繁殖ホルモン

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繁殖ホルモン

エミルは朝の光に包まれたベッドから目を覚ました。窓から差し込むやわらかな光が部屋の隅々を照らしている。リナはまだ隣で静かに眠っていた。彼はその顔を見つめながら、小さな微笑みを浮かべる。愛する妻と共に暮らす日々は、穏やかで、満たされているはずだった。


それでも、心の奥底に拭い去れない違和感があった。日々の生活に何か不自然なものを感じるようになって久しい。その感覚は、彼がふとした瞬間に感じるものだった。仕事中の雑談、街で見かける若いカップル、子どもたちの無邪気な笑い声。それらが何か決まった筋書きに従って動いているような、そんな違和感だった。


エミルはベッドからそっと起き上がり、キッチンへと向かった。コーヒーを入れながら、窓の外の景色を眺める。青空が広がり、鳥のさえずりが心地よい。しかし、彼の心は重かった。最近、聞いた話が頭の中を占領していた。


「ホルモンの話を聞いたことがあるか?」数週間前、職場の同僚がぽろっと漏らした言葉が、エミルの心に引っかかっていた。彼は最初、それをただの陰謀論だと思っていた。そんな話が実際にあるわけがない、と。


だが、ふとした瞬間に感じる「自分の意思ではない何か」に対する違和感が、徐々にその話に信憑性を持たせていった。社会が人々に繁殖を促すために、食べ物や飲み物にホルモンを秘密裏に混ぜているという話。誰もが無意識のうちにそれを摂取し、家族を作り、子どもを産むように仕向けられている。


「馬鹿げている…」そう自分に言い聞かせながらも、エミルはその可能性を完全に否定できなかった。


リナが起きてきた。彼女はいつものように柔らかい笑顔を浮かべ、エミルに近づく。


「おはよう、エミル。今日もいい天気ね」


彼は一瞬、ホルモンのことを話そうか迷ったが、結局何も言えなかった。リナにその話を持ち出すには、あまりにも現実味が薄すぎる。彼女はきっと笑って取り合わないだろうし、それが不安だった。彼女との平穏な日々が、この話をきっかけに壊れるのではないかという恐れがあったのだ。


「おはよう、リナ」エミルは作り笑顔を浮かべ、コーヒーを彼女に差し出した。


朝の静かな時間が流れていくが、エミルの心は騒がしいままだった。彼の頭の中では、無数の疑問が渦巻いていた。「もし本当にホルモンが存在するなら、僕たちの生活は、僕たちの選択は、全て誰かに操作されているのか?自由意志はどこにあるんだ?」


エミルはリナの顔を見つめた。彼女は本当に幸せそうだった。だが、彼は自分の心に潜む違和感を無視できなくなりつつあった。


その日、彼は初めて「ホルモン」の存在に深く疑問を抱き、人生が変わり始めたことに気づいていなかった。自分が愛し、守ってきたこの平穏な世界が、徐々に崩れ落ちていく兆しを彼はまだ感じ取れていなかった。


エミルの心に巣食った疑念は、次第に彼の生活の隅々まで広がっていった。表面上はいつも通りの仕事、いつも通りの会話、そしていつも通りの家族との時間が続いていたが、彼の頭の中では、無意識のうちに自分が何か大きな枠組みの中で操られているのではないかという不安が増していた。


リナと夕食を囲む日々も、以前とは違って感じられた。彼女は相変わらず笑顔を絶やさず、未来についての計画を楽しそうに話していたが、エミルはそのたびに胸の中で何かが軋むような感覚を覚えていた。家族を持つというリナの夢。それは本当に彼らの「自然な選択」なのだろうか?


「エミル、どうしたの?」ある晩、リナは不意に問いかけてきた。


「え?」とぼけた顔をするエミルに、リナは小さくため息をついた。「最近、何か変よ。考え事ばかりしているし、私といる時もどこか遠くを見ているみたい。」


エミルは一瞬返事に詰まり、どう説明すべきか迷った。心の奥では、ホルモンの話を彼女に打ち明けたい気持ちがあった。だが、それは同時に大きなリスクを伴うことだった。もしリナがこの話を聞いてどう思うだろうか?彼女は信じるだろうか?それとも、馬鹿げた妄想として片付けるだろうか?


エミルは深呼吸をし、思い切って言葉を口にした。


「リナ、最近…ちょっと気になることがあるんだ。」


「何が?」リナは顔をしかめたが、その目は心配そうにエミルを見つめていた。


「実は…僕たちの生活に関して、少し疑問を感じているんだ。」エミルは言葉を選びながら慎重に続けた。「僕たち、将来のことをよく話すけど…本当にそれが僕たち自身の選択なのか、時々わからなくなるんだ。最近、職場で聞いたんだ。ホルモンの話を。」


リナは困惑したような表情を浮かべた。「ホルモン?それがどうしたの?」


「ほら、僕たちが知らないうちに、食べ物や飲み物にホルモンが含まれているって噂。繁殖を促すためにね。それが本当なら、僕たちが家族を持ちたいと思うのも…本当に僕たちの意志なのか疑わしいんだ。」


リナは少しの間沈黙していた。その沈黙は、エミルにとって耐え難いものだった。彼女はやがて口を開き、ゆっくりと言った。


「エミル、あなた…本気で言っているの?」


エミルは彼女の顔を見つめた。リナは困惑しているようだったが、同時に少し怒りも感じているようだった。


「もちろんだよ。リナ、僕は君を信じているし、家族を持つことも素晴らしいことだと思う。でも、もし僕たちが操作されているとしたら?それが誰かに決められたものだとしたら、僕たちは本当に自由なのか?」


リナはしばらく言葉を発しなかった。その静寂が部屋を支配し、エミルは自分の選択が間違っていたのではないかという不安に駆られた。しかし、リナが再び口を開いたとき、その声は静かだった。


「エミル、あなたがそう考えるのはわかるわ。でも、私にとってはどうでもいいことなの。たとえ誰かに促されているとしても、私はあなたと家族を持ちたい。それは私の夢だから。」


エミルはその言葉に驚いた。リナは冷静で、しかし強い意志を持っていた。彼女にとって重要なのは、外部からの影響ではなく、自分がどう感じるかだったのだ。


「でも、リナ、僕たちが選択していると思っていることが、もし本当は…」


「エミル、それは重要じゃないのよ。」リナは優しく彼の手を握った。「私たちが幸せなら、それでいいの。誰かがそれを助けてくれるなら、感謝するべきじゃない?」


エミルはその瞬間、妻との間に深い溝ができたことを感じた。彼女はホルモンの問題に関して考えることを拒んでいた。エミルにとっては、これは単なる幸福の問題ではなく、自由と自己決定の問題だった。しかし、リナにとっては、その問題は重要ではなかった。


夕食が終わった後、リナはそっと部屋を出た。エミルは食卓に残り、静かにため息をついた。妻を失う恐怖が彼を強く締め付けていたが、同時に、自分の信念を曲げることができないという感覚もあった。


この違和感は、ただの小さな不安ではなくなっていた。それは、エミルとリナの間に大きな溝を作り、彼の心に深く根付いていくものだった。


彼はすでに知っていた。何かが大きく変わり始めていることを。


エミルは机に向かい、手の中に握ったペンを無意識に回していた。リナとの会話から数週間が過ぎ、彼の心の中での葛藤は日に日に強まっていた。職場でも、友人と話していても、彼の頭の中には常に「ホルモン」の問題が浮かんでいた。そして、その重荷は次第に彼の思考と行動を縛りつけていた。


彼が抱える不安は、単にホルモンの存在自体だけではなかった。リナとの間に生じた溝――彼女が「幸せならそれでいい」と言い放ったあの瞬間から、二人の関係は冷え込んでいた。エミルは彼女を愛していた。だが、彼女が気にしないと言ったあの言葉は、エミルにとって痛みであり、彼の価値観を揺るがすものだった。


ある晩、エミルはリナと向き合って座っていた。リビングの柔らかい光が二人を包むが、部屋の空気は冷たかった。エミルは何度も心の中でこの瞬間を想像してきたが、いざその場面が訪れると、口を開くことができなかった。リナも何かを感じ取っていたのか、いつもとは違う静けさを漂わせていた。


やがてエミルが口を開いた。「リナ、僕は…決めたんだ。」


リナは彼を見つめた。その瞳には、すでに何かを悟っているような冷静さがあった。


「ホルモンの話を、無視することはできないんだ」とエミルは言葉を続けた。「君は、僕たちが幸せならそれでいいと言ったけど、僕はそう思えない。誰かが僕たちの意思を操作している可能性がある中で、僕たちの人生を勝手に決めさせることはできないんだ。」


リナは少しの間黙っていた。彼女は深く息を吸い、何かを言おうとしたが、その言葉を飲み込んだようだった。彼女の表情は変わらないまま、ただ静かにエミルを見つめていた。


「エミル、あなたが何を決めたか、私にはわかっているわ。でも、それが私たちの未来にどう影響するかもわかっている?」


彼女の言葉には冷静さと悲しみが入り混じっていた。エミルは彼女の手を取りたい衝動に駆られたが、できなかった。彼女との間に立ちはだかる見えない壁が、その距離を遠ざけていた。


「リナ、僕たちがこれから子供を持つために、ホルモンに頼ることを選ぶのは間違っている。それは僕たちの意思じゃないんだ。僕はそれを拒否することに決めた。君と一緒に未来を作ることはできる。でも、僕たち自身の意思で選んだ未来でなければならないんだ。」


リナは目を閉じて、静かに息を吐いた。そしてゆっくりと頭を振った。


「エミル…私はあなたを愛している。だけど、私は家族が欲しいの。自分の子どもを抱きしめて、あなたとの家庭を作ることが、私の夢なのよ。それを拒否するなら…」


彼女は言葉を詰まらせた。その先にある結末を語ることができないように見えた。


「リナ…」


「エミル、私にはあなたが必要。でも、あなたの決断は…私たちが一緒にいるための道を閉ざしてしまう。私は、ホルモンがどうだとかはもう関係ない。私たちが幸せならそれでいいの。でも、あなたはそれを受け入れられないんでしょ?」


エミルは沈黙した。リナの言葉は鋭く彼の心に刺さっていた。彼女が言っていることは正しかった。彼はリナを失いたくない。しかし、自分の信念を曲げることはできなかった。


リナは立ち上がり、エミルから離れて窓の外を見つめた。彼女の背中は小刻みに震えていた。


「私はあなたを選んだ、エミル。でも、あなたが私を選べないのなら、私にはこれ以上どうしようもない。」


エミルは立ち上がろうとしたが、身体が動かなかった。言葉をかけたいのに、それができなかった。ただ、彼の心には決断の重さがのしかかっていた。


「リナ…」


彼女は振り返り、エミルに静かに微笑んだ。その笑顔はとても悲しげだった。


「さようなら、エミル。」


リナはそのまま部屋を出て行った。ドアが静かに閉まる音が、エミルの心に深く響いた。彼女が去った瞬間、エミルは自分の選択が確定的なものとなったことを実感した。


彼女を失った。だが、それは彼が自由と信念を守った結果だった。彼は自分の意思で選択をした。しかし、その代償はあまりにも大きかった。


エミルはその晩、一人で部屋の中に座り、窓の外をぼんやりと見つめた。夜の闇が街を覆い、静寂が広がっていた。彼の心も同じように静まり返っていたが、その中にある空虚さが、彼をじわじわと蝕んでいた。


リナが去ってから、エミルの生活は急速に変わっていった。かつての平穏はもうどこにもなく、静寂が彼の日常を支配するようになった。家は以前と変わらないはずなのに、どこか寒々しく、広すぎるように感じられた。リナがいた時の温もりは、今では完全に失われていた。


最初の数日間、エミルはリナが戻ってくるのではないかと、どこかで期待していた。彼女も考え直して、もう一度話し合える日が来るのではないか。だが、時間が経つにつれ、その期待は薄れていき、現実がじわじわと彼を包んでいった。リナは本当に去ってしまったのだ。彼女が戻ることはない。


エミルは仕事にも身が入らなくなった。オフィスに座っている間も、心ここにあらずで、ぼんやりとパソコンの画面を見つめているだけだった。彼の周囲では同僚たちが変わらず談笑していたが、エミルはそれに加わろうとする気力さえもなかった。彼の中で何かが決定的に変わり、以前の生活に戻ることは不可能だと感じていた。


ある日、ランチタイムに同僚の一人がエミルに声をかけてきた。


「エミル、最近どうしたんだ?元気がないじゃないか。何かあったのか?」


エミルは口を開こうとしたが、言葉が出てこなかった。彼が抱えている苦しみを説明するのは難しかった。彼の内面の葛藤、ホルモンの問題、そしてリナとの別れ――それはただの個人的な問題以上のものだった。彼は社会そのものに対して疑念を抱き、それによって疎外されている感覚を持っていた。


「…ちょっと考えごとが多くてね」と、ようやく言葉を絞り出す。


同僚は不思議そうにエミルを見つめたが、それ以上は何も言わなかった。ただ、彼の背中を軽く叩き、「気にするなよ」とだけ言って立ち去った。


その瞬間、エミルは感じた。同僚との間にも、見えない壁ができ始めていることを。彼は孤独になっていた。リナを失ったことで、彼の人生から人々が徐々に離れていくのを、エミルはぼんやりと感じていた。


家に帰ると、エミルはソファに倒れ込むように座り、手のひらで顔を覆った。疲労感が全身に広がっていた。リナのいない生活は耐え難く、仕事に行っても社会の一員である実感はなく、ただ惰性で日々を過ごしているにすぎなかった。


彼は窓の外を見つめた。街には笑い声や子どもたちの叫び声が響いている。家族連れが通りを歩き、楽しそうに笑い合っていた。その光景を見て、エミルの心に重い感情がのしかかる。自分には、もうそれがないのだ。


リナが望んでいた家族。自分たちもその輪の中に入ることができたはずだった。だが、彼はその道を選ばなかった。それが自由であると信じたからだ。しかし、その自由は今や彼を孤独と疎外へと導いていた。


数年後、エミルは近くのカフェで一人、コーヒーを飲んでいた。外のテラス席に座り、目の前を行き交う人々をぼんやりと眺めていた。その時、ふと目の前を歩く一組の家族が目に留まった。


リナだった。


彼女は別の男性と手をつなぎ、彼女のそばには小さな子どもがいた。リナは幸せそうに笑っていた。彼女の顔には、エミルがかつて知っていた穏やかな笑顔が戻っていた。子どもが笑顔で彼女の手を引っ張り、彼女はその子を優しく見守っていた。


エミルはその光景に目を離せなかった。まるで時間が止まったかのように、彼の世界は静止した。ただ、リナが新しい人生を歩んでいるのを見つめるしかなかった。


彼女はエミルの存在に気づかないまま、そのまま去っていった。


エミルの胸には、深い喪失感が押し寄せた。リナが去っていったことが、今や彼女が完全に別の世界で生きていることを意味している。彼女は自分の選択を受け入れ、新しい家族と共に未来を築いていた。その姿はあまりにも幸せそうで、エミルは目を背けることができなかった。


彼は自分の選択を尊重したつもりだった。しかし、その選択が彼をここまで孤独に追い込むとは想像していなかった。


エミルはゆっくりとカップを置き、静かに立ち上がった。街の騒がしさの中で、彼だけが孤立しているように感じた。彼の世界は、もはや他人のものであり、彼はその外側で一人ぼっちになっていた。


エミルは街を歩き続けた。足元が重く、次第に力が抜けていくのを感じながらも、どこに向かうべきか分からず、ただ進むしかなかった。リナとの再会は、彼の心に深く根を下ろしていた喪失感を決定的なものにした。彼はその瞬間、完全に過去を失ったことを悟ったのだ。


リナは別の人生を歩み、家族を持ち、幸せそうだった。かつて二人で共有しようとした未来は、エミルにとっても可能だったはずだ。しかし、彼は自由を守るためにその未来を捨てた。彼が望んだ自由は、代償として彼に孤独をもたらした。


エミルは家に戻ると、いつものように静まり返った部屋に迎えられた。リナがいなくなってからのこの家は、彼にとってただの空間でしかなくなっていた。家具や壁、飾られた写真はすべて彼に過去の記憶を呼び起こさせるが、それらは今ではもう触れることができない幻のように思えた。


彼はソファに腰を下ろし、しばらく無言で天井を見つめていた。心の中には何も残っていないように感じられた。リナとの再会が、彼に最後の痛みを与え、その痛みが彼の心を完全に空虚にしてしまったのだ。


「これでよかったのか…?」


自問するが、答えは返ってこなかった。エミルは自分が選んだ道を後悔しているわけではなかった。自由を守るために信念を貫いた。しかし、その自由が何をもたらしたのかを考えると、虚しさしか残らなかった。


翌日、エミルは職場に行ったが、すでに彼の心はどこか遠くにあった。同僚たちの顔はもはやぼんやりとした影にしか見えなかった。誰も彼のことを気にかけていないようで、エミルもまた彼らに関心を持つことができなかった。


ランチタイムの間、彼はいつも一緒に昼食を取っていたグループから離れ、一人でカフェに座っていた。窓の外を見ながら、行き交う人々を眺める。彼らは日々の生活に追われ、忙しそうに過ごしている。しかし、エミルにとってその光景は遠いものであり、もはや彼の世界と交わることのない別の現実に見えた。


そのとき、彼はふと思い立ち、リナと初めて出会った場所に行ってみることにした。あの場所に何かがあるわけではない。だが、過去と今をつなぐ最後の糸のように感じたのだ。


リナと出会った公園は、以前と変わらず静かだった。エミルはベンチに座り、風に揺れる木々の音を聞きながら、彼女との最初の出会いを思い出していた。若かった頃、何も疑わず、ただ未来に向かって希望を抱いていた自分たち。ホルモンの存在を知らなかった頃の、何の不安もない時代だった。


エミルはその記憶にほのかな温もりを感じたが、それもすぐに消え去った。今や彼には、その未来がないことを痛感していた。彼が選んだのは、孤立する道だった。彼が求めたのは、誰にも操られない純粋な意志だった。しかし、その選択によって彼が得たのは自由ではなく、孤独と無意味さだった。彼がリナと共に生きる未来を拒絶した瞬間、彼の人生は完全に変わってしまった。


エミルは静かに立ち上がり、公園を後にした。自分の選んだ人生に後悔はないが、もはやそこに何の意味も見出せない。それでも、彼は生き続けなければならなかった。彼の選択の重さを抱えながら。


エミルは自分の部屋に戻り、いつものようにソファに腰を下ろした。部屋の中は静まり返り、時計の音だけが微かに聞こえていた。彼は目を閉じて、自分の心の中を探った。しかし、そこには何もなかった。


「これが、僕の選んだ自由か…」


エミルはそう呟き、ゆっくりと目を開けた。彼はリナとの過去を思い返し、今の自分を受け入れるしかなかった。彼が手に入れたのは自由だった。しかし、それはすべてを失った後に残された、ただの空虚な自由だった。


彼は一人で生きていくしかない。リナは彼の人生から去り、彼を取り巻く社会も彼を受け入れなかった。それでも、彼は自分の選択を曲げることなく、進み続けるしかなかった。


エミルは再び目を閉じた。彼の心の中には静寂だけが残り、外の世界とのつながりはもうどこにもなかった。

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