第4話 憎くはないですか

「夏翔さん?」


 こちらを向いた眼鏡くんが怪訝そうな顔をした。俺は、なんでもないというように頭をひと振りして、掴んでいたTシャツの皴を広げるように眼鏡くんに見せる。


「こう見えて陸上部だったんだ」


 俺がそう言うと、眼鏡くんは少しだけ切なそうな表情を見せた。


「それじゃあ足、速いんですね。ちな50メートル走って何秒でしたか?」


 聞かれて俺は過去を振り返る。


「確か中学では六秒台だったかな。短距離走者だったし」


 俺がそう答えると眼鏡くんはまたしても地面を睨みつけガリガリ始めてしまった。

 

 ガリガリ、ガリガリ、地面が削られていく。眼鏡くんの心の表面に傷がついていくみたいだ。反面、枝の動きは滑らかで、でこぼこの地面に精緻な線が広がっていく。いつの間にか俺たちの足元はキャンバスになっていた。


「今日いちばんに、一年男子の50メートル走があって」


 先に描き上がっていた陸上競技場の隣に、まるでスポーツ漫画のひとコマを切り取ったかのような観客席がスラスラと描かれる。そこでは老若男女が熱い声援を送っている。その様子が手に取るように伝わってくる。


「……ゴール手前の何もないとこで躓いて、コケはしなかったけど眼鏡が落ちてどっか転がってっちゃって」


 お、おお……。


「幼馴染がすぐに拾ってくれたから眼鏡は無事だったけど、タイムは15秒ちょいでぼくは大怪我しました」


 あああ……それは何と言うか、アレだな。


「足が速いと気持ちよさそうですね……」


 ガリガリと、今度はユニフォームを着た男が髪をなびかせて大地を蹴っている絵が生まれた。懸命に走るその顔はしっかりと前を向き、目標だけを見据えてひたすらにまっすぐ突進している。

 俺は眼鏡くんの頭をくしゃりと撫でた。


 眼鏡くんは顔を上げなかった。幽霊の俺に触れられるのは嫌だっただろうか。けれど、ここまで俺の手を引いて来たのは他ならぬ眼鏡くんだ。俺は気にせず本音を晒すことにした。


「実を言うと俺は陸上人生で一度もゴールテープを切ったことがないんだ。万年二位というヤツだ。だから表彰台の真ん中も上ったことがない。いつだっていちばんは取り逃してきた、残念な男なんだ」


 そうだ、いちばん大切だった陸上を手放して第二の人生に向かう途中だったのに、俺は最期にヘマをしてそれすらも取り逃した。笑い話にもならない。


 俺は手を滑らせるようにして眼鏡くんの背中をポンとひと叩きした。するとそれに押されるように眼鏡くんがゆっくりと顔を見せる。

 この子には、俺のような思いはしてほしくない。だからできるなら笑わずに聞いてほしい。


「眼鏡くんには画力がある。すごいぞ、なんだこのプロみたいな絵は。地面に木の枝でこれなら、ちゃんと紙に描いたらどれだけ人の心を惹きつける作品になるだろう」


 大きく見開かれた黒い瞳。青白いおもてにさっと朱が差す。


「眼鏡くん、君は自分の取り柄を絶対に手放すな。この先に何があっても、誰に何を言われても。美術2の俺でも分かる。君のこの絵は君の人生を切り開く武器になる」


 その刹那、眼鏡くんの瞳が濡れたように揺らめいた。かと思うと彼はパッと下を向き眼鏡の位置を直しながら、再び俺を見返す。心なしか鼻の頭が赤くなっていた。


「夏翔さん、なんだかんだって言ってますよ」


 ふにゃりと笑うその顔は、眼鏡くんが初めて俺に見せてくれた本物の笑顔だった。


「う、うるさいぞ、ジャージ小僧め」


 俺は照れ隠しに眼鏡くんの小さな頭を小突いてやった。


「でも、不思議ですね」


 眼鏡くんは話の間もずっと地面に絵を描いている。先程の走る男の絵は、他の走者を置き去りにぶっちぎりの一位でゴールテープを切る絵に進化していた。

 うん、いい。実にいい。


「ぼくの絵を見ても何も感じませんか」

「うん?すごくうまくて胸が熱くなるよ」


 俺の答えに眼鏡くんは困ったように「そういうんじゃなくて」と零し、少し逡巡を見せたあと、意を決したかのように力強い瞳で俺を見た。その瞳は明らかに翡翠の如き深緑に輝いていた。


「夏翔さん、あなたは自分を?」


 木漏れ日が揺れる。眼鏡くんの上にだけ、葉影がちらちらと、揺れる。

 

「――憎い、よ」


 そう言葉に出してしまった途端、俺の腹の奥がざわりと蠢いた。

 それはまるでこの公園内のあちこちに散らばる黒々とした影の塊のように、風もないのにざわりざわりと不快に蠢いている薄闇のように、俺を内部から浸食してくるようだった。


「これから嫌なことを聞きます。でもこれはちゃんと確認しなきゃいけないことだから。ぼくは謝りません。だから夏翔さんも怒っていいです。怒ってください」


 あなたは、いい人すぎるから――最後にそう小さく零し、眼鏡くんはまっすぐに俺を見据えた。

 今の彼は瞳の色だけでなく、そのさらりと軽い髪の毛も、木の枝をきつく握り締める指先も、狭い肩のラインも何もかもが深緑に縁どられている。


 そうだ、この子は初めからそうだった。初めて俺の前に現れたとき、眼鏡くんは翡翠色に輝く光の塊だった。何も変わってなんかない。


 幽霊の俺から見た、柔らかく温かな存在――それが眼鏡くんだ。






  続

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