を向いて聞こえよがしに「細マッチョでTシャツがよく似合っててイイデスネ」などとぼやいている。

 何だかよく分からないが、眼鏡くんが違うと言ってくれるなら、俺はそれを信じよう。


「とにかく、あなたはすごいんです!」


 頬を紅潮させてムキになっている眼鏡くんの緑の瞳がゆらりと滲み、その色が濃くなったかと思うと、ふっと睫毛が伏せられる。


「すごくて、悲しい」


 黒縁眼鏡の奥で瞳を揺らめかせながら、眼鏡くんが口元を歪ませた。

 眼鏡くんの表情の変化に戸惑いながらも、俺は次に発せられる言葉を待った。


「あなたはそんなになってまで、何に固執しているんですか。夏翔さんを苦しめているモノって、一体何なんですか」


 どこか焦りのこもったその強い口調に、俺は戸惑いを隠せない。


「ぼくは単純に、夏翔さんは自分を死に追いやった相手が憎くて縛られてるんだと思いました。けどあなたの憎しみは、外に向かってるようには感じられない」


 緑の瞳に力を込め、眼鏡くんは俺から視線を外さずに首を振る。


「次に考えられること、それは大会に出られなかったことが無念なんだと思った。あなたは大会会場の目の前で交通事故死という悲劇に見舞われた魂だから」


 そこで眼鏡くんはいったん言葉を切り、ふっと小さく息を吐いた。


「もしかしたら、自分と同じような悲劇を防ぎたくてその場に留まっているのかとも思ったけど。だったら十二年もの間、人を助け続けたんだとしたら、もうとっくに


 その柔らかそうな唇を指で小さく弾き、自分に言い聞かせるように呟くと、「だからそれでもないんだ」とひとりで納得している。


「そう、実際あなたの意識は、競技場に向かっていた」


 ……そうだな、俺は、もうに二度と入れない陸上競技場ばかりを見続けていた。


「だからぼくは、競技場をんです」


 ……なんだって?描いた?


「記録会で実際に中に入ってぼくは見てきました。トラックの様子。そこから見上げた観客席。きっとあなたが受け取るはずだった声援。それも。でも


 俺は咄嗟に足下に視線を落とす。


「話を聞いて、あなたは短距離走者で、でも一位は取ったことがないっていうから、ぶっちぎりで優勝する絵もけど、これも……」


 ぶっちぎり、陸上競技場、声援を送る観客たち、ゴールテープを切るスプリンター。どれも足下のキャンバスに息づいている。


「一番じゃなきゃダメなのに。その人の心が一番に求めているモノを描くことでしか、ぼくは救えないのに」


 眼鏡くんの手が俺の手からするりと離れて、かと思うと両手で俺のジャージに縋りついてくる。白いジャージが緑に染まる。

 俺は、この少年がなぜ俺の元にやって来たのか、分かった気がする。

 どういう原理かは分からない。絵を描いたからって何が起こるというのか、俺にはさっぱりだ。けれど眼鏡くんは、俺を成仏させてくれる気なんだろう。

 彼の言葉を借りればではなく、つもりなのだ。


 見ず知らずのこんな俺を。

 お人よしは君の方じゃないか。


「こんな、自分本位のモノじゃないんだ。話していて分かった。夏翔さんは自分の欲求が未練になっているわけじゃない。羨ましくても妬ましくても、誰かを憎んでいたって、それが一番じゃないんだ。あなたは、あなたは……」


 眼鏡くんが背伸びする勢いで俺に顔を寄せてくる。


「あなたのって、何なんですか」


 その激しいほどに強い真摯な眼差し。

 俺たちは今やふたりとも翡翠色した光の塊だった。


 俺のいちばん。

 心の奥底にわだかまっているモノ。


「――静香」


 そう声に出した瞬間、それまで忘れていたはずの記憶の奔流が俺を飲み込んでいった。





  続

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