第2話【赤幘の破将、我が道を征く(1):孫文台の強ing My Way】


 初平元年正月、関東諸侯が一斉蜂起する。反董卓連合の成立である。この反董卓連合は図られた段階で3つのグループに分けられていたようだ。袁紹を中心とし、洛陽に情報源として何顒らを残す冀州グループ、曹操が参加した張邈ら兗州グループ、許靖が参謀についていた孔伷ら豫州グループである。彼らはそれぞれ州郡の軍権を背景に挙兵した。袁術はどれにも属していなかった。それはそうだ。袁術が洛陽を出たそもそもの始めは、荊州南方の異変に対処するためであったと考えられる。

 荊州南方の異変とは何か。長沙太守孫堅が荊州刺史王叡を殺し、兵を率いて北上していたのだ。事が生じた時の状況は三国志裴松之注呉録に詳しい。

 呉録曰く:荊州刺史王叡は先だってより長沙太守孫堅と共に零陵、桂陽の賊を撃っていたのだが,孫堅が武官であることを以て,その言で頗る之を軽んじた。王叡は兵を挙げて董卓を討とうと欲すると,素より武陵太守の曹寅と相能くせずしていたため,揚言して當に先ず曹寅を殺そうとした。曹寅は懼れ,案行使者である光祿大夫温毅の檄を詐(いつわ)り作(な)すと,孫堅に移し,王叡の罪過を説き,收めて刑を行わせ令め,訖(お)えてから,状を以て上げさせることとした。孫堅は即ち檄を承ると兵を勒して王叡を襲った。王叡は兵至ると聞き,樓に登って之を望み見ると,何を為そうと欲しているか遣わし問わせた,孫堅の前部(先鋒)は答えて曰く:「兵は久しく戦い労苦しているのに,得た所の賞は,衣服を為すにも足りないさま,使君を詣でて更めて資(報償)を直ちに乞おうというだけです。」王叡曰く:「刺史がどうして吝(けち)るで有ろうか?」便じて庫藏を開かせ,(彼ら)自らに入って之を視させ,遣わす所の有不を知らしめた。兵が進んで樓下に及ぶと,王叡は孫堅を見たため,驚いて曰く:「兵が自ら賞を求めているというのに,孫府君は何ぞ以て其中に在るのか?」孫堅曰く:「(案行)使者の君を誅せとの檄を被ったのよ。」王叡曰く:「我に何の罪が?」堅曰く:「坐無所知(何に坐したのかは知らん)。」王叡は窮迫し,金を刮って之を飲み而して死んだ。

 呉録は孫堅の都合に寄せて記述している部分を注意して読む必要がある。また、董卓について最初から大悪であったとの視点で記述されていることにも注意する必要がある。

 呉録の王叡が董卓を討とうと欲したのはそのとおりとすれば、関東諸侯の蜂起以前、董卓が少帝を廃して献帝を立てた永漢元年九月甲戌(9月1日)の報を聞いてであろう。王叡が孫堅に殺されると代わりの荊州刺史として劉表が派遣される。彼が官に到る(任地で任に就く)のは劉鎮南碑に拠れば永漢元年十一月である。とすれば王叡の殺害は少なくともそれより一月以上は遡ることになる。遥か桂陽の地で王叡が殺害され、その報告を朝廷が受け、代わりに劉表を派遣、その劉表が単馬で南郡宜城に入城(官に到る)までの時間を考えると十一月から少なくとも一月から二月は遡る。このように辿れば荊州刺史王叡が長沙太守孫堅に殺されたのは永漢元年九月半ばから十月初めにかけてだろうと推察される。

 「王叡が董卓を討とうと欲した」のがその通り、であるなら。

 そもそも王叡が殺害される遠因は武陵太守曹寅との不和がある。荊州七郡を総覧する荊州刺史の治所は武陵郡漢寿県にある。武陵郡の治所は臨沅県で、場所は異なるが、刺史の治所が自分の郡だと常に監視されているようなものでやり辛い。また、刺史としても自分の治所のある郡は嫌でも目に付くし、郡下の様々な人々の中で現太守に不満のある者は刺史に色々と吹き込むだろう。

 この中平六年に行われていた零陵、桂陽の賊を撃つ軍事行動で、刺史の王叡は長沙太守の孫堅と共に行動していた。零陵郡は王叡の治所のある武陵郡と孫堅が視事する長沙郡に接し、二郡の南にあり、桂陽は零陵と長沙に接しその南にある。呉録の記述からは、王叡の武陵と孫堅の長沙から軍事行動を起こし、零陵の賊を討ちながら桂陽へ進んでいったと考えられる。その過程で武陵太守曹寅の荊州刺史王叡に対する支援が充分でなく、王叡が不興に思い、それが言動に現れ、曹寅もそれを自覚、聞き及んでいたのではと考えられる。

 この荊州で度々起こる蛮や賊による騒乱鎮定に関しては、その成果・功績・結果を巡って関係者が互いに訴訟して罪に落とし合う事案が度々発生している。曹寅が王叡を陥れる素地は生じていた。加えて王叡はキャリアコースを経るのではなく、武功で太守に就任した孫堅に対しても軽侮をあからさまにしていた。刺史は六百石、太守は二千石で官位の上では太守が格上だということを考えると、王叡の孫堅への態度・扱いは非常に不味いことであった。本来であれば幾ら案行使者である光祿大夫温毅の檄だとしても、「王叡に罪過あるゆえ、収監して刑を執行し、終わってから報告せよ」などというのはあり得ない。収監して洛陽へ送還せよ、はあっても、そこで処刑しその状況を報告しろはあり得ない。偽の命令を疑うべきである。そも治下の民の犯罪を除き、刺史以上については全て罪を定め刑を行うのは中央であり、朝廷の外にある官吏が収監したものに現地判断で刑を執行することは許されない。しかし王叡の孫堅に対する普段の扱いに思うところあった孫堅はあり得ない内容を善しとして実行した。

 王叡は耐えるべきであった。孫堅は未だこの段階では「収監」までしか踏み込んでいない。王叡を自ら手にかけたら拙いことになるという自覚があるいはあったのかも知れない。呉録は王叡は金を刮って之を飲んで死んだのだと記し、孫堅が手にかけたのではないとの状況を残す。迂遠な擁護と言うべきである。

 王叡は死んだ。追い込まれての自裁という形で、孫堅に殺された。こうなってから孫堅は自分が非常に不味い立場にあることに気づく。偽の檄に踊らされたとは言え、ありもしない罪を断じて刺史を収監し、死に追いやったのである。朝廷への書状での釈明は、恐らく通らない。かくて、長沙太守孫堅は、兵を率いて北上する。許可なく兵を引き連れて郡界を越えゆくのは当然死刑に当たる罪なのだが、そこの所を彼がどう考えていたのか、史書は何も残さない。

 孫堅は兵を率いて桂陽から長沙へ戻り、江夏を通過して南陽へ入る。後の記述に出てくるが、当時江夏太守をしていた劉巴の父劉祥がそれを許可したのだろう。劉祥は後に袁術や孫堅らのグループに居て兵站確保の任を担っている。本来ならあり得ないことだが、この時の零陵・桂陽の賊乱を鎮定するのに王叡は荊州の他の郡からも人を集めていたのだろう。荊州の騒乱鎮定ではよくあることである。江夏太守も王叡の軍事行動の指揮の下にあり、孫堅が直ぐに直接会える状況だったのだと見るべきなのかもしれない。

 兵を引き連れた孫堅は、南陽郡に到着する。その頃になると衆数万となっていた。そこに居る意味も意図も分からないという点で恐怖の武力集団である。

 孫堅は南陽太守張咨に軍資を求めたが断られた。孫堅の中では罪である。そこで牛酒を以て礼をし、張咨が答礼に訪れたところを捕縛、義兵を徒に留めて賊に時間を与えたのは罪であり軍法に照らして斬る、として軍門で斬り捨てた。ただこれは別の伝があり呉暦では南陽に至った孫堅に張咨は軍糧を給さずまた会見も肯んじなかったため、孫堅が急病で重態となり(孫堅の)軍が動揺していると偽り、後事を託したいとの詐りに載せられた張咨が見舞いに来たところを捕縛し斬ったとする。どちらを採るにしろ、孫堅が南陽太守張咨を謀って斬り捨てたのは間違いなく、そこには何の正当性もない。

 なぜいるのか、なんのためにいるのか、外部から見て意味も意図も分からない恐怖の軍団が、袁術の前に現れる。


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【後漢末三国志を楽しむための注】

1)何顒:字は伯求。南陽襄郷の人。董卓の長史(恐らく司空か太尉の事務次官)を務める。司空荀爽、司徒王允等と董卓を謀ろうとしたほか、荀攸や鄭泰、种輯、伍瓊等とも謀をしていた。荀爽が薨じたあたりで荀攸たちの方の謀が発覚して収監され、自殺した。曹操を「天下を安んずる人」、荀彧を「王佐之器」と評価した。後に荀彧は叔父の荀爽と并わせて屍を西方(長安方面)から引き取り、荀爽の冢の傍に葬っている。

2)張邈:字は孟卓。東平寿張の人。若いころから俠を以て聞こえ、公府に辟(まね)かれ、高第を以て(大将軍何進から)騎都尉を拝し、陳留太守に転じる。初平元年反董卓の旗幟を明らかにする。

3)許靖:字は文休。汝南平輿の人。若きより従弟の許劭と共に名を知られるが、二人の仲は最悪である。その最悪ぶりは省略する。靈帝が崩じて董卓が秉政すると漢陽の周毖を吏部尚書と為したところで許靖はその議に預かり潁川の荀爽、韓融、陳紀等の人事、韓馥を御史中丞から冀州牧に、侍中劉岱を兗州刺史に、潁川の張咨を南陽太守に、陳留の孔伷を豫州刺史に、東郡の張邈を陳留太守にするなどの人事に預かる。自分は巴郡太守を蹴って韓馥の後任として御史中丞を補う。韓馥らが董卓誅滅の兵を挙げると従兄が陳相を務める許瑒であること、また彼が豫州刺史の孔伷と規(はかりごと)を合わせていたことから誅殺を恐れて孔伷のところへ逃亡した。なお逃げ損ねた周毖は董卓の怒りを買い処刑された。


4)孔伷:字は公緒。陳留の人。「孔公緒は能く清談高論し、枯れしに嘘ぶき生を吹きこむ。」

5)荊州刺史王叡:字は通曜。琅邪臨沂の人。漢の諫議大夫だった王吉の後裔にあたり、父は王仁、青州刺史を務めた。晉の太保王祥の伯父にあたる。

6)武陵太守曹寅:ここにだけ出てくる。大惨事の引き金を作った彼のその後を知りたい人は多い筈。普通にさっくり孫堅に詐りの責任を取らされて斬られている結果しか見えないのだが・・・

7)案行使者:災害や兵凶があった時に、朝廷から恩沢を施すために遣わされる。派遣されるのは光祿大夫が多い。

8)光祿大夫温毅:実際にこの時に派遣されていた人物かも知れないが、武陵太守曹寅の創作人物かも知れないという疑いは残る。

9)「坐無所知(何に坐したのかは知らん)。」:こういう風に訳してみた。

10)劉表:字は景升。山陽高平の人。八俊の一人。上計吏から大將軍何進の掾となり北軍中候となる。靈帝が崩ずると王叡の後任の荊州刺史と為る。北軍中候となって十旬(百日)目のことである。

11)彼(劉表)が官に到る(任地で任に就く)のは:本来であれば刺史の治所である武陵漢寿県に到るべきだが、本来の任地に就けないため宜城入りして中廬の人蒯良、蒯越、襄陽の人蔡瑁に協力を求め今後を謀った時点を劉鎮南碑では「官に到る」としている。

12)劉鎮南碑に拠れば永漢元年十一月:劉鎮南碑にはこうある。「君諱表,字景升,(中略),為郡功曹,千里稱平,上計吏辟大將軍府,遷北軍中候。在位十旬,以賢能特選拜刺史荊州。永漢元年十一月到官, 」

13)零陵郡:荊州に属す。郡の治所は泉陵。

14)桂陽郡:荊州に属す。郡の治所は郴で客嶺山が有る。

15)刺史は六百石:州の長官として州ごとに一人いる。常に八月を以て所管の郡国を巡行し、囚徒を録し、殿最を考ず(最下位から最上位までをランク付けする)。本来は初めの歳が尽きれば京都を詣でて事を奏上するがそのうちそれが太守から計吏の役割となった。こうして孝廉や茂才に加えて上計吏もキャリアの資格者となったのである。

16)太守は二千石:郡も国も皆治民を掌る。賢を進め、功を勧め、訟えを決し姦を検める。常に春を以ってして管内の県に行って民に農桑を勧め、乏しく絶えんとするものに救いを振るう。秋冬には害を無くすための吏を遣わして諸もろの囚人を案じ訊ね、其の罪法を平らげ、成果の殿最を論ず。歳が尽きれば吏を遣わし上計させる。并わせて孝廉を挙げる。

17)孫堅は兵を率いて桂陽から長沙へ戻り、江夏を通過して南陽へ:三国志孫破虜伝からも分かるが、後漢書徐璆伝注に「衞宏曰(中略)孫堅從桂陽入雒討董卓,(後略)」とあり、王叡及び孫堅らの作戦展開地域が桂陽であったこと、そこから出立したことが傍証される。

18)江夏太守をしていた劉巴の父劉祥:江夏郡は西陵が治所。十四県ある。劉巴(字は子初)は零陵烝陽の人で三国志では曹操から荊南の地の鎮撫を委託されるも果たせず、諸葛亮の誘いを断り益州へ逃れたが、最終的に漢中王劉備の尚書令となった。劉祥はこの時江夏太守であり、後に盪寇將軍にもなる。孫堅と心を同じくして南陽太守張咨の殺害に預かったため、南陽の士民は怨み、挙兵して劉祥を攻め戦いの末敗亡した。劉表の将とされる黄祖が代わって江夏太守になったのだろう。

19)南陽太守張咨:南陽郡はもともと申伯國であった宛が治所。三十七県を有する大郡である。張咨は字を子議といい潁川の人である。どうやら何顒や許靖が送り込んだ反董卓の決起に預かる予定の人材だったようだが、袁術を手待ちさせている内に南から恐怖の首斬り人がやってきて首を斬られた。なお、南陽での反董卓の決起(予定)を潰した首斬り人は反董卓の兵を称した。うん、訳が分からないね。

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袁術くん、Hi! 黒田タケフミ @tridom_at

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