静かでうるさくて眠れない夜へ

ハナビシトモエ

立つ鳥跡を濁さず

 最後の夜だけは恋人らしいことをしようと現れた君はにこやかに言った。

 いくら連絡しても返ってこなかったLINE。

 もうこれで終わりか。三十を越えたし、親に紹介してもいいかなと思っていた。

 その恋愛なれはてが今終わろうとしている。


 思いっきり甘えてくる女の子だった。半同棲をしていて、週末だけ家族だった。平日も帰宅すると余韻が残っていた。脱いだままの靴下、乱れたベッドシーツ、濡れたバスルームの床。それでも顔を合わせるのはいつも土日祝。


 ただいま、おかえりの前に何が食べたいか宣言する女の子だった。焼きなすが食べたいと思って買って来たナスは冷蔵庫に仕舞われ、外にお寿司を食べに行くこともあった。三十になって回転すしか、甲斐性なし。そう言って君はマグロに舌鼓を打った。やっぱり寿司は回転に限るね。


 その寿司屋が二か月前に移転して、遠くに行ってしまった。

 もし寿司屋がいなくならなかったら、君は僕から離れなくなったのかな。


 出会いは友達にそそのかされるままに入ったマッチングアプリ。。そんな言葉が気にかかり、僕は課金をして君と連絡を取った。

 会う条件に映画館で同じ時間に同じ映画を観て、感想を言い合います。そこで相性が分かります。

 それはそうかと思った。アニメ映画で描写が美しい映画だった。マッチングアプリのダイレクトメールには「どうだった?」と来ていた。


 僕たちを繋ぎとめたのは。それ一点だった。


 後で彼女は回転寿司に行こうか迷っていたと言ったし、僕は朝ご飯を食べそこねたと言った。彼女は納豆巻きが嫌いで、僕はほぼ習慣になった納豆を食べる作業が苦手だった。


 今更、告白をしてお付き合いなんて子供みたいなことを三十の大人が言うもんじゃないと思っていてもつい離したくないと思った。彼女は結婚相手を探していないのだ。結婚を前提には重すぎるだろう。ある時、顔を見せあって会わないかという。そのころはLINEだったが、そんな誘いがあった。


 大阪駅の金時計の下で待ち合わせた。

 目の前に現れた彼女はどう見ても大学生こどもだった。人懐っこい笑顔に涼しげな淡い色のワンピース。



「行こうよ」


「でも」


「カツトシさんは法律とか気になる人?」


「いやだって」


「私、二十歳だよ。それにこんな昼間にデートしても大丈夫だって」



 そう言って、一夜をともにした。



「責任、取ってね」


「まずはそのお付き合いから、それで結婚を」


「だから、書いていたでしょう? 結婚はしないって」


「それは何か理由が」


「とくには」

 空を見上げ口を傾げた彼女は舌先を出して、うーんと間延びした声を発した。

「じゃ、結婚『仮』ならいいよ。カツトシさんの部屋に私は通う。土日祝は恋人らしいことをして、平日はフリー。私がどこで何をしていても文句は言わないし、私も言わない」

 それは半同棲というやつだった。



「食べたいことも、楽しい遊びも一緒に体験しないけど、休みの日に何でもさせてあげる」


「それはその。何かそういう」


「もうもしかして童貞だった?」


「別にそういうのでは」


「図星? 私、シャワーお先ね。童貞にしては頑張りすぎだぞ」



 バッティングセンター、プール、美術館、ウォーキング、映画鑑賞、演奏会鑑賞、まさかジェットコースターが乗れないとは思えなかったひらパー。一年のわずかな休みの間に思いつくデートスポットに行きまくった。もちろん眠った日もあったが、君の作るホットミルクは優しい味がした。


 何度か目覚めた時に、君が枕元で眠っていることも多くあった。夢は休日まで、平日の朝にはいなくなる。魔法のようだった。


 セックスは他の男が頭に入らないように叩きつけた。

 事後にやりすぎって怒られても気分が良かった。



 その時は半同棲から一年後にやってきた。多くの食材が無駄になったら辛いので、LINEで晩御飯の希望を問うようにしていた。スーパーでいくら待っても返信が来ない。

 何かあったかもしれない。買い物は中止にして、家に帰った。



 きれいに整頓された部屋。

 しわの無いベッドシーツ。

 酒瓶はまとめられ、冷蔵庫もきれいだった。

 君が好きで買いだめをしていたハーゲンダッツのラムレーズンも無かった。


 ただ漠然とその瞬間、何かが終わったのは明白だった。



 幾度も休日がやってきてもLINEに返信は無く、ネットではお先真っ暗の記事だらけで将来の約束をしていない半同棲も消えた。友達には相談出来ないプライドが邪魔をした。いつか帰って来ると思っていたからだ。

 LINEが来たのは半年も過ぎてからだった。一緒に買ったソファーを捨てるくらいふんぎりがついた頃だった。


「最後に恋人みたいなことをしませんか?」


 玄関を開けると君が床に座り込んでいた。

「グラタンが食べたい」

 君はいつも計画性が無いな。

「買いに行こうか」

 君は笑顔でうなずいた。



「カツトシさんは何が好きなの? 食べものだよ」


「ビーフシチュー」


「グラタンビーフシチューにしちゃう?」

 わいわい話していて、外は寒いはずなのに心は温かい。涙を僕はなんとか飲み込んだ。君が言うならこんな楽しい夜は今日で終わり。明日から、次の休日から君はいなくなる。



 グラタンをオーブンにグラタンの設定にして、僕はとろんとして眠そうな君を押し倒した。



「最後にしないのね」


「今日は最後でしょ」


「グラタン食べたい」


「君が欲しい」


「グラタンを食べたら、何をしてもいいよ」

 強引に口元をむさぼった。乱暴に服をはぎとろうとした。

「この服、カツトシさんがくれたんだよ。ここに置いて行って欲しくないでしょ」


「嫌だ。行かないで」


「ありがとう。好きでいてくれて、グラタンを食べよ」


 グラタンの味なんて覚えていない。

 セックスはせず抱きしめて眠った。


 君は朝、いなくなっていた。

 そういえば僕は君の名前を知らなかった。

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