第ニ章 長い階段に似た悪夢

〈 1 〉

『空に浮かびながら、私たちを見下ろすあの白い太陽。

 無限に思える長い階段をひたすら登ってもあれには永遠に届かない。

 不可能と知ってやめられるほど器用ではないから、諦めて降りることも出来ずに、命尽きるまで登り続けようとする自分がいる。

 自分で自分を傷付ける。この夢のような現実も悪夢と呼ぶのだろうか?』


〈 1 〉


 黒色の空。

 悲しいほど汚れて濁った空では、遠い彼方から時間をかけて発せられた光は地上にいる僕には届くことなくかき消されてしまう。

 無くなったわけではないのに見えない星の姿を探しても一向に見つからない。闇の空には月だけが寂しく浮かんでいた。

 金色の光。

 どの時間でも夜の街から電気の灯りが消えることはなかった。等間隔で光るそれは、弱々しくも巨大な闇に抵抗しているように。


 これらは昨日の夜の、今から数時間前の過去の記憶。

 今では空が脱色されていくように、少しずつ白みが掛かっていく。

 ゆったりとした長い時間の中では、短い瞬間が連続して流れている。意識しなければ、勢力図が塗り替えられていることにも気付かない。

 不完全な白と黒、混ざり合う部分と、嫌い合う部分。黒からねずみ色へ、それから白へと変化していく。太陽がうっすらと顔を出し、僕がいるこの世界は、ゆっくり青い空が顔を覗かせる。窓から神秘的な瞬間の変化を感じていた。


――夏の朝が始まる。


 朝の産声の代わりを小鳥がさえずりで知らせる。昼行性の生きとし生けるものが、目を覚まし活動を始める時間帯。外はまだ微かに薄暗いが、昨日から電灯は常に切らしていないので部屋の明るさは十分じゅうぶんにある。

 外と部屋をけるようで分けられない締め切った窓。

 暖房のタイマーが切れたことでうるさい音が消えた。負けていた風鈴が、窓をすり抜け暖かい空気を伝って涼しい金属音を部屋に響かせる。小さく揺れる風鈴のおかげで風の存在にも気づく。ベランダで育てているアサガオは2つほど花開いていた。

 でも、始まりの朝に「おはよう」と素直に言えない複雑で濁った空のような心境があって、闇が消えても喜べずにいる。

――あの夢のせいで。

 一睡もせずに朝を迎えた。

 自己防衛のための逃げの一手。

 眠らないために自分で謎を問いかけ自分で答えを出す。答えは正解でなくて良い。とりあえず自分の中で決着できればいいのだ。昨夜から考えていたのは、

『1を3で割る場合』だ。

 珍しいことではなくそこら辺に転がっていそうな簡単な問題。でも、考え込むと複雑な難問。永遠の謎を、ただ不思議に思いながら夜を明かした。

『3分の1=0.333333333……』

 3分の1に3を掛けると1になるのに、0.33は1にはならない。限りなく近い1にはなるが、1には永遠に届かない。このときの0.000……1はどこに行ったのだろう? 誰かが奪ったのだろうか?

『0.1泥棒』

 数学の不思議。何処かに消えた0.1の事を考えていたら昔のことを思い出した。三人兄弟である僕の家で小さい時に仲良く分けていたケーキでさえも、今思えば得をする者がいて誰かが損をしていたのだろう。

 誰もが知らないうちに泥棒という加害者になっていることになる。僕も知らない内に誰かの大切な何かを奪っているのかもしれない。

『逃げ犬根性』

 謎は解けないとモヤモヤ感が残るためかスッキリしない。答えが出せない謎。自分で考えたことなのに、謎解きは好きなはずなのに、解けない謎に直面すると逃げた出したくなってしまう。

 いつからこうなったのか。答えが出せないものは後回しにして分かるものから解いていく。誰かに聞くこともするわけではない。授業の問題とは違うので誰彼だれかれ構わず聞けやしない。本などで調べてみるが都合良く解決が出てくるわけでもなく、分からないまま放置して迷宮入りし、頭の片隅から追いやられる。

 そして新しい謎を求める。


 今日の朝は、いつもと比べて最悪だった。負けたことではなく、強い敵から簡単に逃げ出してしまった喪失感。逃げてしまえば得られることはなく消えていくだけ。大切な何かを失った気分になる。

 眠れない辛さと、そしてこれから起こるであろう悪夢の恐怖が混ざり合い、気分を最悪なものへとさせている。


 瞼が重くなってきた。寝ていなかった反動が今になって訪れたのだ。

――もう眠い。

 足を引っ張られて闇の中に引きりこまれそうな思いがしても、僕はそれに抗う手段も力もない。少しでも夢から逃げようとしてもこの有様だから。


 今日は夢を見ませんように。

――もう願うしかないが、

「あああ、嫌だッ」

 僕は黒い悪魔からのがれられない。今日も。

 

 夢から逃げるために、その為だけに考え事をしているのに、数時間だけの逃亡時間を稼いだだけで、結局は同じことだった。

 先延ばしが精一杯だった。ゆっくり休みたいが、それほどに夢を見る恐怖に怯えている。


 悪夢を見たくないためだけの自己防衛手段は、寝ないでおくことしかない。簡単なことで、眠らなければ夢は見ない。

 しかし、それは単純なことではない。眠ることは体のバランスを保つ為の必要不可欠な癒しの時間だからだ。眠らない人間なんて存在しない。

 この手段はただの逃げだった。

 近づく恐怖。

――すること全てが無駄なのだろうか?


 怯えている自分が嫌だった。嵌った罠を解除するのではなく、ただの時間稼ぎにしか出来ずに何の解決も見出せないまま引き伸ばしをする自分が。それでも無我夢中で時間稼ぎをして、耐えきれなくなって今を迎え怯えている自分が。


 嫌でも現実での意識が薄れていく。紙に書かれた文字がぼんやり消えていくように。それは透明で見えなくなるのではなく、黒く染められていくからだった。

 インクに染められていくように。

 白くはっきりとした意識は徐々に黒く侵食されていく、塗り潰されていく。

 現実の意識は、強制的に別意識へと移り変わる。


 冷たい風。冷たい視線。冷えた全身。

 それはココが最悪な場所だから。


 まただ。やっぱり僕は悪夢を見ている。

 また、あの子が僕に姿を見せた。僕が知っている女の子に似ている子。当時のあの制服姿で。

 頭部が真っ暗闇のように黒く染まっているために、面識のある少女だと断言出来ないが、薄々と理解していた。認めるのが怖かった。中学の時の後輩だったおの女の子だということを。

 その子はうずくまって泣いていた。僕を確認するまでは。


 僕はあの時見てしまった。

 あの瞬間を。

 一階の窓から見てしまった。

 その子が落ちていく瞬間を。絶命するその時を。真っ赤に染まったあの惨劇を。夕日と同じように窓や壁を染めた黒い紅色の液体も、潰れて消えてしまったように見えた頭部も。

 その日僕は呼び出した。もちろんその後輩の女の子を。

 でもそれは、クラスメイトに頼まれて指定された教室に呼び出しただけで、そこから何も知らない。関係ない。その後に何があって、ああなってしまったのかなんて僕には全く責任がない。

 教室に呼んだだけ、呼んだだけ、ただそれだけなのに、それなのに何故、僕はこれほどまでに恨まれているのだろう?

 だけど、それで、それが原因で飛び降りたのだとしたら……、

「ははははは」

 狂ってしまったように笑い声が止まらない。

「はははははは――」

 ない。

 ない。絶対ない。それは有り得ない。

 だって僕は悪くない。悪くないんだ。絶対に、間違いなく、間違いない。お使いのように頼まれたから呼び出しただけなのだから。

 だから……、助けて、助けて……ください。


「また私を殺すの? 前原先輩?」


 

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