第11話 舜雨、晨星の様子を見る
「晨星どのは、アレだな」
杜秘書少監は、実に言いづらそうに告げた。
「その、字が男らし……飛び跳ねがハッキリしているな」
「ハッキリ言っていいんだよ、『下手』って」
ここからだと後ろ姿しか見えないが、恐らく今、彼女は複雑な表情をしているのだろう。
晨星の字は、決して汚いわけではない。だが、優雅さとは少々掛け離れている。そして何故か、
師父は書をたしなんでいたので、なんとか他の字も書けるよう手ほどきをしていたが、晨星はそもそも書に興味が持てなかったようだ。
「勇義さんの字、読みやすくて助かる~。弘文館の資料、達筆すぎて全然分からないものもあるし」
「書を修めるのも、貴族の教養の一つじゃなかったか……?」
四書五経を読めるのに何故…と、遠い目をする杜秘書少監。
科挙では、字の上手さも求められる。以前見た杜秘書少監の楷書は、華美なところがなく、それでいて均衡の取れた読みやすい字だった。
恐らく、これから彼の文字が楷書の手本になるのだろう。
「まあ、読めなくはないが……内容は面白いのに勿体ないな……」
「面白い!?」
晨星が喜びのまま詰め寄ったのがわかる。その勢いに押されて、「あ、ああ」と杜秘書少監は一歩後ろに下がった。
「歴史に関する解釈が独特で、登場人物たちの返しも面白い。伝聞系ではなく、今まさに聞こえてきそうな会話だ。
韻文ではなく自由に、端的にわかりやすく描写しているのもいいな。形式ばかりこだわってゴテゴテ修飾する詩より、俺はこっちの方が好きだ。
何より、飲水の確保や、農作に関すること、物流や経済について、数学、自然科学……実用的なことも書かれている。詩文こそが正道だと言って、民の生活を良くしようともしない官吏に読ませてやりたい」
だが、と杜秘書少監は付け足した。
「なんで歴史上の人物の性別が女に変わってるんだ……!?」
「あまりに男ばっかりなのが耐えきれなくて……」
ああ、と俺は納得した。
昔、晨星から前世の物語を聞いたことがあるが、「私が暮らした国、偉人がもし女だったら? みたいな話が人気でさ……」と言っていたな。
「で、でも全員じゃないから! それにこれ、フィクションだし!」
「フィ……なんだ……?」
「創作! 小説って架空の出来事なの!」
四書五経とは違うの! と、晨星が詰め寄る。わかったから、と杜秘書少監がまた下がった。
「やってるねえ」
書棚の向こうから様子を見ていると、後ろから直が声をかけた。
「声掛けないの? もう堂々と姿見せていいよ?」
「邪魔になりそうなんでな」
俺がそう言うと、ふうん、と直は目を細める。
「勇義くん、なかなか頑固ではあるけど、打ち解けると面倒見いいからねえ。末っ子気質の晨星とは、相性がいいんだろうね」
ね、と直が覗き込む。
「妬いた?」
その問いに、俺は黙った。
妬いたか、と言われると、答えようがない。
晨星は別の男の手を取る。晨星の後宮入りの日に覚悟したはずだったのに、今更狼狽えるつもりは無い。
……ただ、ああやって彼女の『物語』を聞く相手は、俺ではないのだと思い知らされた。自分はこうも揺らぎやすい人間だったのかと、正直驚いている。
「もし君が嫌なら、二人を引き離すよ?」
「引き合わせたのはお前だろう」
さすがにそれは皇帝でもどうかと、という前に、「舜雨ならそう言うと思ったよ」と直が肩をすくめる。
それに別に、あの二人の交流を止めたいわけではない。
顔は見えなくても、声で楽しそうなのがよく分かる。
晨星の声は、俺の低く重い声とは違い、軽やかで高く、それでいて芯のある声だ。
家事をしながら、目まぐるしいほど速い歌を歌う時、彼女の声はより高いものに変わっていた。俺には絶対に真似出来ない声域に、同じ生き物とは思えないなと、何度か思ったことがある。
だが、それは師父の前で歌うことは無かった。
師父は晨星の『前世』を知っているし、疑ってもいない。なのにどうしてか、晨星は師父の前ではあまり歌や物語の話をしない。
そのことについて一度だけ、晨星が話してくれたことがあった。
『……私のせいだから』
平和だった世界の話なんて、楽しかったことなんて話せない。そう彼女は言った。
『本当は、誰にも打ち明けるつもりもなかったの。なのにどうしてか、キミには話してたんだよね』
――師父に取り押さえられ、役人に引き渡され、牢屋に閉じ込められていた時。
晨星は殺手の俺を恐れず、牢屋の中に入り、物語を俺に聞かせた。
そんな無防備に入ってきて怖くないのか、と尋ねると、怖く無いわけじゃないけど、キミが私を害する理由がない、と返ってきた。
キミほどの人なら、私を人質にとらなくても、ここから脱出できるでしょ?
俺より弱いその子どもは、そう言って俺の隣に座った。
あの時俺は、ずいぶん肝が据わったか、あるいはただの無鉄砲かと思っていたが。
何でだろうね? と晨星は言った。
『話さないって自分で決めたくせに、こんな風に、誰かと同じ物語を共有したかった。一緒に「面白いね」って言いたくて、自分にはない感想を聞きたかった』
『物語』を知った今なら、彼女の気持ちが分かる。
彼女は飢えていたのだと。
相手が殺手であろうと、その恐怖すら越えられるほどに。
それが今じゃ、直と出会ったことがきっかけで、自分の好きな『物語』を話している。
彼女は師父を誰よりも慕っているが、同時に縛られてもいた。それは養父も同じことだ。相手を想って、自ら縛られることを選んだ。
晨星が後宮入りを決めたのは、ひとえに師父のためだった。
新たな皇帝の要請に答えれば、これ以上師父に肩身の狭い想いをさせなくて済む。
それを師父はわかっていたから、最後まで反対していた。――が、晨星は『このままだと行き遅れになるだけだし』とバッサリ断った。
師父は後宮が決して安全な場所で無いことを知っていたから、随分気を揉んだと思う。だが、晨星がああやって自分を出せるのであれば、少なくとも晨星が師父のために犠牲になったわけではない証左になるのではないか。
心からそう思うのに、やはり喉に小骨が引っかかったような気持ちになる。
そもそも、晨星を忘れる自分を想像すらしていなかったのだと、今更気づいた。
馬鹿だな、俺は。
口にしなかったのに、直が「馬鹿だよ君は」と口をとがらす。
「晨星が後宮入りを決めたのは、君のせいなのにさ」
「……どういうことだ?」
師父のためならわかるが、『俺のせい』?
だが尋ねても、直は何も言わなかった。
「私はとりあえず、あの二人のところに割り込むよ。問題ないね?」
確認を取られ、俺は頷く。そもそも俺の確認をとる必要は無い。
フラフラとした足取りで、かつ、見事に気配を消しながら書棚の隙間をくぐり抜ける。そのまま、「やあ! なんの話をしてるんだい?」と杜秘書少監の耳元で言った。
杜秘書少監が、声にならない悲鳴をあげる。
……何やかんや、杜秘書少監を気に入っているんだとわかった。
さて。
俺は辺りを見渡す。
さきほどから、視線を感じる。俺ではなく、直と晨星に向けたものだ。
これは、――女官嫌いの秘書少監が、妃候補と和やかに話すという珍しい光景を横目で見て仕事をしている――校書郎のものではない。
『前例のないことだから、誰かがちょっかいかけるかも』
直の言葉と、最近彼らを偵察する何者かを思い出す。
攻撃しない限り、放置した方がいいか。それとも、そろそろせめて誰の手先かを探るべきか。
俺の視線に気づいたのか、直がこちらを一瞬見遣る。
その視線の先には、俺以外の護衛の気配があった。――どうやら、俺がここを離れても問題ないようだ。
「へえ、面白いじゃない。他の人にも読ませたら?」
「し、しかし……史実だと勘違いする者も現れるのでは……」
「え! フィクションとリアルをごっちゃにして生きるの楽しいじゃん!!」
「それはだいぶ危険思想だね、晨星」
楽しそうな声に後ろ髪を少し引かれながらも、口元が緩むのがわかる。
嬉しいのか、寂しいのか、嫉妬しているのか。人の感情は、複雑だ。
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