第3話 縛られていると言ってもいい

「名前を知らないと不便だと思ったんだ。とか呼び続けるのもなんだか気恥ずかしいだろ」


 俺は咳払いをしながらそう答えた。

 なんだって。演劇のセリフか。

 チラリと横目で少年を見ると、さっきまでの不穏な表情とは打って変わって小さな口をぽかんと開き、不思議なモノでも見るような目つきで俺の顔を見上げている。

 黒縁眼鏡がずり落ちて鼻に引っかかっている様がなんともあどけなくて可愛らしい。

 俺は口元がにやけるのを何とか堪えた。


 すると少年は眼鏡をクッと持ち上げ、「それだけ?」と尋ねてきた。少し前傾姿勢で、そのつぶらな瞳は食い入るように俺に向けられ、「信じられない」とまで言った。


「そんなことを言われてもなぁ。人が人の名前を訊ねるときなんて、相手を何て呼べばいいのか分からないときか、初めて会った相手のことを知るきっかけのどっちかじゃないのか。今のところ俺は君の呼び方で困っている。それだけだ」


 とは言え、結局はどちらも辿り着く根源はひとつなのだと思う。目の前にいる相手のことをよく知りたい。知ってどうするのかは、また別の話だ。


「幽霊なのに?」


 ぱちぱちと瞬きを繰り返し少年が呟いた。

 幽霊。

 そのワードにまたしても身体が硬直する。

 俺は言われるまでもなく幽霊なのだろう。

 何を今更だ。魂だけの存在になった自覚はあるくせに、それが一般的に幽霊と呼ばれる存在と結びつくまでに、こんなに長い年月がかかるなんて、滑稽だ。

 俺の口から笑いが漏れる。


「どうしました?おにいさん」


 ……いや、どうもしない。自分がナニになったのか、思い知らされただけだ。


「おにいさん」


「カケルだ。宇佐美うさみ夏翔かける。あだ名は『うーちゃん』、可愛いだろ?それに、幽霊かどうかなんてあんま関係ないと思うぞ。俺的に」


 何かを言いかけた少年を遮るようにおどけた調子でそう言うと、小首を傾げて少年は薄く微笑んだ。


「似合わないあだ名ですね、夏翔さん」


 さらりと前髪が流れる。

 その眼鏡の奥の瞳はいつの間にか黒に戻ってはいたが、この公園内では相変わらず何の物音もしないし、気温も恐らくかなり低いに違いない。俺はそれを確認するように少年の顔色を見る。公園の外ではあんなに暑がっていて頬も上気させていたくせに、いくらこの場所が木陰だからって、今、目の前の少年の顔は白をとおり越して青味がかってさえ見える。


「……ごめんなさい」


 突然少年が謝りだし、俺は面食らった。


「霊に本名を明かす行為は絶対にしちゃいけないって、ばあちゃんにきつく言われてるんです。弱点を晒すことになるからって」


 ばあちゃん?少年のお祖母ばあさんのことか。その人もこの子と同じように、俺のような存在と語ったりできるのだろうか。

 霊能者とか呼ばれる家系なのだろうか。


「あと、幽霊を家に招いちゃいけないとか、そもそも話しかけちゃいけないとか禁止事項が色々あって、破るとばあちゃん、なまら怒るから……」


 少年はしゅんとうなだれ気味にぽつりぽつりとぼやいた。

 いやいや、もうお祖母ちゃんの禁止事項、かなり破ってるぞ?今更だけど大丈夫か?


「だからぼくのことは『ジャージ小僧』とか『チビ眼鏡』とか好きに呼んでください」


 ……よっぽどチビ眼鏡にコンプレックスがあると見える。だからってジャージ小僧はないだろう。どんな妖怪だ。

 そこで俺はシンプルに『眼鏡くん』と呼ぶことにした。

 ……我ながらセンスがなくて残念すぎる。


「夏翔さん、その白いジャージ、東高校のジャージですよね。すごい似合っててイケてます」

「そうかな。別に普通だけど」


 俺は自分が着ているジャージの胸を引っ張ってみせた。開いたファスナーの隙間から濃紺のTシャツが覗く。陸上部のチームTシャツだ。

 ……

 俺は眼鏡くんの発言に小さな引っかかりを覚えた。


 東高校は俺が通っていた高校だ。市の中心部から少し東に外れた場所にある。が、それだって十年以上前の話だ。元というからには現在はということなんだろう。


「今は東校じゃないのか?」


 紺地に白くチーム名が縫い取られたTシャツに視線を落としつつ、俺は訊ねた。すると眼鏡くんは「そうか」と小さく呟き、ゆっくりと嚙みしめるように口を開いた。


「五年程前ですかね、東校と北高が合併したのは。場所は東校のままですけど校名が変わりました。『東輝とうき高校』っていう運動部に力を入れている学校で、ぼくには縁のないトコです」


 そうか、統廃合。

 そういうこともあるだろう。

 ……けれど、俺が引っかかっているのは気がした。


「亡くなってからのことなんて知るはずもないですよね。夏翔さんは亡くなった場所から、じゃなさそうだし……」


 眼鏡くんが木々の向こう、俺が死んだ場所の方に向けて顔を上げた。

 そうだ。死んでから俺はずっとあの場所にいる。縛られていると言ってもいい。だからそれ以降のことなんて、知ってるはずがないんだ。


 本当に?俺は本当に知らないのか。

 誰かからこの話を聞いたんじゃなかったか。

 死んでいる俺が、いつ、誰から?

 そんなことあるわけないだろ。


 自分の思考の矛盾に苦笑が漏れそうになったその瞬間――ツキン。

 頭の奥に、細い針を刺されたような刺激が走った。


 ……伝統の白ジャージは――


 何かが俺の内側から顔を覗かせそうになって、俺は反射的に片手で頭を押さえてうつむいた。

 蓋をするように。

 もう片方の手は、無意識にTシャツの胸を握り締めていた。


 




  続

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