第1話

「やけに冷える朝だな…」

阿部晴人あべ はるとは、胸に染み込むような冷たい朝の空気を感じながら、静かに伸びをした。季節は確かに春に差し掛かっていたが、この朝には何か違和感があった。どこか不穏な気配を含んでいる。晴人は一瞬、空を見上げたが、いつも通りの青空が広がっているだけだ。


「ま、いっか」

無造作に首を振り、彼は店の前の「CLOSE」のプレートを指先で軽く叩くようにして「OPEN」に変えた。喫茶「セブンス」に戻り、晴人はいつものようにカウンター脇の特等席に腰を下ろした。静かな店内には、彼が選んだジャズが低く流れている。


表向きは、小さな喫茶店。だが、ここに来る客は皆、何かしらの「噂」を知っている。晴人は、ただの店主ではない。彼は、怪異や霊障を扱う「妖怪探偵」としても知られている。もっとも、そう呼ばれることに彼自身はさほど関心を持っていないのだが。


ゆっくりとコーヒーを啜ると、ほっとするような苦味が口に広がった。


「朱里ちゃん、和泉市の公園のトイレで子供の泣き声がするって話、覚えてる?」


ふと口を開くと、晴人は新聞に目を通しながら、軽く声をかけた。


キッチンでトーストを焼いていた従業員の坂井朱里さかい あかり、25歳が、あっけに取られたように振り返る。


「え!?…私、一人でですか?」


トーストを持ってテーブルに近づきながら、朱里の表情は不安そうだ。彼女がこの世界に足を踏み入れたのはまだ浅い。妖怪探偵なんて、自分の人生とはまるで無関係だと思っていた――少なくとも、晴人に出会うまでは。


朱里はトーストをテーブルに置きながら、まだ半信半疑の表情を浮かべた。


「それって、普通の探偵の仕事じゃないですよね?」


そう、朱里には分かっている。晴人が扱うのは、いわゆる「普通」じゃない。公園のトイレで子供の泣き声――それが本当に人間のものなら、彼らが呼ばれることはない。晴人はコーヒーを一口啜りながら、静かに答えた。


「まあね。今回は霊障だね。御札を貼ってしばらく様子を見ておこうか。依頼人…吉田さんだっけ?あの人にも連絡しといてよ」


朱里は不安を隠せない。まだ慣れない「仕事」に、時折こうした「異常」が混ざる。それでも晴人は、どこか楽しんでいるように見える。彼は丁寧な手付きでトーストにバターを塗りながら、軽く笑みを浮かべた。


「朱里ちゃん、君の成長を見守ってるんだよ。1人でこなせるようにならないと、いつまでも僕に頼ることになる」


そう言いながらも、晴人の声にはどこか含みがある。まるで、朱里がこの世界に巻き込まれたことを楽しんでいるかのようだ。彼の真意は、いつも掴めない。朱里は小さく息を吐き出しながら、ぼそりと呟く。


「妖怪探偵なんて、他では聞いたことないですし…店長がまたサボりたいだけなんじゃ…」


その言葉が完全に出る前に、店のドアが優しく開く音がした。からんころん、とドアベルが鳴り、朱里はすぐにその方向を見た。そこに立っていたのは、少女だった。彼女は切迫した表情で店内を見回し、まっすぐに朱里を見つめた。


「いらっしゃいませ…おひとりですか?」


朱里は慣れた手つきで少女を案内しようとしたが、その次の瞬間、少女は焦ったように口を開いた。


「あの!!ここって…安倍探偵事務所で合ってますか!?」


朱里は一瞬目を見開いたが、次に動いたのは晴人だった。まだ長いままの煙草を口にくわえたまま、彼は立ち上がり、火をもみ消すと少女のテーブルに向かってゆっくりと歩み寄った。


「安倍です。落ち着いて、お話を聞かせてくれますか?」


彼は少女の前に腰を下ろし、ポケットからメモ帳を取り出すと、その表情には先ほどまでの軽さはなかった。探偵としての「本当の顔」がそこにあった。


店内の空気が、少し重くなる。朱里も、いつの間にかその場に足を止め、息を呑んでいた。少女の話が、ただの依頼ではないことを、彼女も直感的に感じ取っていた。

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陰陽見聞録 @norimaki_onigiri

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