第4話 舜雨、夜光の杯で美酒を飲む

 ほとんどの者が入ることを許されないと言われる、白玥はくげつ宮の内朝。その敷地の大半は、巨大な池が占めていたことを初めて知る。

 もはや湖と言って差支えのない。この宮殿の由来である白玥池は、太白の仙女が聖帝に月の真珠を与えたと言われている。


 白玥池の中央には島があった。

 そこに繋がる長い橋の傍には、金糸雀色の灯が、まるで蓮の花のように水面に浮かんでいる。


 その灯りを頼りに橋を渡ると、まるで「早く来ないと池に落とすぞ」と言わんばかりに、不定期に軋む音がした。

 島に到着すると、水辺のすぐそばに亭があった。八方が壁で覆われていない開放的な建物は、四季のうつろいを眺めながら楽しむためのものだろう。


 そこに、男が座っていた。


「……俺のような一介の下級武官が、まさか内朝に入れるなんてな」


 俺がそう言うと、その男は席を立ってこちらを振り向いた。

 皇帝直属の羽林に配属されたのは、晨星が後宮に入った影響なのか、と思っていたが、どうやらもっと明快な理由だったらしい。

 俺を直々に指名した皇帝は、俺の友人と同じ顔をしていた。


「やあ、舜雨しゅんう。私の晩酌に付き合ってくれないかい?」


 久しぶりに会った友人は、とても愉しそうに笑っていた。





 皇帝陛下から直々に酒を注いでもらうなど、恐らく、「不敬」と言われることだろう。

 だが、咎める者はここにはいなかった。直は嬉しそうに俺に酒を注ぐ。俺もまた、彼の杯に酒を注いだ。


 白玉で出来た杯はなめらかな触り心地で、かざすと月の光で満ちて美しい。白玉は脆く傷がつきやすいので、落として壊さないように気をつけながら口をつける。

 酒は葡萄酒だった。つまみは塩味のする乳を固めたもののようで、濃厚な酒とよくあった。


「私、結婚する気ないからね」


 直の言葉に、俺は思わずかたまる。

 誰に、と聞くまでもなかった。彼は俺の心の内をよく知るものであり、俺と晨星の関係を誰よりも知る人間だ。


「何なら今すぐ家に帰してもいいし、君が会いに行ってもいい。とりあえず私の護衛として雇ったけど、妃候補付きの武官として任命するし」

「そんなことが出来るのか」


 後宮は男子禁制だと聞いている。宦官以外は、立ち入れないものとばかり思っていた。


「そもそも、私は誰も妃に迎えるつもりはない。晨星を呼んだのは、思わぬハプニングが起きたからだよ」

「ハプニング?」


 ダン! と、直は杯を叩きつけた。

 


「なんで君たち結婚してないの⁉」



 そう叫ぶ直に、俺は目を丸くする。


「結婚していると思ったから指名したのに!

『あー結婚してるなら無理だね、代わりに宮官として働く気ない?』って誘うつもりだったのに!」


 宮官とは、宮廷の職務に務める女官のことだ。一般的には未婚者によって構成されるが、専門的な知識や技術があれば、既婚者でも呼び止められることはある。だが。


「……晨星に、後宮は向いてないんじゃないか」


 これは、晨星が優れていないという意味では無い。

 後宮は、身分や格差が必ず存在する場所だ。それは、晨星の性質に合わないだろう。

 いつだって彼女が語る物語は、人は対等であることが根底にあった。

 

「出来上がった身分や礼儀に従うより、自分が想像したものを作り上げる人間だと思う」


 俺がそう言うと、ふふーん、と直が面白そうに言う。


「さすが舜雨。彼女のこと、わかってるじゃないか」


 なぜか自分が褒められたかのように笑う。だが、その得意げな気持ちも、わからなくはなかった。自分の好きな人間が評価されたり、理解されることは、自分のことのように嬉しい。


「そうだね。彼女に後宮はもったいない。もっとしかるべき場所で暴れるべきだ」


 暴れる、か。

 ……ああ、そう言えば。

 

「この間爆発を起こしていたな」

「なに急に?」


「爆発?」と呟いた直の目は、キラキラ輝いていた。


「料理をしようとしたら、粉に火がついて爆発した」


『粉塵爆発……まさかラノベで知ったことを自分がやらかすとか……そういうの戦闘シーンでカッコよくキメるやつじゃないの……』と、呟いていたのを思い出す。

 晨星が引き起こした爆発の話を終えて、話題はお互いの近況に移る。俺は直がいなかった四年間を、直は宮廷で起きた出来事を話した。

 どれほど経っただろうか。

 突然、機嫌よく笑っていた直が声を荒げた。

 


「いや話逸れてる‼」



 直の感情は、山の天気のようによく変わる。見ていて飽きない。

 以前そう言うと、「君は思考がよく飛躍するだよ!」と突っ込まれた。その時初めて、そうなのか、と俺は思った。師父も晨星も、そんなことは一度も言わなかったからだ。


「好きなら押しなよって言ってんの! なんなら既成事実作る勢いで! 少し強引な方が婦人にはウケがいいよ!?」

「そうなのか」


 確かに、街で仕事を受ける時、年頃の少女がそのようなことを言っていた気もする。

 人間は支配を拒みつつ、どこかで支配されたいと依存する生き物だ。階級や身分問わず、そう言った人間を何人も見てきた。しかし。


「晨星は、支配されたり、強引なことを好む人間ではないだろう」


 俺がそう言うと、ガク、と直が肩を落とす。


「……なんか昔、君の性格のことで、似たような口振りで返されたよ、晨星に」


 晨星は俺に対して何を言ったのか。気になったが、明かしていいことなら直が自分から言うことだろう。

 俺がこうして直と秘密を共有するように、晨星と直の間にも秘密を共有していてもおかしくはない。


「それに俺は一度、晨星を殺しかけたからな」

「……は?」


 直が目を剥く。


「何で? いや、初耳なんだけど。どういう状況?」

「ああ、言ってなかったか。晨星と初めて出会った時、俺は彼女を殺しかけている」

「初めて聞いたんだけど!?」


 その話詳しく!! と問い詰められ、俺は、「そんな大して面白い話ではないのだが」と切り出した。


 あれは俺が十四歳の頃であり、晨星が十の頃である。

 俺は殺手だった。依頼を受け、金を貰い、人を殺す生活をしていた。

 ある時、昕文昇と対決することになり、その後、色々あって俺は晨星に刃を向けた。


「色々って何!? 晨星を殺しかけた動機が見えないんだけど!?」

「すまない、あまり深くは話せられないんだ」


 俺がそう言うと、「まあそうだよね」とあっさり直は受け入れた。


「元とは言え、暗殺者が過去の依頼をペラペラ話すわけにはいかないだろうし」


 しかし、と直は含みのある笑みを浮かべる。


「あの昕文昇とやり合っていたとはね」

「すぐに封じ込められたがな」


 俺のような殺手と、比べるのもおこがましい。

 師父は元々陪に仕えていたが、部下を守るために灌に降伏した。しかし初代皇帝に気に入られ、皇帝の護衛にまで上り詰めた。


 たった一人で数多の敵と対峙しながら、かすり傷一つも負わなかった伝説の武神だ。


「君も十分伝説さ。『藍狼』」


 俺が殺手であったこと、そして『藍狼』であったことを、彼は知っていたらしい。


「……初代から聞いていたのか?」

「ちょっとだけね」


 突っ伏した状態で、直は白玉の杯の縁をなぞりながら言う。


「初代は陪や兄弟を殺すための精鋭組織を持っていた。ただ一人、初代に忠誠を誓うのではなく、独立して仕事を請け負う殺手がいた。それが君だろ」


 俺は杯を机の上に置いた。


「晨星を後宮に呼んだのは、俺と師父を自分の手駒にするためか?」


 俺がそう言うと、杯をいじっていた直が固まる。

 水の音と、草が擦れる音が耳についた。

 身体を起こし、真摯に直は謝罪を口にした。


「……ごめん。そういうつもりで言ったわけじゃないんだ」

「知ってる」


 からかっただけだ。

 俺がそう言うと、直はわかりやすくホッとした。


「君のその顔で冗談とかからかいとかやると、マジに見えるからやめてよー……」

「そうだな」


 俺はどちらかと言えば強面らしく、喜怒哀楽が表情に出にくいらしい。人によっては、怖いと思われる顔なのだろう。

 俺には、力もある。体格にも恵まれた。

 一方、彼女は背丈があるが、とても細い。


 そんな俺が晨星に迫れば、彼女は恐怖するだろう。

 もう二度と、彼女を傷つけるようなことはしたくなかった。


「……もう少し、言葉と態度に出すのはダメ?」


 躊躇いがちに、直が言う。


「私から見て、君は我慢しすぎだよ。……お節介かもしれないけど」


 直の言葉に、俺は少し考える。


「ダメだな」

「ダメなのかー……」


 直の言葉に、ああ、と俺は返す。


「少しでもタガを外して、壊さないでいられる自信が無い」

 

 俺がそう言うと、「あ、……ふうん……」と、直がなぜか目を泳がせる。


「……淡々と言うくせに、いつも本気だから、本当に恐ろしいね。君は」


「私に言われたわけじゃないのに、口説かれた気分だよ」直の言葉に、そうか、と俺は答える。

 直の顔が若干赤いのは、きっと酒の飲みすぎだろう。俺も、言うつもりのないことを滑らした。


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