第1話 魂だけの存在に

「こんにちは、残暑厳しいですね。ぼく、暑いのは嫌いです」


 淡く、優しく、それでいて力強い翡翠色の光源が近づいて来て、そう俺に話しかけた。

 少し高い声変わり前の少女のような声音。

 その声に誘われるままに眼を開くと、小作りな顔に、その輪郭からはみ出す大きさの黒縁眼鏡をかけたジャージ姿の少年が俺を見下ろしていた。

 少年は柔らかく微笑むと、俺に向けて手を差し伸べる。すると、腕まくりをしていただろう袖がずるりと落ちて、華奢な手首をすっぽりと覆い隠してしまった。


 ……瘦せすぎだろ。ジャージがダボダボじゃないか。


 そう思いつつジャージを眺めていた俺は、無意識に右手を彼に向けて伸ばし、気づけば自分の半分ほどしかない小さくて薄いその手を握っていた。


 ――熱い。


 握った掌から電流のような熱の塊が迸り、驚きに瞬いたときには、長い間アスファルトに仰臥したままだった俺の身体は地面に立ち上がっていた。

 十年以上振りに自身の両足で地を踏みしめている、感覚がある。逆に大地から解き放たれた背中もパキパキと関節が鳴って気持ちよく伸びている、気がする。


 不思議だ。

 俺はとっくの昔に死んでいて、肉体を持たない魂だけの存在になり果てたというのに。

 

「歩けますか?」


 そう問いかける少年の声にハッとして見ると、俺の胸の辺りまでの背丈しかない黒髪がさらりと揺れて、俺に笑顔を向けている。

 手は掴んだまま。思いがけず握手の形になっていた。


 それよりも今、なんて言った?歩くだって?

 この場所に縫い留められて一歩だって動けなかった俺が?

 長年、八月の太陽に見下し続けられたこの俺が、歩く?

 試しにその場で足踏みしてみる。

 歩く、歩く歩く、歩ける!

 驚いたことに、どうやら俺は自由に動くことができるようだった。


「よかった、大丈夫そうですね。おにいさん、意志が強いんだな」


 なんだろう、この少年がいるせいか?この少年がに何らかの影響を及ぼしている?


「よかったらあっちの木陰に行きませんか。ここは日差しが強くって」


 少年は白い顔を火照らせながら、空いている左手を庇の形に作っておでこに乗せた。途端にサッと濃い灰色の影がその顔を覆う。俺の位置からはその口元しか窺えないが、本当に暑さに弱いらしく、先程から話の合間に小さくはぁはぁと息を上げている。滑らかなカーブを描くその顎から汗がひと粒滴り落ちた。


 俺はこくりと頷き了承の意を伝えると、少年と連れ立って日陰のある方へと歩き出した。もちろん、手は繋いだままだ。だって怖いじゃないか。手を離した途端、また動けなくなって地面に寝転がる姿勢に戻るのは。

 恐らく、いや絶対にこの少年の影響でこうして自由を得ているのだろうし。彼との繋がりが切れたら終わりな気がする。


 そんな少年は歩き出すのと同時にごく自然に俺の手を放したが、そうはさせじと俺が掴み直したのでかなり怪訝そうな表情で俺の顔と握り合った手とを見比べ、「大丈夫ですよ?まぁいいですけど」そう言いつつ眼鏡のブリッジを押し上げ、俺を先導する形でてくてくと歩き出した。

 お世辞にも長いとは言えないコンパスが小さな歩幅を描く。そのゆっくりとした歩調に俺も合わせる。遅いとか思わない。不思議と心地よいリズムだった。

 

 それにしても、この少年は何者なのだろう。

 自分で言うのもなんだけれど、俺は死者だ。

 こうやって死者の魂と語り合い、触れ合えるこの小さな少年は、一体なぜ俺の目の前に現れたのだろうか。

 頭上では、いつもはギラつく八月の太陽も今ばかりは光の責めを緩めているようだった。





  続

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