夢①

 鋭利な何かが背中に当たるたびに走る速度を上げた。上げざるをえなかった。


 暴力的な日差しが長い時間降り注いだ昼間。

 その暑さを和らげようとするかの先程の数分間の夕立。雲と雲の隙間からしか見えない、消えてしまいそうな太陽。

 静かに流れる風が、木々に被った雨雫を道に落としている。


 昼から夕へ変わり、夜が少しずつ始まりだそうとした時間でも、雨休憩を終えた蝉が精力的に鳴き始める。

 暑さが残る中、五月蝿い蝉の声も耳に入らないのか、気にしていられないのか、一人の男が、舗装されていない泥濘ぬかるんだ山の小道を一心不乱に走っていた。


 薄暗くなっていた。

 雨がやんでも曇り空は太陽を隠したままで、いつもの時間帯よりかは暗い。

 まだ肉眼でも対応できる明るさではあるが、暗くなりだすと急激に辺りは闇に染まる。そうなった時に男には前を照らすものを持ってはいなかった。

 残された時間は少ない。そうなる前にこの山から抜け出せなくてはならない。

 しかし、男には暗くなるからといった考えはない。ひたすら何かから逃げている。その何かから逃れるために山を下に向かって走り続けている。


 男の荷物は背中に背負ったリュックサックだけ。その中身は財布と下着とシャツと飲みきったペットボトルのみ。

 軽い荷物な理由は向かうペンションに大抵なものが揃っていると聞かされたために自分で用意する必要がなかったからだ。

 そして、明るいうちに余裕を持って目的地のペンションにつく予定であった。懐中電灯も食料も必要ない。一泊だけならこの服でも我慢さえすればなんとかなる。懐中電灯の必要性など考えたことも無かった。

 夜もそれなりに明るい街に住んでいる人間は、それが当たり前のように思えてしまう。

 真っ暗な場所の恐怖を知らない。暗闇の山中を知らない。そして今は、歩く時間的余裕がない。

 だが、今は真逆。向かっている先にペンションはない。来た道を引き返している最中だった。


 男は前に進むために必死だった。

 一歩でも、数センチでも前へ進むために。

 速く、速く動かし、早く早く、ここから去りたい。

 地面を蹴った反動で体を移動させるために、両足は回転を続けている。両手は足の補助のために、胴を前に突き動かすために、交互に素早い振り子運動を続けている。

 目は正面だけを捉えるだけ、脳は余計なものを排除し、限界という感情を否定し続ける。前に速く走るためだけの命令を送る。肺や心臓は速度を増しながら、酸素と血液を全身に送り続ける。


 ゆったりとした下り坂を異常な興奮状態で、男はハイペースを維持しながら走り続ける。

 だが、やがて体は悲鳴を上げる。

 それは越えてはいけない境界線のすぐ間近を知らせる警告。

 体温の異常な上昇。血が沸騰するような全身に回らなくなる感覚。

 口からも皮膚からも酸素を取り込もうとしても、隅々まで運ばれない。

 足が棒のように硬くなり曲がるのを拒む。

 腹部に穴が空くような激痛。

 手は重く、お腹に手を当てるのも精一杯。

 景色が歪む。体力の限界。未体験の激痛。

 速度が落ちても立ち止まれない。それだけは絶対に出来ない。

 

 人が全速力で走れる距離なんて数十メートルでしかない。距離が長くなるになるにつれ速度を落とさないといけないのは誰でも知るところ。ましては普段から過酷な訓練を受けていないのであれば限界はすぐやってくる。

 完全な暴走。

 だが、防衛本能、生存本能が起こすのだから仕方がない。

 旧哺乳類脳が発する恐怖。そこに冷静な判断力は消えてしまう。生命の危機に直面してしまえば、本能の前に理性は無いに等しい。

 限界を迎えながらも必死に逃げる。

 それを邪魔するかのように向かっては通り過ぎる風。立ちはだかる空気の壁。体重を増す圧力。

 それは笑っているように聞こえる。重たく感じる。攻撃的で嫌味で邪魔な笑い声。


「しねよ」ふふふふふ。「しね」

ぶぶぶ「けらけらけら」さようなら。


(死んでたまるか)

 迷わず左手の腕時計を外して放り投げた。背負っていたリュックサックを肩から外して捨てた。

 着ていた上着も脱ごうとしたが、汗でべっとり張り付いていたのですぐに諦めた。かけていた眼鏡は流石に外せない。だが揺れて邪魔する。

 

 立ち止まる時間が惜しい。止まることが怖い。

 下半身のズボンも下着も靴下も靴も、脱げない上着も全てが邪魔に思えた。動きを邪魔するものが苛立たしかった。

 少し軽くなっても限界が来ていることが遠のくわけではない。

 

 白い刃に切られた自分とその光景。 


 もうすでに体験している。走れなくなり歩くのも必死な状況に陥っても前に進まなくてはならない現実。止まれば殺される。マラソン競技や子供の鬼ごっことは違うのだ。命がかかっている。止まれば確実に殺される。


 追いかけられる恐怖。背中と首に手を当てられた圧力。

 吐き気、目眩、激痛。シニタクナイ。

 横と後ろで聞こえる吐息。風。笑い声。鋭利なそれ。


 無理無理。無理無理無理無理無理無理、無駄?

 無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理。死ぬのはイヤだ。

 もうこれ以上は……、歩くことも……。

 

 自分自身の諦めろと死にたくないの両方の感情。

 

 もう歩けない。そんな時、邪魔する向かい風が追い風に変わった。進むのが楽になった代わりに威圧感が増した。

 風にもてあそばれて、何かに背中を刺され、否応いやおうがなく進まされる。首筋から流れ落ちた赤く濁った液体が、背中からの恐怖が男を動かす。

 

 風が止まらせない。笑い声が止まらせない。何かが後ろから追いかけてくる。

 自分が自分自身を止まらせてくれない。


 

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