袁術くん、Hi!

黒田タケフミ

第1話【霊帝薨去から袁術の洛陽脱出まで】

 後漢末の中平六年(189年)。

 この歳は霊帝の死による混乱と董卓登場の歳である。


 この年、後漢王朝は事実上の終焉を迎える。桓帝の頃から始まった宦官と清流の争いと銘打たれた政治闘争は、ついに朝廷と言うゲームの舞台そのものを破壊したのである。

 4月、霊帝が薨去すると、大将軍何進は外戚として威を奮うべく妹である何皇后の子、劉弁を帝位につけた。後に董卓によって弘農王に格下げされることになる、少帝である。そして何進は実権を握る上で障害となる対抗勢力の排除に出た。帝位継承の対抗馬であった劉弁の異腹の弟、陳留王劉協を押していた宦官の蹇磧<けんせき>を誅戮、更に劉協を庇護していた董太后に迫って自殺させたのだ。

 8月、宦官勢力の一掃を図る大将軍何進(実質的には宦官を廃滅させようと画策していた袁紹ら)の行動に危機感を抱いた宦官側は反撃を講じ、張譲・段珪らが謀って宮中で何進を斬った。大将軍何進の死で窮地に立たされたのは今度は袁紹らであった。袁紹は何進の死を知ると即座に行動を起こす。宮中に兵を入れて宦官皆殺しに踏みきったのだ。虎賁中郎将であった袁術は袁紹に従い、兵を率いて宮中に突入した。大将軍何進の腹心だった袁紹は宦官側が任命していた司隷校尉の樊陵と河南尹許相を斬り、自ら司隷校尉に代わると同じく兵を率いて宮中に突入、2000人とも言われる宦官虐殺を行う。対して宦官側は少帝と陳留王を略取して宮中から脱出するが袁紹らの追求の厳しさに悲観、途中で揃って自殺し、少帝と陳留王は董卓の手に落ちた。


 皇帝を擁して洛陽に入城した董卓は昭寧と改元、司空に就く。

 9月、董卓は少帝を廃して弘農王となし、陳留王劉協を帝位に就ける。献帝である。新帝即位に伴い永漢と改元されたこの時、董卓に皇帝廃位を相談された袁紹は董卓を拒み洛陽を離れた。董卓は新帝即位に伴い改めて太尉につき、国家の警察権を握る。董卓伝に急に太尉に昇進し、とあるのは袁紹の逃亡を如何とも出来なかったことと反対勢力を押さえるために警察権を持つ太尉に就くことの必要性を痛感したからだろう。太尉に就いた董卓は当時董卓の周りにいた人々の意見を汲み取り、洛陽を離れた袁紹に対して洛陽を離れたことを不問に付すと言うことの意志表明と懐柔を兼ね、袁紹を渤海太守に任じ、亢郷侯に取り立てた。袁術はこのころ後将軍にとりたてられている。

 ところが、ここで曹操が董卓からの驍騎校尉任命を拒んで洛陽から逃亡する。曹操の洛陽脱出をこの時(か翌10月)と考えるのは、曹操が指名手配され追われるからだ。これは董卓が袁紹の洛陽脱出時に何も手を打てなかったことを鑑みて太尉に就き、警察権を掌握していた時期で、袁紹の懐柔を行った後と思われる。このとき袁術はまだ洛陽に留まっている。曹操は董卓からの驍騎校尉任命を拒んだ時、当時洛陽に妾としてつれてきていた卞氏に連絡なく洛陽から遁走していた。演義で董卓暗殺に失敗してそのまま遁走したのとそれほど変わらない状況だったようだ。

 曹操は太尉の董卓が警察権を行使するのは確実と見切っており、一刻の猶予さえないと文字通りの遁走を図ったのだ。三国志武宣卞皇后伝の中で曹操が死んだらしいと言う知らせを当時曹操の妾の一人として洛陽に滞在していた彼女の下に持ってくるのが袁術である。曹操逃亡時、袁術は未だ洛陽に居て「どうやら曹操は死んだらしいってさ、」などと卞氏にわざわざ教えに行っている。実に呑気だ。穿って見るなら元は歌姫で曹操の妾であった卞氏の美貌を拝みにいったのかもしれない。群雄としての野心でなく男としての野心満開で。やっぱ呑気だ。

 しかしこの段階で曹操が官位を捨てて洛陽から犯罪者のように逃亡するのは曹操以外の者には解せないことだった。例えば後に曹操の腹心の一人となる荀攸らは董卓政権に協力する腹積もりでいたし、曹操に「我が子房」と称えられた荀彧も孝廉に推挙されて洛陽へゆき守宮令に任じられ、それを素直に受けている。三国志荀彧伝には彼が孝廉に推挙されたのは永漢元年と書かれている。永漢元年は189年9~11月の3ヶ月間のみの年号であり、12月には中平六年に戻っているからだ。

 この段階で董卓の失敗を見抜いたのは曹操只一人、空恐ろしいほどの洞察力と言える。下手すれば一人よがりの勘違いクンになってしまうわけなのだが、恐らく袁紹伝(の注)でも董卓は迂闊な発言をしていることが描かれたりしているから曹操にもうっかりとんでもないことを言ってしまい、それを聞いた曹操が董卓からは距離を置いた方がいいと考え逃げたのかもしれない。が、ここは袁術伝なので袁術に話を戻そう。

 そんなわけで袁術が洛陽を脱出するのはおそらく189年11月か12月である。翌年正月に生ずる関東諸侯の蜂起時には名前が挙げられているため、それを信ずるならそういうことになる。董卓が他の三公の掣肘を嫌って三公に上する相国についた11月か、年号を中平六年に戻して少帝にまつわる事柄をなかったことにした月か。この12月には曹操が済北相鮑信と共に陳留郡己吾で挙兵している。この曹操の挙兵を知って洛陽から逃亡したのかもしれない。あるいは翌正月に起こる関東諸侯一斉蜂起の企てを誰かから知らされ、このまま洛陽にいる危険を悟って逃亡したという可能性もある。

 だが、袁術くんは本当に逃亡したのだろうか。寧ろ堂々と洛陽から南陽方面へ向けて出立した可能性がある。この時の袁術の官位は後将軍。この役職はこの時の袁一族の長にして叔父にあたる太傅袁隗がかつて就いていた役職である。袁術は袁紹と違い、董卓と共に献帝を擁して時の朝廷を押さえていた袁隗に袁一族の一人として与力していたと考えられる。洛陽から逃亡し追手のかかった曹操について、関わったら捕縛の危険もある関係者である卞氏の所へ「曹操死んだかもよ」などと伝えにいけることが袁術の安全ぶり、つまり与党側にいることを示しているのではないか。

 それでは袁術はどういった理由(わけ)で後将軍として洛陽から出た/出ていけたのだろうか。それは後に三国志「呉」を建国する孫氏の礎石、孫堅が荊州で起こした騒乱が関わっている!はず!なのかも!


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【後漢末三国志を楽しむための注】

1)中平六年:西暦で189年度相当。後漢の霊帝劉宏の治世の年号で、この中平六年四月に劉宏は薨去する。


2)霊帝:後漢の皇帝劉宏の諡号。亡くなってから付けられるもので、生前はこう呼ばれることはないが、ここでは便宜上諡号で叙述します。桓帝や少帝、献帝も同じ。


3)董卓:字は仲穎(ちゅうえい)。隴西郡臨洮県の人。みんな大好き蝋燭親父。詳しくは三国志董卓伝、後漢書董卓伝を読め。あるいは某K〇EI三国志ゲームをプレイしろ。


4)大将軍:将軍の中の将軍。後漢の官制では将軍はそもそも常置しない。背反を征伐するのを掌る。その中で政治にも関われる特別職があり、大将軍はその筆頭。外戚か皇帝の信任厚い皇族が就く。次が驃騎將軍、車騎將軍、衛將軍となる。

将軍の幕僚は次のとおり。長史、司馬がそれぞれ一人で千石の官。從事中郎二人で六百石の官。開府しているとこれに府員として掾屬が二十九人、令史及び御屬が三十一人就く。この他、様々な典礼や軍令のための官騎三十人及び鼓吹が付けられる。


5)何進:時の大将軍。荊州南陽郡宛県の人で字は遂高。異母妹が霊帝の皇后何氏であり、そのため黄巾の乱を機に引き立てられて大将軍となる。袁紹を腹心にしたばかりに・・・。もっと知りたければ後漢書何進伝を読め。


6)袁紹:字は本初。汝南郡汝陽県の人。高祖父袁安が司徒となってから権貴を誇ることになった。この袁安が出来人で以下四世にわたって袁氏は三公に就く。もともとは袁術の父袁逢の庶子であったが、本来の継嗣である袁逢の兄袁成が早死にして家が絶えていたのを継ぐ形で袁成の子となった。力のある一族の出であるため二十にして孝廉に挙げられ、濮陽令(濮陽県の県令。知事みたいなもの)を務めるなどしたが、一時在野に下っていた。大将軍何進の引き立てを受け、大將軍掾から侍御史となり、霊帝が設けた西園八校尉の一つ中軍校尉に遷り、司隸校尉となる。当時大将軍何進の腹心を務めていた


7) 陳留王劉協:後漢最後の皇帝となる。献帝。霊帝の母である孝仁董皇后(董太后)に養育され、霊帝が亡くなるまで皇子の一人で帝位継承権を保持していた。霊帝が崩じて権力闘争があり、何皇后の子である皇子弁が帝位を継ぐと渤海王に封じられた。権力闘争の結末は董太后側の上軍校尉であった宦官の蹇碩が獄に下されて死に、票騎將軍董重も董太后に罪ありとして連座して獄に下され自殺、董太后は憂怖して病んで暴崩ということとなった。董太后の葬儀後、封を移されて陳留王となる。後ろ盾が誰もいなくなった彼を董卓・袁隗が担ぎ上げる。


8) 蹇碩:宦官。霊帝お気に入りの宦官の一人で軍才を有していたことから、霊帝肝いりの西園八校尉が設けられると小黄門の身で筆頭官である上軍校尉となった。霊帝が崩御すると霊帝直轄軍である西園軍を押さえていたのを危険視されたか権力闘争の手始めとして大将軍何進により最初に除かれる。


9) 張譲・段珪:宦官。三国志演義の十常侍の二人。後漢書では十二常侍。宦者伝では是の時張讓、趙忠及び夏惲、郭勝、孫璋、畢嵐、栗嵩、段珪、高望、張恭、韓悝、宋典ら十二人、皆中常侍となって、侯に封じられ権貴を振るうとある。最後は劉備の学問の師で当時尚書を務めていた盧植に追い込まれ、黄河に身投げして滅亡。黄巾討伐時に方面軍司令官として張角に立ち向かっていた彼に難癖付けて陥れ、監車で召還などしたから・・・


10) 虎賁中郎将:比二千石の官。虎賁宿衞を主る。部下として左右僕射、左右陛長各一人があり、いずれも比六百石の官。また、定員の無い虎賁中郎、虎賁侍郎、虎賁郎中、節從虎賁がいる。能力があると認められれば比六百石の虎賁中郎まで到達できる。虎賁中郎将は九卿の一人である光祿勳が上司。この時の光祿勳は誰だったのか。


11) 司隷校尉:比二千石の官。役割が二つあり、一つは他の州刺史と同じく所部する郡(洛陽有する河南、長安有する京兆、馮翊、扶風、弘農、河内、河東)を監査する。もう一つは仮節を得ては百官以下京師近郡で法を犯す者全ての察挙を行うこと。これが為に後漢末の権力闘争で押さえるべき必須の官職となった。袁紹は大将軍何進の与力として司隷校尉となり仮節を得ていたが、何進が殺害されると人事異動でこの官を外された。


12) 樊陵:宦官側が袁紹を異動させて据えた人物。もと三公の一人である太尉をしていた。生き死にのかかった袁紹が叔父の袁隗と組んで詔を矯めて召し出し、偽の司隷校尉として袁紹に切り捨てられる。折角三公まで務めて官を退いた身でありながら、熾烈な権力闘争の渦中に辞令を受けたのはなぜなのか。


13)河南尹:帝都洛陽を擁する河南郡の太守。司隷校尉とセットで押さえる必要がある。当時大将軍何進により大将軍從事中郎であった王允(後に董卓を暗殺することになる王允ですよ)が異動して河南尹となっていた。


14) 許相:宦官側が帝都の押さえとして王允を異動させて河南尹に据えた人物。九卿の一人である少府についていた。樊陵と同じく生き死にのかかった袁紹により切り捨てられる。許劭、許靖らの同族と思われるが、わざわざ官位が下がってまでも九卿から河南尹への辞令を受けてしまったのはなぜなのか。熾烈な権力闘争の渦中で危険が一杯だったのに・・・


15) 司空:太尉、司徒と共に朝廷の最高官三公の一人。全土の治水土木を掌る。古代中国の中では「天地人」のうち「地」の最高官と考えるといい。国に大造大疑が有れば、他の二公と之を論じ、国に過事が有れば、二公とともに之を諫め争うのが三公の役目。


16) 太尉:司空、司徒と共に朝廷の最高官三公の一人。四方の兵事を掌り、年ごとにその功績を評価し賞罰を行う。古代中国では武威即ち天(子の)威を掌る「天」の最高官と考えるといい。日食が起きる度に太尉が代わるのは「天」に関わるからと考えるとすっきりする。部下である掾史屬の中に賊曹がいるので警察権も管轄である。霊帝が崩御する直前の四月に日食で太尉馬日磾が免じられ、幽州牧劉虞が太尉となっているが、霊帝が崩じて混乱したため、劉虞が参内することはなかった。


17)渤海太守・亢郷侯:太守は二千石の官位。県の下に郷がある。その郷を食邑としてその上がりが与えられる。


18) 曹操:みんな大好き乱世の姦雄曹孟徳。詳しくは三国志を読め。横山三国志や蒼天航路も面白いよ。何ならゲームやれ。

この時は霊帝直轄の西園校尉の一つ典軍校尉を務めていた。霊帝が崩じて権力闘争が始まり、西園軍筆頭官の上軍校尉蹇碩が殺され、権力を奪い返した筈の袁紹が逃亡し、見知らぬ董卓が驍騎校尉をやらんかと声を掛けてきた。迂闊に乗って樊陵・許相の二の舞は御免だよね。


19) 驍騎校尉:なんと三国志にしか見えない官名。驍騎将軍なら昔からある。突然見知らぬ董卓から新設の官職を提示された曹操の気持ちを答えよ(30点)。


20) 武宣卞皇后:卞氏。曹操の妾の一人で、最終的に正妻に収まる。瑯邪(国)開陽県の人で後に文帝となる曹丕や曹彰、曹植の母。もともと倡家だったが、二十歳の時、曹操が郷里の譙で后に納れて妾と為った。この時は曹操に随って洛陽に居た。三国志裴松之注で生年が後漢の延熹三年(西暦160年相当)十二月己巳、齊郡白亭で生まれたと残されている。よって袁術に凶報を伝えられた時は29歳である。


21) 荀攸:字は公達。あとで出る荀彧の六歳年上の從子。後に曹操の軍師を務める。この時の荀攸は大将軍何進に海内の名士二十余人の一人として徴されて洛陽に到着したばかりだった。荀攸は到ると黄門侍郎を拝したとあることから、献帝即位後に初めて置いた侍中、給事黄門侍郎、各六人の内の一人だったと思われる。


22) 我が子房:子房は前漢の創始者劉邦を支えた三傑の一人張良のあざな。


23) 荀彧:字は文若。潁川潁陰の人。祖父は荀淑(字季和)、朗陵令。父の荀緄は濟南相を務めた。この時孝廉に挙げられて洛陽に行き、守宮令となっている。


24) 孝廉:中央官界のキャリア候補。郡が原則人口二十万ごとに一人を挙げ、洛陽で審問を受けて様々な官位に異動する。計吏と共にキャリアパスの入口となる。


25) 守宮令:六百石の官。上司が九卿の一人少府。員吏六十九人のトップ。御紙や筆墨及び尚書財用の諸物及び封泥を主る。


26) 関東諸侯の蜂起:あとで本文で説明がある筈。


27) 相国:司徒のもとの呼び名だったのだが、三公の上位官として董卓が就いた。前漢では蕭何が初めて就いている。


28) 済北相鮑信:どうも正規に官を拝した訳でなく自称らしい。


29) 太傅:三公に上する上公。職掌は不慣れな皇帝を善導すること。常にある官職ではない。皇帝が即位して初めに太傅を置いて尚書事を録させ、亡くなると官を省く。献帝は未成年であるため、袁隗が太傅に就いた。


30)袁隗:字を次陽。若い頃から顯官を歴任し、兄の袁逢に先んじて三公となった。時の中常侍袁赦が袁隗の一族で中で(袁隗)に事えていた。何度も三公を務めた後漢政治の怪物。この頃の袁一族の宗主。大将軍何進と組み、何進が殺されるとその混乱期に董卓と組み、最後は甥である袁紹と袁術の背反で身を滅ぼす。

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