初秋

皐月あやめ

【プロローグ】

 ぽすん、と後頭部に何かが当たって、かさり、と足元に落ちた。

 感覚的にものすごく軽い物。

 ぼくはふっと視線を落とす。

 やけにツヤツヤなリノリウムの床に丸められた紙屑がころりと転がり、エアコンの風に煽られてゆらゆら揺れている。


 またかぁ。


 ぼくはひどく億劫だったけれど、をそのまま放置しておくワケにはいかないと思い、のろりと腕を伸ばした。

 拾い上げたはルーズリーフで、その端を摘まんでゆっくりと開くと、赤ペンで二行の言葉が書かれていた。


 ノロワレ

 死ね


 一行目の言葉は赤ペンで何度も何度もなぞったように、太く荒々しく書かれ、二行目の言葉にはご丁寧に二重線が引かれている。


 暇人共め。


 ぼくはぼくの背後にいるのであろうヤツラにちらっとも視線をくれてやらずに、掌の中の紙屑を握り潰そうとして、一瞬早く奪い取られてしまった。


「なんだコレ?」


 少し高くて、少年役女性声優さんのように耳心地のよい声が怪訝な色を発している。

 それはぼくの左隣に立っている幼馴染で親友の【スバル】だった。

 スバルは手にしたルーズリーフに視線を落としそこに書かれた文字列を確認した途端、眉間に深い皴を寄せ、猫みたいな瞳をギンと釣り上げた。色素の薄い形の良い額が、怒りのためかさっと赤く染まる。


「誰がこんなモノ……!」


 言うが早いかルーズリーフを握り潰したスバルは、止める間もなく背後を振り返る。ぼくは慌ててその肩を抑え、無理やり前を向かせた。


っといていいから」


 ぼくが小声でそう言うと、それが気に入らなかったのかスバルが「いいワケあるかっ!」と気色ばむ。

 すると前方から涼やかな声が、ぼくたちを窘めるように凛と響いた。


「ふたりとも、図書室では静かに」


 そう、ここはぼくが通う中学校の図書室。

 中学に入学してからぼくたちは毎日のように昼休みを図書室で過ごしている。クラスが分かれてしまったスバルと一緒に過ごせる数少ない時間だ。

 今日は先週借りたスバルおススメの小説を返却して、ついでに新しいおススメを教えてもらうために集合している。


 スバルの家は駅前商店街で長く書店を営んでいる。本に囲まれた暮らしの中では読書家になるのは自然なことだろうし、いつしか小説家を目指すようになるのも頷ける。

 そんなワケでスバルは本に詳しい。逆にぼくは漫画ばかり読んでいてあまり小説は読まない派だから、たまの読書の際はスバルに教えを乞うのが常だった。


 そしてカウンターの中に座るのは、肩から三つ編みを垂らした上級生の図書委員。

 ちょっと長めの前髪と薄紫色の瓶底眼鏡で顔の半分が覆われているのが特徴的な、ぼくのもうひとりの幼馴染の【スミレ】ちゃんだった。

 ぼくたちは時間さえ合えば、こうして三人で顔を合わせていることが普通だった。


「けどさスミレッ」

「校内ではと呼びなさいと言ったでしょ」


 スバルの抗議の声もスミレちゃんの涼やかな声音に打ち消されてしまう。ぼくたちは保育園の頃からのつき合いだけれど、その頃からどうしても、ひとつおねえさんのスミレちゃんには逆らえないのだ。


「はい、返却手続き終わったわよ。いつまでも突っ立てないで、邪魔だから。新しいの探すなら昼休みが終わらないうちにどうぞ」


 カウンター越しにぼくたちを追い払うようにそう言ったかと思うと、スミレちゃんはおもむろにスバルの手から紙屑を摘まみ上げた。そしてゆっくりと立ち上がるとカウンター内からへ出て来る。


「ス……先輩?」

「ちょ、何する気だよ」


 ぼくとスバルが困惑する中、スミレちゃんは僕の背後だけを見つめてこう言った。


「何も。ゴミはゴミ箱に、でしょ。あたしたちの聖域である図書室を汚すやからは排除しないと」


 手の中で紙屑を弄びながら僕たちを追い越して行くスミレちゃん。その背丈はチビなぼくたちふたりよりも五センチほど更に低い。肩も細く手足なんて棒のようだ。

 中学二年生になってもセーラー服を脱いだら未だに小学生と間違われてしまうスミレちゃんだけれど、度胸と行動力はピカイチで、これだからぼくたちはスミレちゃんに頭が上がらないのだ。


「……俺はぼっちじゃねぇけど」


 スバルがぼそりと零す。

 ぼくたちはスミレちゃんの姿を目で追い、揃って振り返る。

 図書室内では当然ぼくたち以外の生徒が、思い思いの時間を過ごしていた。並ぶ書架の間で目当ての本を探す者。中央に並べられた長机で読書を楽しんだり参考書を開いて勉強をしている者。

 学年も性別もバラバラだけれど、みんな会話は最低限、そして声を潜めて共通項である『図書室では静かに』を遵守している。


 そんな中、こちらにいちばん近い長机に、ぼくたちに背を向ける格好で並んで座る男子生徒がふたり居た。ふたりは頭をくっつけ合い肩を震わせている。片方が少し顔を上げたかと思うと、ちらりとこちらを盗み見た。

 バチッと目が合う。

 するとその男子生徒は、悪びれるでもなくぼくを見てニヤリと下卑た笑みを浮かべ、もう片方とヒソヒソ話をしたかと思うと、揃ってヒヒヒと嗤った。


 アイツら、あの顔は案の定、同じクラスの男子生徒だ。

 教室内でぼくをハブるだけならまだしも、こんな場所でも悪意を向けてくるなんて。


 最悪なヤツらめ。なまら迷惑。


 ぼくが胸中でそんな悪態をついている間にもスミレちゃんはゆっくりとした足取りでソイツらの元に向かい、ふたりの間に立つと、背後から小声で問いかけた。


「ちょっといいかな。一年生だよね」

「ああ?なんすか」

「ボクタチ予習やってるだけっすけどぉ?」


 スミレちゃんの『図書委員モード』な小声に対して、ふたりは普通のトーンで答えた。

 いや、小柄な女子生徒だと思って、明らかにバカにしたような横柄な態度をとっている。

 ふたりのそんな様子に、スバルが猫のように低く唸った。


「コレ。よね。あたしの位置からは丸見えだったんだけど。中学生にもなってゴミもきちんと片付けられないのかな」


 スミレちゃんが掌を翳す。するとふたりの顔にはくっきりと「めんどくせぇ」と浮かんだ。


「あ~、だったらで投げてくださいよ。拾ったんならさぁ」

「だよな。いちいち持ってくんなよ。ウッゼェなぁ」


 ふたりの声のトーンが上がって、静謐な図書室内に不穏な空気が流れる。周りの生徒たちが好奇心と迷惑が混ざり合った視線を、長机の三人に向けた。

 そんな中でスミレちゃんは掌を翳して紙屑をふたりに見せつけたまま、「分かってないのね」と呟き、空いている方の手で眼鏡をすっとずらすと、ぶ厚いレンズのせいでサイズ感が狂って見えていた瞳を敢えて露にする。


 そこには、孔雀が羽を広げたかのように美しく天を仰いだ睫毛と、黒曜石のように漆黒に煌めく神秘的な瞳を持つ、恐ろしいほどの迫力を秘めた美貌があった。


「「……っ!」」


 現金なヤツらだ。スミレちゃんの素顔に度肝を抜かれて口をパクパクしながら顔を赤くしている。大人でも息を飲んで絶句する美少女に凄まれて、並みの中学生男子が適うワケがない。


「消えなさい。ゴミひとつ満足に始末もつけられないような常識外れの低能共には、図書室での居場所なんてありはしないのよ」


 ふたりに顔を寄せその美貌がいちばんに見える角度を作ると、スミレちゃんは囁くような低い声で何事かを伝え、長机に紙屑をぽいっと置いた。

 すると顔を赤と青の半々に染めたふたりが、慌てたように机の上の勉強道具を片付け、ぱっと紙屑を掴んだかと思うと、どたどたと図書室を出て行く。

 スミレちゃんはと言えば、眼鏡をかけ直しひと仕事終わったと言わんばかりに「ふん」と鼻を鳴らすと、またゆっくりとした足取りでカウンターに戻って来た。

 そんな顛末を見届けて、スバルが素早くぼくに耳打ちする。


「……この毒舌女、またなんかかましたぜ。絶対」

「あはは……」


 ぼくの乾いた笑い声が静まり返った図書室内に響いて、「す、すみません」と慌てて頭を下げるのだった。



 

「先輩、さっきはありがとうございました」


 返却図書を書架に戻す作業を始めたスミレちゃんの傍らに立ち、ぼくが恭しくお礼を述べると、スミレちゃんはこちらも見ずに「あれも図書委員の仕事よ」と、事も無げに言った。

 けれど一冊の本を棚に収めたところで、こちらを振り返ったスミレちゃんがなぜかぺこりと頭を下げる。


「ごめん。あたしのせいで、あんたが教室に居づらくなるかも」


 ああ、なんだそんなこと。今更だよ。

 ぼくは返事の代わりに笑って見せた。

 それから、スミレちゃんが両手に持った重そうな本の束をすかさずスバルが取り上げて「手伝う」と言って、ぼくたちは三人で本を片付ける作業を開始した。


「けどさぁ、おまえもやられっぱなしでムカつかないのかよ。なんか言い返してやればよかったのに」


 作業をしながらスバルがそう言った。

 まぁ、その気持ちも分からなくもないんだけど、いちいち気にしていてもキリがない。

 周囲の雑音からは耳を塞いで、目を閉じて、顔を背けてやり過ごすのが結局、楽だし。


「バカの相手は疲れる」

「「確かに」」


 ぼくの発言にふたりの声が綺麗にハモる。

 ぼくは鼻の上にちょこんと乗った黒縁眼鏡のブリッジをクッと持ち上げ、ため息交じりに呟いた。

 

「それにさ、あんなの悪口書かれたって。ぼくが呪われるとかありえないっしょ」

「「確かに」」


 スミレちゃんが棚を指示してスバルがぼくに本を手渡す。そしてぼくは渡された本を指定の位置に戻しながら、ふたりに笑顔を向けた。


「嫌いなヤツにどう思われたって構わないし。ぼくは好きな人にだけ好きでいてもらえたら、それでいいんだ」


 スバルとスミレちゃんが一瞬きょとんとした表情で顔を見合わせる。けれどすぐにふたりとも相好を崩して、ぼくの背中をバシバシ叩いてきた。

 痛い痛い。ふたりとも感情表現が乱暴すぎるよ。


 それからぼくとスバルは、特に何の本も借りずに図書室を出た。そろそろ昼休みが終わりそうな時刻だった。また放課後に図書室に寄って、その時にゆっくり今日借りる本を探そう。

 スミレちゃんも昼休みの仕事を終えて、一緒に廊下に出ると、ぼくたちは三人並んで歩き出した。


「なぁ俺ら来週『幽霊公園』に行くじゃん?」


 唐突にスバルが切り出すと、「違う。その隣の陸上競技場に行くのよ」とすかさずスミレちゃんが訂正する。

 来週、うちの学校は全校をあげて記録会を行うのだ。スミレちゃんからは毎年恒例の地獄のイベントだって教えられている。運動音痴にはツラい話だった。

 当日は運よく風邪でもひかないだろうかと、同じく運動神経皆無のスミレちゃんと天に祈りを捧げる今日この頃なのだ。


 ちなみにスバルの言う『幽霊公園』とは、郊外にある地元でもちょっと有名な心霊スポットだった。本来はいくつかのスポーツに興じることができる、広い敷地の運動公園のことだ。

 学区外にあるため、ぼくたちはまだ一度も訪れたことがない。そもそも運痴には無縁の場所だろう。

 ああ、マジで微熱程度でいいから発熱しないかなぁ。


「それがさ、うちの姉ちゃんが言うには『幽霊公園』って呼ばれ出したのって、ここ最近のことらしいぜ」

「え、でもぼくたちが小学校に入学した頃にはすでに心霊スポットとして確立してたじゃんか」


 スバルの発言にぼくが異を唱えると、スミレちゃんが首をこくこくさせて同意してくれる。


「なあ、変だよな。なんかいわくありげじゃね?」


 そう言うとスバルは猫のような瞳をきらりと輝かせ、不敵な笑みを見せた。

 いや、そもそも心霊スポットなんだから曰くのひとつやふたつあるだろう。

 ぼくがそう言おうとしたちょうどその時、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴り、話もそこそこにぼくたちはそれぞれの教室に向かうこととなった。


 この時はまさか、スバルのほんの些細な発言が巡り巡って、ぼくにあんな出会いをもたらすとは思いもしなかったんだ。




 これはぼくが、ひとりのおにいさんと出会って、そして人を殺すまでの物語――





  続

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