第12話 舜雨、孝について考える
館を出ると、多少気配の位置が変わる。
こちらの気配に気づいたのか。
樹冠の隙間から落ちる木漏れ日が動く。白く輝く石畳の上に、透明な影が一瞬見えた。
大きさからして、子どもか、女だ。
俺は影が向かった方向を見た。
巨大な壁の向こうは、内朝になる。そこは本来、女官か宦官以外は入れないはずだ。
内通者、あるいは内朝の人間なのか。それとも、警備をものともしない偵察者か。
後を追おうとした、その時だった。
「っ……」
そこには、直よりずっと幼い見た目の男子が蹲っていた。文官が着る衫ではなく、動きやすく腋の開いた衫を着ている。だが、華奢すぎて武官には見えない。
――宦官か。
本来の武官であれば、目的を果たすために見なかったことにするだろう。
「大丈夫か」
気づけば、体が勝手に向かっていた。
やはり俺は、武官には向いていないと、つくづく思う。
俺の気配に気づいたのか、顔を青くして彼はこちらを見た。
「大丈夫ですっ!」
矢のように鋭い声が聞こえた。
声変わりの前のように聞こえるそれは、しかし晨星のような軽やかな声とは異なる。
浅黒い肌の俺とは違い、青白い額に汗が滲む。北方か、西域の血を引くのだろうか。髪の色も肌も、昼間に浮かぶ月のように白い。過呼吸を引き起こしているように見えた。
まだ宦官になって、日の浅そうな少年。蹲って、顔を青ざめる理由。
頭の中である可能性が生まれた。
俺は着ていた上衣を脱いで被せる。
「……へ?」
驚いたように、少年がこちらを向いた。
「汚してもらって構わないから、必要なら雑巾代わりに使ってくれ」
俺の言葉に、少年は赤色の目を瞬かせた。
そして、顔を真っ赤にして叫んだ。
「……ち、違います!」
上衣を突き返された。
「失礼します!」と言われ、彼は全力で走って行った。いい走りだ。
俺は彼のいた場所と、突き返された上衣を見る。濡れた形跡も、臭いもない。
宦官は竿を切り落とすこともあるため、人より催しやすいと聞いたことがあった。その上、失禁すれば罰もあると言う。
そのことが頭にあったからつい動いてしまったが、いらぬ恥をかかせてしまったようだ。
宦官。
かつては宮刑によってその身を落とすものだったが、今では流民や貧しい者が、生計を立てるために行うようになった。
四書五経の孝の教えにそむく、「親から与えられた体を傷つけ」「子を作ることもない」彼ら。科挙ではなく、自分の身を差し出すことで皇帝に侍る宦官は、女官からも官吏からも蔑まれる存在だ。
徳目の中でも孝が一番尊重されるこの国では、血族に逆らうこと、血族を絶やすことを蛇蝎のごとく憎んでいる。
高貴な身分と呼ばれる者たちは、宦官がいなければ、自分の生活すら出来ないというのに。
『初代皇帝を暗殺し、兄弟を殺した』
――孝で思い出すのは、直に関する流言だ。
孝は、師父も晨星も、皇帝である直ですら縛る。
嫌悪の感情が込上がってきた。だが、ここで俺が嫌悪しても、何も変わらない。
気配は完全に追えなくなった。俺は壁の前で踵を返した。
「あ、戻ってきた」
直は杜秘書少監と晨星と話し終えたのか、死角になる書棚の裏へ帰っていた。
晨星はまだ、杜秘書少監から授業を受けているようだ。
「すまん、見失った」
「いいよ。こっちに害がなければ」
直の手元には、紙がある。その手蹟を見て、晨星が書いたものだとすぐにわかった。
「いやあ、変わらないねえ、晨星の手蹟。このハネとか払いとか、実に晨星らしいよ」
くすくす笑いながら、直は言う。
「ところで、舜雨は何か書かないのかい? 昔は奇想天外な話を沢山してくれたけど」
「……人に見せられるようなものじゃない」
晨星の描く物語には起伏がある。対して俺の描く物語は、どうしてもその日あったことを羅列する、平坦でつまらないものだ。
晨星から、『私の誕生日は舜雨くんの書いた小説見せてね!』とせがまれ、正月とは別にある「生月日」に贈っていたが、よく考えたら拙いものだっただろう。それなのに、晨星は文句を言うどころか涙しながら喜んでいた。
俺がそう言うと、「それ、お世辞の反応じゃないと思うよ」と直に言われた。そうなのか。晨星の考える話の方が面白いと思うのだが。
「舜雨のソレ、いつか読みたいなー。というか、小説を図書に入れたいと思っててさ」
いや、実はね? と、内緒話をするかのように、直は声を潜めた。
「晨星が書いた小説を複製してもらおうかと思ってるんだけど、晨星がね、面白いことを言ってさ」
「面白いこと?」
「うん。一文字の印章を作って組み合わせて、頁を作るんだって。それで大量に刷ればいいって言ったんだよね。『活版印刷』って言ってたな」
「……それは」
今まで思いつきそうで、思いつかなかった発想だ。
人の手で書き写すには、その時その時で文字が変わっていく。だが、その方法であれば文字が変わることなく、一気に写すことが出来るだろう。
問題点を挙げるとするなら、この国の文字は一万以上あることだ。
「国家で動かなくてはならないな、それは」
「そ。これから杜秘書少監には、その事業の責任者になってもらわないとね」
その言葉を聞いて、俺は杜秘書少監の言葉を思い出した。
『死ぬ気で詩を覚えても、状元で突破しても、後見人がいなければ、政治に関係の無いこの部署に配属されるだけだ』
以前、秘書省は、主に歴史を記すことと暦の制作、その複製を行う仕事であったが、前者は仕事は初代皇帝が別の部署へ移してしまった。
手書きの複製であれば、他の部署の人間にも出来る。そのため、秘書省はほとんどやることが無い窓際部署となっていたのだが――秘書省が活版印刷を行うとなれば、話は変わってくる。全ての部署が、大量に書類を複製できる秘書省なしでは動かなくなるのだ。
「……もしかして、その為に杜秘書少監を晨星と会わせたのか?」
「まさかぁ。私が思いついていたら、とっくに私主導でやってたさ」
そう言って、直は寂しそうに笑った。
「……君たちと違ってね、私には創作する感性がないのだよ。
碁を打つように計画を立てることは出来ても、君たちのような夢を描くことが出来ない。――能臣にはなれても、皇帝にはとても向いていないのさ」
つまらない人間だよ、と直は言う。
俺は思わず、目を瞬かせた。
「……お前ほど面白い人間はいないと思うが」
「あはは」笑いながら、直は言った。「そんなこと言うの、この世で二人だけだね」
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