心臓の赤い音

歩歩


 林檎を投げつけたのはあなたですか、と彼は言った。テノールの、よく響く木の虚から発せられたみたいな美しい声だった。僕には彼の横からの姿しか見えていない。彼が何を感じ、どう思考し、どう言葉を発するのかも、僕にはまだ分からない。僕は横にいて、小さく座っているみたいなアングルからしか、彼のことを見ることはできなかった。


 もう一度言います、と横を向いた姿の彼が言った。


 林檎を投げつけたのはあなたですか。


 そうです、と僕は座りながら答えた。体育座りをして、手を膝の前で組んでいる。そうしていると落ち着くのだった。どうにか世界から自分を守れているような気がして。


 どうしてそのようなことをしたのですか。風のような涼しげな声がそう言った。


 僕は俯いたまま、答えなかった。答えることで自分の中の何かが、とても大事な何かが外に出てしまって、それを彼に食べられてしまうような気がして。


「心臓をください」


 彼の側を、臓器の売買で生計を立てている商人が、重そうな手押し車を押しながら通り過ぎる所だった。彼の片目しか開かれていない細い目が、濁った光を彼に投げかけた。


「心臓をください」


 あいにくと、……彼がその後に言った言葉は風に掻き消されて聞こえなかった。けれども彼の言葉を聞いただろう商人は、幾度か頷く素振りを見せた後、再び低く呟きながら車を引いて去っていった。


 心臓はひとつしかない、分かるかな。


 その彼の言葉には、奇妙な質量が乗っていた。少なくとも僕にはそう感じられたのだ。奇妙な質量は、言葉の中に黒い霧状になって内側からエネルギーのような物を発しているように見えた。


 返事をしてくれないのかな。


 僕は返事をするつもりがなかった。僕にも心臓はひとつしかない。彼に林檎を投げたのは、ひとつしかない僕の心臓を守る為だったんだ。その意識上の真実が、僕の頭の中いっぱいに広がり、僕は束の間そのことしか考えられなくなってしまった。


 気づけば彼は僕の側まで降りてきていて、ゆっくりとした動作で、僕の隣に座った。


 彼の顔を初めて見た僕は、顔が熱くなるのを感じた。とても綺麗な人だった。金色の髪の毛が、頭に被った緑色のマントの中で静かに揺れている。鮮やかな色々な色の宝石の耳飾りが小さな白い耳の下で陽の光で輝いていた。


 あの商人はもう来ないよ。もう大丈夫だ。


 僕は泣きそうになりながら、涙が目の淵に溜まっているのを知っていながら、それでも泣くことができなかった。泣きそうになる度に、それで彼のことを汚してしまったらどうしようと考えてしまうのだ。


 でも彼は僕の手を、白い柳のような大きくて優しい手で包み込んでくれた。とても温かかった。


 どうして僕に、林檎を投げつけたりしたんだい?


 僕は、僕はーー……。


 僕はその理由を話したかった。でも、彼のことを傷つけてしまいたくなかった。だから黙ろうとした。でも彼は、僕の掌から僕の意思を知ったみたいだった。僕の温もりがそうと教えたのだろう。彼は微笑みを浮かべながら僕のことを見ていた。僕は俯き、彼は見えなくなり、手だけが温かく、足の間の草の先には、真っ赤なてんとう虫が止まっていた。


 顔を上げると、強い風が吹いてきて、彼と僕の間をするりと駆け抜けていった。草が揺れて、たんぽぽが綿毛を飛ばし、瞬きをする間に、てんとう虫が目の前で飛び立った。


 彼の声が聞こえてくる。今度はとてもはっきりと、曖昧な黒いモヤなどなしに。クリアで、明滅する信号機みたいに具体的で新鮮だった。


「君は正直者だね。だから君なら大丈夫だ。僕にはそう言えるよ」


 彼はそう言うと、最後の風に乗って飛び立っていった。静かに、飛び立つ時の音もまるで聞こえてこなかった。てんとう虫と一緒に、彼も目の前からいなくなってしまった。


 僕はまた孤独を感じた。けれども手のひらの中には、彼の手のひらに包まれた時の温もりが、まだ寂しく残っていた。




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