長男の嫁の宿命

春風秋雄

5時半には会社を出なければならないのに

「平野さん、あとは明日にして、そろそろ上がったらどうですか?」

時計を見ると、もうすぐ18時になろうとしていた。

「もうこんな時間ですか。大変だ!早く帰らなければ」

「あとは私がやっておくから、早く帰りなさい」

「ありがとうございます。じゃあ社長、お先に失礼します」

平野さんは後片付けもそこそこに、慌てて帰って行った。

平野佐和子さんは、4年前にご主人を亡くした後もご主人の実家で義両親と暮らしている。年金暮らしの義両親だが、義理のお母さんは家のことは何もせず、すべて佐和子さんに押し付けているようで、早く帰って夕飯の支度をしなければならないということで、いつも5時半には上がるようにしているのだが、今日は明日締め切りの仕事が思うように進んでいなかったので、仕事に没頭しているうちに時間を忘れたようだ。


俺の名前は峰岸裕樹(みねぎし ひろき)。44歳のバツイチ独身だ。出版の編集プロダクションの会社を経営している。近年は出版業界も不況で、出版社は自社の編集社員を減らして編プロに仕事を依頼する会社が増えてきた。かくいう私も、以前は大手出版社の社員として編集の仕事をしていたが、4年前に会社が人員削減の方針を打ち出したので、リストラされる前に独立したのだった。そして会社を立ち上げて初めて雇った社員が平野さんだった。平野さんは結婚してから家庭に入っていたが、ご主人がいなくなったことで、義両親と一人息子の将太君を養っていかなければならなくなり、働きに出ることにしたということだった。平野さんは結婚する前は出版社で編集の仕事をしていたということで、ブランクはあったがすぐに戦力になってくれた。今のところ社員は平野さんだけで、あとはひと通り編集が終ったあとに誤字等のチェックをする校正担当として学生アルバイトを短期で雇っている。

業績としては無茶苦茶儲かっているというほどではないが、それなりに利益はあげている。


平野さんはまだ38歳で、とても綺麗な人なのだが、子育てと家事に追われているからか、服装などの外見に気を使わない人だった。入社以来、俺は平野さんのことが密かに気になっていた。しかし、俺は過去に結婚に失敗している。また、自分の年を考えると、あえて再婚する必要はないと思っていたので、平野さんに対しては一緒に楽しく仕事ができれば十分だと思っている。


平野さんの息子さんの将太君が夏休みになり、平野さんは将太君のお昼の準備もしなければならなくなった。それは毎年のことだったが、小学5年生になった将太君は食べ盛りで、給食がない夏休みは食費も嵩むらしい。俺は今年は思い切って平野さんに、お昼は将太君を会社に呼んで、3人で近くの店に食べに行くことを提案した。

「夏休みは長いのですから、そんなことをしたら大変ですよ。」

平野さんは遠慮してそう言った。

「夏のボーナスをたくさん出してあげられなかったから、ボーナス代わりと思ってくれればいいですよ」

俺がそう言って説得すると、平野さんは嬉しそうに承諾した。

新しい依頼の編集が始まったばかりの今の時期は、校正担当のアルバイトはいないので、事務所は俺と平野さんだけだ。お客さんも来ることはほとんどないので、昼休憩になると事務所に鍵をかけて将太君と3人で外に出た。平野さんはいつも弁当を作って持ってきて昼食をとっているが、俺は外食をしている。このあたりの食べ物屋はひと通り知っているが、初日なので、行きつけの定食屋に二人を連れて行くことにした。

「将太君、好きなものを何でも頼めばいいよ」

俺がそう言うと将太君は嬉しそうにメニューを見た。将太君はオムライスを選んだ。

「オムライスでいいのか?もっと色々あるんだぞ?」

「オムライスが食べたい。だって、小さい頃に食べて以来食べてないんだもん」

俺は思わず佐和子さんを見た。

「義両親がオムライスは子供の食べ物だと言って食べないんです。主人がいたときは主人もオムライス好きだったので、義両親の分を別に作っていたのですが、私が働き出してからは将太だけ別の物にする時間がなくて、オムライスを作ってないのです」

佐和子さんはそう言い訳した。俺には子供がいなかったのでわからないが、普通祖父母は孫が可愛いので、孫の食べたい物を優先するものではないのか?まあ、その家によって主導権が誰にあるのかによって違うだろうが。とりあえず平野家では主導権は義父母にあるようだ。

「じゃあ、オジサンもオムライスにしようかな」

俺は将太君に合わせてオムライスを頼むことにして、皆で食べられるように単品で鶏の唐揚げも追加した。佐和子さんも俺たちに合わせてオムライスを注文した。

久しぶりに食べるオムライスは美味しかった。最近ではオムライスの専門店が流行っているほど、大人でもオムライスは好きだ。佐和子さんの義両親は70歳前後だったと思うが、そうするとオムライスが子供の食べ物だと決めつける年代ではないと思うのだが、人には好き嫌いがあるので仕方ないというしかない。

「将太君は夏休みの間はお爺さんやお婆さんと過ごしているのかい?」

「お爺ちゃんとお婆ちゃんは、お昼を食べたらいつもどこかへ行っていないよ。夕方にならないと帰ってこない。だから友達と遊んでいる」

お爺さんとお婆さんは将太君をかまっているわけではないんだ。

「お義父さんとお義母さんはどこへ行っているのですか?」

俺が佐和子さんに聞くと、佐和子さんも初めて聞いたというふうに首を振った。


毎日の3人でのランチはことのほか楽しかった。俺は子供には縁がなかったが、将太君を見ていると子供は可愛いと思わずにはいられなかった。最初は知らないオジサンと一緒なので口数が少なかった将太君も、日を重ねる度に口数が多くなり、俺たちを笑わせてくれることも多くなった。別れた妻との間に子供が出来ていたら、違った結婚生活になっていたかもしれない。それよりなにより、俺は佐和子さんと一緒に食事をすることの喜びを感じていた。佐和子さんが入社して以来、忘年会以外で一緒に食事をしたことはなかった。忘年会は当然アルバイトのメンバーも一緒なので、会話を楽しむということはなく、尚且つ、遅くまでは付き合えないと言うことで、佐和子さんは一次会の途中で帰っていたので、一緒に食事を楽しんだという感覚はない。将太君と同じように佐和子さんも慣れてくると学生時代の話や、ご主人と出会う前は会社の同僚の女の子と毎週のようにクラブに踊りに行っていたという話を聞いた。お酒も結構好きらしく、毎週末は同僚と飲みに行ったあと、クラブへ行くというパターンだったらしい。仕事場では見せない顔を見せてくれて、俺はどんどん佐和子さんに惹かれていくのを自覚した。


夏休みが終わり、将太君を交えてのランチはなくなったが、アルバイトがいない時期は、度々佐和子さんをランチに誘った。佐和子さんは基本的に弁当を作ってくるので、ランチに誘う際は前日に誘わなければならない。当日のノリや流れで誘うのとは違い、前日に誘うと、まるでデートに誘っているようで俺は緊張した。それでも俺が誘うと佐和子さんは必ず笑顔で応じてくれた。

「いつもご馳走になって、ありがとうございます」

「定食屋のランチですから安いものですよ」

「それでもお弁当を作る手間が省けるので助かります」

「今度はお酒も飲めるように夕食に行きませんか?」

一瞬佐和子さんが警戒した目で俺を見た。慌てて俺はつけ加えた。

「もちろん将太君も一緒でいいですよ」

それを聞いて佐和子さんの顔が和らいだ。

「じゃあ、将太に聞いてみます」

「ええ。私はいつでも構いませんから」


佐和子さんが将太君に話したところ、行きたいと言っていると言うことだったので、休み前の金曜日に行くことにした。

将太君に何が食べたいか聞いてもらったところ、お寿司が食べたいということだったので、寿司屋さんに行くことにした。

「こんな高そうな店に連れて来てもらって良いのですか?回転寿司で充分でしたのに」

「将太君のリクエストなので、せっかくだから、ちゃんとしたところで食べさせてあげたいですからね」

聞くと将太君は回っていない寿司は初めてだということだった。

「回転寿司には良く行くのですか?」

「それも主人がいなくなってからは全然行ってないです。やはり外食は経済的に苦しくて」

確かに義両親と将太君を養っていくのは大変だろう。しかし、義両親は二人とも年金をもらっている。うちの給料だって、一般事務の女性とは比べものにならないくらいの額を渡している。たまに回転寿司に行くくらいは苦にならないと思うのだが。

「たまに回転寿司に行くくらいなら、それほどかからないでしょ?」

俺がそう聞くと、佐和子さんが黙り込んだ。それを聞いていた将太君が口をはさんだ。

「ママの給料は全部お婆ちゃんに渡しているから、ママはお金がないんだよ」

「本当ですか?」

俺が尋ねると佐和子さんは少し言いにくそうに

「実はそうなんです。でも、義母からお小遣いはもらっているので、それで行こうと思えば回転寿司くらいは行けるのかな」

と、最後の方は寂しそうな小さな声で言った。


平野親子とは月に1回は夕食を食べに行くことにした。将太君はそれを楽しみにしているようだった。

3回目の夕食は焼肉にした。将太君は焼肉屋さんで焼肉を食べるのは初めてだと言っていた。

食べ終わって時計を見ると9時だった。店を出て、俺は思い切って佐和子さんに言ってみた。

「将太君を家に送り届けてから、二人で飲みに行きませんか?」

佐和子さんは驚いたような顔で俺を見た。一瞬考えていたようだったが、意を決したように将太君に話しかけて了解をとりはじめた。将太君は全然気にしないようで、簡単に「いいよ」と返事をした。佐和子さんは将太君に家に帰ったら風呂に入って、歯磨きしてと、細かく指示している。将太君は面倒くさそうに「わかったよ」と返事をした。一通りのやり取りが終って、やっと佐和子さんは俺に「じゃあ、お願いします」と返事をしてくれた。


たまに行くバーに佐和子さんを連れて行った。お酒が好きだと言っていただけあって、佐和子さんは良く飲んだ。

「平野さんは、再婚は考えていないのですか?」

俺がそう質問すると、佐和子さんは黙り込んだ。

「やはり義両親のことが気になりますか?」

「社長さんはどうなんですか?再婚されないのですか?」

逆に佐和子さんが聞いてきた。

「私はこの年ですから、どうしても再婚したいとは思っていません。かといって、もう結婚は懲り懲りだとも思っていません。良い縁があれば考えれば良いと言う感じです」

佐和子さんは黙って聞いているだけだった。

「平野さんは、まだ亡くなったご主人のことを忘れられないのですか?」

「主人のことは今でも好きです。でも、いない人のことを思っても仕方ないとは思っています」

「じゃあ、将太君のためにも再婚という選択肢も考えていいのではないですか?」

「将太のためですか。それもあるのですけどね・・・」

佐和子さんは何か言いたそうだったが、その後は何も言わなかった。


翌月の夕食会の時も、食事のあと将太君を家まで送り、佐和子さんと二人で飲みに行った。その日の佐和子さんは前回よりもよく飲み、少し酔っていた。これ以上は飲ませられないなと思い、少し早いがバーを出ることにした。

バーを出たところで、佐和子さんが俺の顔を見ずに言った。

「峰岸さん、・・・」

佐和子さんが初めて俺のことを社長と呼ばず、名前で呼んだ。

「私、女として魅力ないですか?」

「とんでもない。平野さんはとても魅力的な女性です。こうやって一緒にいられることが、私は嬉しいです」

「でも、峰岸さんは全然私を女として扱ってくれないじゃないですか。確かに私には子供がいます。私を女として見る場合、そのことも考えると思います。身なりも着たきり雀で、全然色気のない恰好をしています。本当は私だって、もっと流行の服を買って、着飾ってみたいです。でも、そんな余裕はないのです。自分の服を買うお金があれば、将太に何か買ってあげたい、回転寿司くらい連れて行ってあげたい、そう思うんです」

「いやいや、私は将太君は可愛いと思っています。将太君と一緒にいると、こんな子供が欲しかったなと思います。だから、平野さんに子供がいるからと言って女性として見ないということはないです。それに平野さんの外見だって、流行の服ではないかもしれないですけど、ちゃんと自分に似合っているものをチョイスしているし、髪型も化粧も、控えめでも綺麗に整えていると思っています。その上で、平野さんは魅力がある女性だと思っています」

俺がそう言うと、佐和子さんは俺の顔を見た。そして思い切ったように言った。

「だったら、どうして私をホテルに連れていこうとしないのですか?」

「え、ホテルに?」

「私をホテルに連れて行ってください」

今日の佐和子さんは酔っている。しかし、その目は真剣だった。


ホテルの部屋に入り、先にシャワーを浴びた俺は、浴室から聞こえる佐和子さんが使っているシャワーの音を聞きながら、ベッドで考えていた。

今日の佐和子さんは異常だった。バーでも凄いペースで飲んでいた。最初から俺をホテルに誘うつもりで酒の勢いを借りようとしていたみたいだ。それは、前々から佐和子さんにはその気があったのに、俺がいつまで経ってもアクションを起こさないので、業を煮やしてということなのだろうか。それなら俺としては嬉しい限りだが、何か違うような気がしてならなかった。

佐和子さんがバスタオルを巻いたままの姿で浴室から出てきた。少し恥ずかしそうにしながら、バスタオルを外しベッドの中に入って来る。一瞬見えた佐和子さんの体は子供を産んだ38歳の体とはとても思えない美しさだった。ベッドに入って来た佐和子さんは俺に抱きついてきて、俺の耳元で言った。

「峰岸さん、私と結婚してください。そして、すぐにでもあの家から私を連れ出して下さい」

あの家から連れ出す?俺はその言葉が引っ掛かった。

「義両親とうまくいっていないのですか?」

急に佐和子さんが固まった。そして何も言わない。

「平野さん、ちゃんと教えてください。私に出来ることであれば、あなたの力になります。だから、説明してください」

佐和子さんは余計な事を言ったと後悔しているようだったが、しばらくしてから、ポツポツと説明し始めた。


ご主人の葬儀が終って、幼い将太君とまだ悲しみの中にいるときに、義母から話があると言われ、義両親の部屋に行くと、義母から「あなたは長男の嫁なのだから、私たちの面倒をみる義務がある」と言われたことから始まったそうだ。佐和子さんとしては、ご主人が亡くなって、頭の中が真っ白な状態で、これから住む家はどうしようと考えていたところだったので、この家にいて良いと言われたので、とりあえずホッとしたらしい。それから、義母が言うには、義両親の年金だけでは生活は困難であり、ましてや将太君の将来の学費などを考えたら佐和子さんが働いて稼がないと話にならないと言われた。もともと佐和子さんも働かなければいけないと思っていたので、それはよかったのだが、問題はお金の管理はすべて私がするので、毎月の給与明細を渡して、銀行のキャッシュカードを預けなさいと義母に言われたことだった。佐和子さんは自分が働いてもらったお金は自分で管理しますと言ったのだが、嫌なら今すぐここを出て行きなさいと言われた。葬儀が終ったあと、ご主人が残したお金はすべて義母が管理しており、佐和子さんはアパートを借りるお金もなく、実家の両親はすでに他界しており、実家には年の離れた兄家族が住んでいるので、とても実家に帰れる状況ではなかった。仕方なく義母の言う通りにしたのだが義母は最低限の食費しか佐和子さんに渡してくれず、将太君の服や学校で使う物に関しては義両親が一緒に買い物について行って買ってくれるといった形だったそうだ。それだけであれば、とりあえず最低限の生活は出来ているし、将太君にも贅沢はさせてあげられないけど不自由はない生活はさせてあげられているので我慢できたが、もともと義母とは結婚してからずっと反りが合わず、ご主人が健在のときは仲裁に入ってくれていたが、ご主人がいなくなってからは平気で嫁いびりをしてくるようになった。仕事で遅くなると夕飯が遅いと言われ、休みの日に少し遅めに起きると、いつまで寝ているのだと怒られ、義両親の物の洗濯や義両親の部屋の掃除まで命じられる。何か言おうとすると必ず「長男の嫁なのだから、あなたには私たちの面倒を見る義務がある」と言われたということだった。それでも好きだったご主人の家族だからと我慢して何年か過ごしたが、先日あることで大喧嘩をしたということだった。

「何があったんですか?」

「以前、将太が言っていたじゃないですか。義両親はお昼を食べるとどこかへ出かけて夕方まで帰ってこないって」

「そう言えば言っていましたね」

「毎日、近所の友達とパチンコに行っていたのです」

「パチンコ?」

「ええ。それで自分たちの年金は使い果たして、私が働いた給料までパチンコにつぎ込んでいたのです」

俺は絶句した。

「だから決めたんです。もうあの家は出ると。でも長男の嫁なので、義両親の面倒をみる義務があると言われて、だったら私が再婚すれば関係ないでしょ!と言ってやったんです」

そういうことだったのか。

「じゃあ、今ここにいるのは、私と再婚するためですか?」

佐和子さんは何と返事すれば良いのかわからないといった感じで、黙っていた。

「私のことが好きだからここに来たのではないのですね?」

やはり佐和子さんは返事をしない。

「私は一度結婚に失敗しています。離婚した理由は、妻がもともと私に愛情を持っていなかったということです。妻は30歳近くになっても結婚していないことを両親はもとより、周りから色々言われていたそうです。そんなときに私が交際を申し込んだものだから、この人でもいいかと思って結婚したそうです。でも、そんな結婚生活は続かないですよね。3年もすると家庭内別居です。会話すらありませんでした。そして、とうとう離婚しようということになったのです。私は同じ失敗を繰り返したくありません。私は平野さんのことが好きですし、出来たら結婚したいと思っていました。しかし、平野さんに私への愛情がないのであれば、結婚は考えられません」

俺がそう言うと、佐和子さんは悲壮な顔をした。

「でも、さっき言ったように、私は出来る限り平野さんの力になるつもりです」

佐和子さんがジッと俺の顔を見た。

「まず、平野さん親子が今の家を出て住むアパートは、会社で借り上げます。もちろん家賃は払ってもらいますが、初期費用はすべて会社が出して、会社名義で借り上げます」

佐和子さんが驚いたように何か言おうとしたが、その前に俺が言葉を続けた。

「それと、もともと平野さんに義両親の扶養義務はありません。法律上決められている扶養義務は直系血族と兄弟姉妹です。よほどの事情がある場合は姻族である平野さんでも家庭裁判所の決定で扶養義務が課せられる場合がありますが、確かご主人には弟さんがいたのですよね?」

「県外に住んでいますが、弟さんがいます」

「その弟さんがちゃんと働いている人であれば、平野さんに扶養義務が課せられることはないでしょう。それでも心配なら離婚することです」

「離婚?」

「ええ。配偶者が亡くなった後でも、役所に“姻族関係終了届”を出すことで、姻族との親族関係を終わらせることができます。つまり、ご主人の親族とは赤の他人になるということです」

「そんなことが出来るのですか?」

「出来るのです。誰かに承諾をとる必要はありません。平野さんの意思だけで届けは出せます。姻族との親族関係が終れば面倒を見るとか、そういう義務は一切なくなります」

佐和子さんは黙って考えているようだった。

「だから、気持ちがないのに、私と結婚する必要はないです。私は少しの間だけでも、裸で同じ布団に入っていられただけで充分ですから、もう出ましょうか」

俺はそう言ってベッドから出て、身支度をした。そして佐和子さんが身支度しやすいように、俺はしばらくトイレに籠ることにした。


それからの行動は早かった。佐和子さんと物件探しをして、将太君の学校に近いマンションを法人契約した。佐和子さんは“姻族関係終了届”を役所に提出し、会社の顧問弁護士に頼み、今後は親族ではない旨の内容証明郵便をご主人の実家に送付した。

佐和子さん親子が引っ越して、初めての夕食会は、回転寿司の方が堅苦しくなくていいと将太君が言うので、その日は回転寿司に行った。

「将太君、新しい住居はどうだい?」

「快適だよ。自分の部屋もあるので嬉しい」

「将太の勉強机まで買ってもらって、ありがとうございます」

「あれは引っ越し祝いですから」

佐和子さんにその気がないとしても、俺の方が何かしてあげたくて、将太君に勉強机を買ってあげたのだった。

寿司屋を出て、俺が佐和子さんを飲みに誘おうか迷っていると、佐和子さんの方から俺に声をかけてきた。

「峰岸さん、将太を送り届けたあと、飲みに行きましょう」

「いいんですか?」

「もちろんです」

佐和子さんは、今日も俺のことを社長と呼ばず、名前で呼んだ。

将太君をマンションに送り届けたあと俺が「いつものバーでいいですか?」と聞くと、佐和子さんはいたずらっぽく言った。

「飲むのはやめて、ホテルへ行きましょう」

驚いて佐和子さんを見ると、佐和子さんはさっき飲んだビールでほんのりと赤くなった顔で言葉を続けた。

「この前はあそこまで行って、峰岸さんを期待させたのに、何もせずに終わったので、今日はちゃんとしたいなと思って」

「でも・・・」

「今日は結婚してとは言いません。主人がいなくなって何年も女であることを忘れていました。でも、やっぱり私も女なんです。この前は結婚という目的があったのは確かですけど、裸でベッドに入って、峰岸さんに抱きついた時、とてもドキドキしました。こんな感覚、忘れていたなって思ったんです。結婚は置いといて、峰岸さんとそういう関係になりたいと思っているのは確かです。だから、ホテルへ行きましょう。そして、できたらそういう関係をしばらく続けて、私が峰岸さんと本当に結婚したいと思ったら、その時は改めてそう言います」

「私と結婚したいと思ってくれる可能性はありますか?」

「充分あると思います。少なくとも、将太は峰岸さんと結婚しろといつも言っています」

俺は思わず将太君の顔を思い浮かべ、自分の顔がほころぶのがわかった。

俺は優しく佐和子さんの背中に手をまわし、タクシーを拾うために歩き始めた。

まだ時間が早いからか、向こうから小学生と思われる男の子を連れた夫婦がこちらに向かって歩いて来る。両親はしっかりと両側から男の子の手を握っていた。

俺も近い将来、あの親子のように佐和子さんと将太君の3人で手を繋いで歩く日が来ると良いのだがと、思わずにいられなかった。



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