第40話「そこに無ければ無いですね」

 カランコロン。


 鳴り響くドアベルの音色。


「いらっしゃいませ~」


 入ってきたのは、抜け落ちた髪が全てひげに生まれ変わったのではないかと思わせるほどの、立派な白ひげをたくわえた年配の男性であった。


「ここに婆さんは来とらんかのう?」


 出迎えたアオイへと、老人はそう尋ねる。


「ええっと……来てないと思いますよ? ……多分」


 確か年配女性の一人客はいなかったはずだ。念のため店内を確認しながら、アオイはそう答える。


「そうか……どこに行ってしまったのかのう……?」


「お待ち合わせですか? そのうちいらっしゃると思いますよ? お席にかけてお待ちくださいね」


 少し落胆した様子の老人を見て、アオイは優しく席へと案内する。


「はい、こちらお冷とメニュー表です」


 メニュー表を受け取ると、老人はその右人差し指に唾をつけてからそれを開き、読み始める。よく見ると、そのメニュー表は上下逆さまになっていた。


***


 老人が逆さまのメニュー表を読み始めて30分ほどが経っただろうか? 店の誰もがオーダー待ちの存在をすっかり忘れていた頃。


「大将、注文いいかのう?」


「えっと……私……ですか……?」


 老人の目線が自分に向いていることを確認し、困惑しながらも応答するアオイ。


「大将は大将しかおらんじゃろう……? 不思議なことを言うもんじゃのう……」


「他に二人もいるんですが……。いや、そもそも大将じゃないんですけど……」


「すぐ近くにカリンちゃんもノアちゃんもいるのに……。何で私なんだろう……?」と、心の中で嘆くアオイ。傍らからは、カリンとノアからの「頑張りなさいよ」と言わんばかりの生暖かい目線が向けられていた。


「じゃあ大将、この天ぷら蕎麦を一つ」


 唐揚げプレートの写真を指差しながら、天ぷら蕎麦の注文をする老人。


「えっと……うち、天ぷら蕎麦は無いです……」


「なんと!? 蕎麦屋なのに天ぷら蕎麦が無いとな!? 変わった店もあるものじゃのう……」


「いや、うち蕎麦屋じゃないんです……」


 うちの何を見て蕎麦屋と勘違いしたのだろう? アオイは苦笑いで対応する。


「じゃあ大将、この天ぷら蕎麦を一つ」


 カルボナーラの写真を指差しながら、天ぷら蕎麦の注文をする老人。


「えっと……うち、天ぷら蕎麦は無いです……」


 麺類なだけさっきよりは天ぷら蕎麦に近いかなぁ……などと思いつつも、このやりとりが無限ループになることを悟ってしまったアオイ。


「なんと!? 蕎麦屋なのに天ぷら蕎麦が無いとな!? 変わった店もあるものじゃのう……」


「いや、うち蕎麦屋じゃないんです……」


 まるでロールプレイングゲームに登場する村人にでもなったかのように、同じ台詞を繰り返さざるを得なくなってしまったアオイ。その乾いた笑みの裏側では「私も天ぷら蕎麦食べたくなってきました……」と密かにお腹を空かせていた。

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