深き眠りのささやき

kou

深き眠りのささやき

 夜半の風が音もなく影森の森を揺らしていた。

 町外れのその場所に立つと、空気が肌にまとわりつくような重さを持ち、鬱蒼と茂る木々の間からかすかに何かが囁くような音が聞こえた。地元の人々は、この森の存在を忘れ去るかのように決して語らない。

 だが、民俗学者の真田明は違った。彼はその場所に引き寄せられるかのように、影森村の謎に没頭していた。

「本当に、ここで村が消えたのか?」

 明は自らに問いかけながら、古ぼけた書物を手に取った。

 それは町の図書館の地下に長らく眠っていたもので、黄ばんだページの中に影森村の記述があった。ページをめくる度に、埃が舞い上がり、空気に歴史の匂いが染み渡る。そこには、異様な事件についての記録が綴られていた。


 影森村、一夜にして消失

 村は呪術師達が住まい、古代からの呪いを背負い《無名の神》を封印し続けるなり


 この一文を目にした瞬間、明の背筋に冷たいものが走った。

 村の消失は単なる伝説ではなく、何かもっと深い意味を持っているのではないか。彼は不意に心の奥底に眠っていた恐怖が目を覚ましたかのように感じた。

「《無名の神》だと?」

 その言葉は耳障りに響き、彼の頭にこびりついた。

 何かがこの土地に封じられている。

 それが真実だとすれば、なぜ村が消えたのか?

 そして、その存在が再び目覚めるのは、何を意味するのか?

 数百年の時を経て、封印された何かが動き出すという考えは、あまりにも現実離れしていたが、同時に明の好奇心をかき立てた。

 最近、町の地下で頻発する謎の振動や音――それが影森村の失踪と関係しているのではないかという考えが、彼の脳裏に浮かんでは消えた。振動は、まるで地面の下で何か巨大な生き物が蠢くかのようだった。

 影森村に関わる書物には、古代の儀式や洞窟の記述が断片的に残されていた。明はその情報を元に、地下洞窟の位置を突き止めた。

 それは町の外れ、影森村があったとされる場所の近くにある、誰も足を踏み入れたことのない、鬱蒼と茂る森の奥深くだった。

「行くしかない」

 彼は自らにそう言い聞かせた。

 洞窟へと足を踏み入れることで、彼の知識欲は満たされるかもしれない。

 しかし、同時にその先には、得体の知れない恐怖が待ち構えている。

 明は震える手でヘッドライトを点灯し、地下洞窟へと入った。

(まるで、何かに導かれているようだ)

 彼は心の中でそうつぶやいたが、すぐにその考えを振り払った。これまでの研究が彼をこの場所に導いたのであって、不可解な力ではないはずだ。

 だが、彼の足は知らず知らずのうちに早まっていた。心臓が胸の奥で鼓動を打ち、空気はますます重くなり、木々の囁きが一層強まっていく。

 洞窟に入ると、冷たい風が明の頬を撫でた。それはまるで、この場所に近づくなと警告するかのような風だった。

 彼は洞窟の奥へと足を踏み入れた。

 冷たい石壁に手を触れながら、明明は洞窟の奥へと進んでいった。

 足元には苔が生い茂り、長い年月を経た地下の空気は湿気と土の匂いを纏っていた。闇が重くのしかかり、光がまるで深淵に吸い込まれるかのように拡散し、遠くの様子は伺い知れない。

 やがて、視界の先に何かが浮かび上がってきた。

 古びた石造りの遺跡が、洞窟の奥に静かに佇んでいる。

 遺跡の中央には巨大な祭壇があり、その表面には奇妙な模様が刻まれていた。

 そこには、《無名の神》に対する儀式が行われていた痕跡が残っていた。

 石碑が並び、かつてこの地で何が行われていたのか、微かに伝わる。

 遺跡のあちこちにびっしりと彫り込まれた文字は、誰にも解読できない古代の言語だったが、その一つの石碑に刻まれた碑文だけは、まるで時を超えて明に語りかけてくるように、彼の目を引いた。


 この地に眠る者が目覚めれば、深淵より恐怖が這い上がる


「深淵。恐怖……」

 明はその言葉を呟いた。

 何かがここに封じられ、その封印が緩みかけている。

 祭壇の前に立つと、何か見えない力が彼の背筋を刺すように感じられた。足元がかすかに震え、地面から伝わってくる振動はまるで、何か巨大な存在が眠りから目覚めつつあるかのようだった。

「まさか、封印が崩れているのか?」

 恐る恐る祭壇に近づき、明は震える手でその表面を撫でた。

 石の冷たさが手のひらに伝わると同時に、低く鈍い振動がさらに強まった。洞窟全体が微かに揺れ、石壁からは砂や小石がぽろぽろと落ちてくる。

 突然、耳の奥で低くうなるような音が鳴り響き、頭蓋の中でその音が膨れ上がる。

 音はまるで耳鳴りのように脳内でこだまし、次第に複数の囁き声が混じり始めた。明は頭を抱えたが、その声は止まらない。


 来い…もっと奥へ…


 声は甘く、彼を引き寄せるかのように洞窟の深部から響いてくる。

 頭の中で交錯する警告と誘惑。

 明は戸惑った。逃げるべきなのか、それともこのまま奥へ進むべきなのか。

 彼の足は自然と動き出していた。

 好奇心が彼を支配し、奥へ奥へと引き寄せられていく。

 足元の振動はますます強くなり、洞窟全体が生き物のように蠢いているように感じた。

 岩壁に響く微かな音は、何かが目覚めようとしている予兆だった。

「何が、そこにいるんだ?」

 声が震える。

 心臓は激しく鼓動し、身体中の毛穴が開く感覚があった。洞窟の奥に進むたびに、圧倒的な存在感が彼を包み込んでいく。

 まるで、その場所に触れることで、禁じられた秘密を知ろうとする彼を責めるかのような力が、押し寄せてきた。

 明は、洞窟の深奥で地底湖に辿り着いた。

 暗い空間に広がる湖は、異様な静けさをたたえていた。

 湖面はまるで鏡のように光を反射せず、むしろそれ自体が闇を引き寄せるようだった。

 明は、息を呑み、足を止めた。

 湖のほとりに立つと、彼の視線の先に朽ち果てた家々が浮かび上がる。

 水没した屋根や壁は、長い年月に耐えかね、崩れ落ちたように見えた。

「これが、影森村」

 明の声は、虚しく湖面に吸い込まれた。

 村の家々は水の中で静かに横たわり、その姿はまるで死者の墓標のようだった。一夜にして村がいかにして消えたかの謎が解けた。

 だが、どんな《力》によって地底湖まで村を沈め、村に住む呪術師達を一瞬にして皆殺しにさせたのか分からなかった。

 明が目を凝らすと、湖の水面下から薄く漂う不気味な光がゆらゆらと揺れ動いていることに気づいた。

 冷たい光が、何か異常なものを予感させる。明の心臓は高鳴り、冷たい汗が背筋を伝う。

「一体、何が?」

 次の瞬間、湖の底からゆっくりと巨大な影が浮かび上がってきた。

 明の視界は闇に包まれ、その影の正体が目の前に迫るのを、彼の足は凍りついたように動けなかった。

 それは、目も口もない、形容しがたい巨大な塊のような存在だった。無数の触手のようなものが湖の水を波打たせ、ゆっくりと蠢きながら、明のほうへ向かってくる。

「なんだ……」

 彼の声は震え、喉が乾いた。

 巨大な影からは、地獄の底から響くような低い囁き声が流れ出し、それは明の頭の中に直接語りかけてくるかのようだった。

 囁きは次第に強くなり、彼の理性を薄皮一枚で引き裂くように、狂気へと引きずり込んでいく。


 来い…近づけ…


 囁き声は耳鳴りのように響き、彼を誘う。

 触手の動きはまるで水面を荒らす嵐のように見え、巨大な存在がゆっくりとその恐ろしい姿を明らかにしていく。

 明はその場から逃げ出そうとするが、足が動かない。

 囁きが頭の中を支配し、冷たい湖の水が足元を包み込むかのように彼の心を締め付ける。

「いけない。解けかかった封印を」

 突然、明は自分が見た碑文の言葉を思い出した。

 《無名の神》を封じるための儀式。

 しかし、その内容は断片的にしか頭に残っていなかった。理解をする前に、理解せぬままに数百、数千の呪文の羅列が明の頭の中で渦巻く。

「くそっ……! 思い出せ!」

 焦りが彼の胸を締め付け、鼓動がますます激しくなる。

 湖の奥深くから次第に巨大な存在が浮かび上がり、触手は湖面を越えて空中で踊り狂うように波打っている。

 彼をさらに奥へと誘う甘美な囁きが彼の頭を支配し始めた。


 全てを捧げろ…お前は封印を行う呪術師の最後の血…


 明は震える手で儀式を試みようとしたが、足元が崩れ落ち、身体がよろめいた。

 湖の水面に映るその巨大な影が、彼を見下ろし、支配するかのように迫ってくる。囁き声は耳の奥で爆発するように響き渡り、次第にその声が狂気じみた笑い声に変わっていく。

「やめろ!」

 彼は叫んだが、その声は湖に吸い込まれ、闇に飲まれた。囁きが狂気を呼び起こし、彼の意識は薄れていく。

 巨大な存在が、彼の精神を完全に支配しようとしていた。


 全てを捧げよ


 その瞬間、明の目の前が暗転し、意識は闇に飲み込まれた。彼の中で最後の理性が崩れ落ち、狂気の中で、自らを《無名の神》に捧げるような錯覚に陥っていった。

 囁き声に完全に支配された彼の意識は、もう戻ることができなかった。

 湖の奥から浮かび上がる巨大な影が、ゆっくりと明の意識を飲み込み、彼の存在を闇の底へと引きずり込んでいった。


 ◆


 町は再び奇妙な振動に包まれた。

 地面が微かに震え、不安定な波動が町中に広がる。

 建物の窓がかすかに揺れ、住民たちは原因のわからない不安に駆られていた。

 振動は強まり、まるで地下深くから何かが動き出すかのような気配が漂っていた。

 まるで町そのものが、その地下に眠る存在に取り込まれようとしているかのようだった。

 その時、振動が一気に激しさを増し、まるで町全体が地下から突き上げられるかのように揺れ動いた。家々の窓がガタガタと音を立て、家具が地面を滑るように移動した。

 振動も止まり、空気は再び静寂に戻ったかのように見えた。

 しかし、住民たちの心に残されたのは、果てしない恐怖だった。

 静けさを取り戻した町。

 それは、明が、再封印が成功したのか?

 封印が解けたことによる嵐の前の静けさなのか?

 まだ分からなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

深き眠りのささやき kou @ms06fz0080

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ