〈 2 〉

 見覚えがある学校の一室。

 ここは、あの日少女が飛び降りた部屋。

 あの日以降ココに近寄ることすら出来なかった。物理的にも精神的にも。

 怯えていた。怖かった。耐えることなんて出来なかった。トラウマがいっぱい詰まって溢れそうな、僕にはそういう場所だった。

 だから、すでにパニックで彼女が近づいて来ないことを祈るように願っていた。

 

 開いた窓から突き刺すようなからすの視線。それだけじゃない。廊下にも入って来ていて囲まれている。断罪するかのような怒号。罵声。糾弾。

 雰囲気が願いを否定する。

 鴉の鳴き声、視線。いつ襲いかかってくるのか分からないほど緊迫した空気。

 カーテンを揺らすほどの風が、部屋を通り抜けては消えていく。転がっている太く小さな瓶からは何かの液体が溢れている。

 動くことを忘れた僕は案山子かかしみたいに棒立ちのまま、真正面での狭い視界に写るそれらを見ていた。


 少女が動き出す。

 恐怖そのものが迫りくる。

 近づこうとして来たから、その動きを制しよう大声で「来るな!」と言ったつもりだった。

 なのに声が出ない。開いた口から音が出ない。口を開けただけの間抜けな姿。

 耳だけは正常であった。自分の声が聞こえないことは、はっきりと分かる。


 そんな……なんで?

 

 薄暗い部屋。何か腐ったような悪臭。目が潰れるくらい痛い煙。出ない声。失った感覚。

 煙の中のシルエットが大きく近づく。

 すぅーっと、僕に近付いてくる。その足音は聞こえない。


 速くなったり遅くなったり不規則な速度で距離を詰めてくる。

 足があるのに歩いていない。

 胴にくっついている四肢は、重力に耐えきれなさそうにぶら下がっていて、今にも千切れ落ちそうなほど弱々しくボロボロに見えた。

 乱れに乱れた長い髪が顔を覆い、そこだけがまるで黒い穴ブラックホールのようで異質なほど暗闇だった。


 四階から落ちたからか?

 

 皮膚に纏わりつく圧迫感。張り裂けそうな空気に僕の肺や心臓が悲鳴を上げる。

 背筋が熱く痛い。

 見えない壁がぶつかっている。棒立ちの僕の背中を潰すくらい跳ね返してくる。摩擦で焦げ付くほど、服を破り皮膚を潰して血がにじみ出しても、僕は後ろに下がろうとしている。

 手足は動こうとしている。指を曲げることや踵を浮かすことは出来る。無我夢中で逃げようと後ろに下がろうとするも、僕の位置は全然変わらない。


 黒い顔がすぐ傍にあることを理解したのは、焼きただれた顔が僕を舐め回せる距離で凝視していることを知ったときだ。

 その急な接近を許してしまったことで感じた強烈な絶望。

 眼球がまるまる見える程にまでなったその目には、僕の姿が鏡のように写っている。

 目を見た瞬間に体は完全に動かなくなった。


 実際に僕の体は定位置から動けていない。

 だが、頭の中では動いた気になっている。血を流しながらも逃げた気になっている。

 何も抵抗することなくこの現状を受け入れることが出来ないから。

 可能なら痛みや恐怖、悪夢そのものから逃げ出したいのだが、それが一番なのだが逃してくれない。


 この世のものとは思えない醜い顔がそれを物語る。

 摩擦の痛みが全身に駆け巡る。壁に焼かれる痛みが鋭さを備えて背中から首へ、手へ足へ、脳へ、髪の毛隅々まで走り抜ける。

 痛みで吐きそうだ。

 

 ふと頭によぎる。

 

 あの時、この少女は四階から飛び降りた。その衝撃で頭が吹き飛んだはずだった。

 

 なのに今は顔がある。

 

 よぎったタイミングを見計ったかのように、反転・・した。足が天井を向き、宙吊りになり――、


――突然、爆発した。

 僕の顔間近で。


『ぐしゃぁああ』と鈍く潰れる音だったのにもかかわらず、肉片も硬い骨が勢いよくぶつかってくる。

 大量の血を被り、凄まじい臭いが鼻を強引に入り込んで脳に突き刺さる。

 僕を襲うそれらから自分を守る手立てはなく、込み上げる吐き気に逆らえることなんて出来やしない。その場にうずくま盛大せいだいに撒き散らした。

 自分の体液全てを出すまで止まらない。終わらない。どれだけ吐いても次から次へと湧き出てくる。


「ははははは」けらけら「ははは」嬉しそうに。

 記憶が蘇る。同じ光景。同じように僕を見て笑っていた。


 有り得ない光景。どこから声を出しているのか、そんな疑問なんてこの世界では意味がない。苦しみを受けることだけが残り、それ以外は消えうせる。僕に出来るのは相手からの行為をそのまま受け止めるだけ。


 吐ききって喉を酸で焼かれた痛みや周りに散らされた肉片の数々、色々混ざりあった悪臭が僕を苦しめ続ける。血を被った視界は狭く、拭い取ることも出来なかった。そして転がった目玉が僕を見上げていた。宙吊りになっている首からは常に落ち続けている。僕めがけて赤い雨を降らせている。

 

 腕を掴まれた。

 立てない僕を無理やり立たせる。その手はボロボロなはずなのにとても力強く、僕の腕なんて簡単に握り潰すことが出来そうだ。

 首を切られたように綺麗に頭部が無くなったその姿を見ても、僕には、もうどうすることも出来ない。我を忘れて抵抗することが普通なのかもしれない。だけど精神的疲労困憊ひろうこんぱいな僕は力が抜け切ってしまっていた。彼女が手を離せば簡単に崩れ落ちるほどに。

 全てを吐き出したから力が入らない。あの時に全部出したのだ。生きる力も。


「こうしないと逃げるから」

 嬉しそうな声。その声を最後に夢の更に深い場所、意識が遠く及ばない奥底まで堕ちた。

 何も見えない。何も聞こえない。何も触れない。

 だけど痛覚だけがはっきりとしている。

 ここからが本番。これからが長い恐怖の始まり。

 何をされているか分からずに、激痛だけが僕を襲う。

 夢のまた夢、夢の中の夢の世界。無意識の世界。

 誰も居ない。自分の体も見えない。刃物も見えない。ドリルの音もしない。スタンガンもアイアンメイデンも、剥がれ落ちた爪も、引き千切られた髪の毛も、折れた歯も何も見えない。襲ってくる痛みだけがそこにある。激痛苦痛だけが。焼かれた痛み、鋭い痛み、鈍い痛み、切られた痛み、刺された痛み。気持ち悪い苦しみ、口や全身から何か漏れ出している。

 見えない恐怖から一方的に攻撃され、久遠とも思える永い時間の中、耐えさせられている。

 いつまで続くのか? 分からない。本当に時間が流れているのか疑問だ。精神は限界値を既に超えているのに終わってくれない。何故こんな目に遭うのか? それすらも分からない。ここは何処? 自分は?

 分かるのは痛みだけ。世界にあるのは苦痛だけ。

 無色透明な世界、悠久ぼっち、あるのは痛覚だけ。

 逃げることも消えることも許されない。

 麻痺も無い。助けも無い。地獄のように永遠と続きそうだ。

 拷問の時間はまだ始まったばかり。

 

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