第2話 みんな生者の名前を知りたがる

「体育の記録会をやってるんですよ。今日は」


 木陰のベンチに並んで腰かけると、ぽつりぽつりと少年が話し出した。その視線の先には、車道の向こう、見上げる程に大きな陸上競技場が聳え立つ。

 俺が入りたくても入れない、広郷ひろさと市民陸上競技場。


 ここはその真向いに広がる広郷運動公園の一角。外周をぐるりとフェンスが取り囲み、それに沿うように鬱蒼と生い茂る木々と、同じような花々が咲いた等間隔に設置された花壇。ぽつんぽつんと置かれたベンチ。そしてずっと止まったままの噴水があるだけの広場だった。


 俺の記憶違いでなければこの公園は東西に長い形をしていたはずだ。ここは西寄りで、もう少し東側に進めばテニスコートにソフトボール場、ゲートボールができる広場などいくつかのスポーツが楽しめたり、子供向け遊具が整備されたスペースもあったと思う。

 俺は利用したことはなかったが、それなりに賑わっていた数少ない田舎のお出かけスポットだったはずなのだが、今はどうしたことだろう。これじゃあ公園という名のただの空き地じゃないか。


 空には夏の太陽が鎮座しているというのに、やたらと生い茂った樹木に遮られ、白い木漏れ日がその倍は色濃い木陰をいくつも作り出している。

 俺はその木陰のせいで夜の闇に飲まれたように暗く沈み込んだベンチに少年と座り、ぽつぽつ話す少年の、幼い頬や細い首筋に作る葉影の形を、風に揺れてちらちらと形を変えるその影を、無意識に目で追っていた。


 ちなみにベンチには普通に座ることができた、ようだ。ちゃんと座っている感覚がある。歩いたり座ったり、まるで生きている頃のような動作ができている。それに今はもう手は繋いでいない。少年の言うとおり、放しても大丈夫だった。

 間違いない。濃い葉影に包まれたこの少年は見た目どおりのただの子供ではない。


 隣では少年が、来る途中で拾った長い木の枝で地面をガリガリと掘っている。

 それよりも、体育の記録会とはなんだろう。学年の初めに五十M走とか立ち幅跳びや反復横跳びの測定をやった記憶がある。それのことか?それを隣の陸上競技場で行っている?そんな贅沢な学校があるのか。

 よく見ると少年の着ているライトグレーのジャージの胸には、どこかの中学校の校章が刺繍されていた。この校章は確か……。


 俺が少年に中学校名を告げると、「そうです」弾かれたように顔を上げた。驚きからか、眼鏡越しの瞳がぱちぱちと瞬きを繰り返している。

 俺が告げた校名は、市の繁華街に位置する小さな中学校だった。あの辺りにある小中学校へは商店街や歓楽街に店舗兼住居を構えているごく少数の、所謂『街の子』が通っている。もちろん一般家庭の子供も通っているだろうが、殆どがお店屋さんの子だったと聞き及んでいる。

 

 俺も中学の頃、陸上部の練習試合で一度だけあの中学を訪れたことがあるが、グラウンドは猫の額程度しかなく、体育館も驚くほど小さかった。あの辺は街中まちなかだから余っている土地も少なく、だったら陸上競技場を借りるのも致し方ないのかもしれない。


 それにしても、そんなイベント中にこの少年は一体何をやっているのか。こんなところで、俺なんかを相手にして。

 すると俺の心の声に反応したかのようなタイミングで、少年が億劫そうに口を開いた。


「うちの学校の恒例行事なんですよ。記録会なんて学校のグラウンドでやればいいのにわざわざ陸上競技場まで来てしかも全学年いっぺんに行うんですよ。知ってましたか?わざわざ見学に来る保護者までいるんですよわざわざ」


 そうひと息に捲し立てる少年は、先程までの物静かでどこか達観している雰囲気とは打って変わって、なんて言うか、年相応の顔を見せた。


「しかも最後に全員参加のクラス対抗リレーまでやるんです。もう意味が分からない」

「それは……なまら豪華な体育祭だな」


 何ていって言いか判断がつかずそう返答すると、少年にジトッと睨まれた。


「ぼくはご覧のとおり、属性【チビ眼鏡】なんですよ」

「……いや、よく分からんが」

「【チビ眼鏡】は運動音痴がデフォです」

「ゲームか漫画の設定の話か?背が低くても目が悪くても、運動神経いいやつだって大勢いるだろう。それに記録会だって授業の一環だろ。さぼっていい道理はないぞ」


 そう言ってから、俺はハタと気がついた。

 さぼりと言うワードは良くなかったかもしれない。単に休憩時間なだけかもしれないのに、決めつけるようなことを言ってしまった。


「すまん、偉そうなことを言った」


 その俺の言葉に少年は目を剥き、代わりに口をギュッと結んで、うなだれるようにまた下を向いてガリガリし始めてしまった。


「……ぼくだって、恥はかきたくない、です」


 ガリガリ、ガリガリ。

 彼の足元にはいつの間にか陸上競技場が描かれていた。


「うまいな」


 思わずそう漏らすと、木の枝が一瞬だけ動きを止め、またガリガリと動き出す。


「ぼくの唯一の特技です」


 少しだけ誇らしげなその声音に、俺は安堵のため息をつく。


「なあ、君、名前は?」


 彼は何か理由があって俺に会いに来たのだろう。ならばいつまでも「少年」や「君」と呼んでもいられまい。

 俺のそんな問いかけに、ゆっくりと少年がこちらを見る。俺を見据える。

 刹那、黒縁眼鏡の奥、少年の黒く塗れたような瞳が瞬き、淡く淡く緑色に染められていく。

 俺の方が目を見開く番だった。


「どうしてかな」


 初めて聞く、地の底から響くような冷たい声音。もうない筈の背筋がぞくりと震える。


「ぼくが今まで出会ったは、みんな生者の名前を知りたがる」


 幽霊。


 その言葉に、全身が雷に打たれたように痺れ、固まる。

 気づけばこの場所にはそよ風すら吹いてはいない。。少年の顔を覆う葉影はずっとちらちらと揺れているのに。

 それに元々人気ひとけのない公園内だけれど、それにしたって公園の外は市街地で二車線道路も通っている。それなのにそこを走る自動車の音も、ましてや鳥の鳴き声ひとつ聴こえない。静かすぎる。何だこの場所は。


「ねぇ、どうして?」


 少年が俺を見上げる。黒い影に覆われて緑の瞳が隠れる。薄い唇がにいっと持ち上がり、下弦の月を形作った。


 ざわり。

 地面に落ちた木陰が蠢く。あちこちに作られた闇が、まるでイキモノのように蠢いていた。





  続

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