波打ち際
倉元凌次の指摘を受けて、白野悠矢は、具体的かつ明瞭に話を始めた。話は、彼がS大学の三年生の時まで遡った。入学した時から、仲の良かった倉元英裡と、恋人として交際を始めたのが、大学三年生の春だった。ちょうど就職活動が始まる頃だった。英裡は希望する食品メーカーについて詳しくその事業内容を知っていた。
「この会社は、長年、乳幼児向けの離乳食を作ってきた。でも、少子高齢化の流れの中、需要が増加する高齢者向けの介護食を事業の柱にする大きな転換を図った。社運を賭けた勝負に出て、大きく成功した。今、更なる事業展開を目指している。進取の気性に富んだ会社よ。私は、そこが魅力なの」
経営学部の休憩室で彼女は語った。
「進取の気性か。良い言葉だな。君にぴったりの会社に思えるよ」
交際を始めたばかりの二人の会話には、初々しさがあった。
白野は英裡のように希望を持ってこの会社に入りたいという考えはなかった。彼には、あくまでも働き場所を探すのが就職活動であり、希望より諦めの感覚のほうが強かった。悲観的だが、特別な考え方でもなかった。期待に胸を膨らませるより、不満を抱えながらも妥協的に就職する学生のほうが一般的だからだった。
とはいえ、その考え方の違いは、四年生に入って就職活動が本格化していく中で、二人に大きな違いを生んだ。倉元英裡は、輝いていた。彼女は、洒落っ気はなくいつも気難しい表情をしていた。明るい印象ではない。それが輝いて見えた。一つも変わっていないのに。白野は、彼女には希望があるからだと分かった。食品メーカーに入るという希望。食品メーカーに入ってから、沢山の仕事を手掛けたいという希望。彼女には、これまでの地道な努力が、いよいよ花開く時が訪れた。
希望……。
僕には将来の希望なんてない。就職活動をしていて、「S大学の経営学部の四年生です」と言うと、試験官や面接官の顔が思わずほころぶのが分かる。だから、直接的な言い方になるが、一流企業に入れるだろう。でも、僕は、英裡のように輝くことはできない。何故なら、一流企業に入ったとしても、僕に希望はないからだ。
僕は英裡を愛している。淡い恋ではない。生涯をともに生きたい。でも、そうなると、僕は一生涯、輝き続ける英裡の隣で、くすぶり続けることになる。二番手は辛い。三番手、四番手より辛い。僕は男女平等主義だ。だから、英裡が輝くことは素晴らしいことだと思う。しかし、僕は悔しい。自分も輝けないことが悔しい。
輝くとは……。
僕は心の中に、小さな箱がある。箱は簡単には開かない。中には、僕が輝いてきた時代の思い出が沢山つまっている。輝きとは青春だ。但し、僕の輝かしい時期は、世間一般に認識されている青春時代と一致するが、青春は年齢に束縛されるものではない。その証拠に、英裡の青春はこれから始まる。そして、僕の青春は、就職活動とともに枯れていくのが分かる。僕の青春をこのまま終わらせないために。そして、英裡と同じく僕も輝き続けるために。僕は一つの大きな決断をしなければならない。
白野は、独自の理論を展開した挙句、倉元英裡にも相談することなく、突然、S大学の職員採用試験を受け、合格すると入職を決めたのだった。
白野の話を聞かされた倉元凌次は、先ほどよりは理解できたが、白野の思想は理解できなかった。食堂は暖房が効いてきて、暖かくなっていた。凌次は、コートを着たままなので、額に汗が浮かんでいた。しかし、コートを脱ぐのも忘れて、白野の顔を見ていた。義兄はナルシストかな? と思ったが、それは口に出さなかった。そして、
「義兄さん。僕には、恋愛や結婚のことは分かりませんが、今の話だと、義兄さんが、大学職員になったことにより、姉との生活は順調に続くはずではなかったんですか?」
と尋ねた。
「予期していないほどの速さで、急に彼女が前に進んだんだ。今年の四月だった。英裡は、新しいプロジェクトの一員に抜擢された。彼女の勤めている会社では、介護食の成功により、もう一度、離乳食の開発に挑戦することになった。離乳食は参入企業が多いから、競争が激しい。でも、だからこそ、やりがいがある。そう言って英裡は、新しいプロジェクトで更に力を発揮している。もう彼女は見えないぐらい遠くに行ってしまった」
白野の話を聞いて、凌次は頷きかけた。でも、おかしいと思った。
「義兄さんの話は物理的な距離の話じゃないですよね。気持ちの問題なのだから、義兄さんから歩み寄ればいいじゃないですか?」
白野は微笑んで言った。
「凌次君とは九月の終わりに会ったばかりなのに、急に大人になったね」
「義兄さんと話をしたお陰なんです。次の日から僕は毎日大学に行くようになりました。立ち直れたんです。だからこそ、義兄さんにも、姉と仲直りをして欲しいんです」
凌次は白野に一番言いたかったことが言えた。父と母が彼に言って欲しかったのもこのことだった。
すると、白野はまた難しいことを言った。
「仲が悪くなったわけじゃないんだ。さっき、凌次君は、物理的なことじゃなくて、気持ちの問題って言ったね。確かにそうなんだけど、そうじゃない面もあるんだ。僕は大学職員になって、自尊心をぎりぎり保てているんだ。それには物理的な影響も大きい。僕の人生のピークは大学の時だった。青春が最も輝いた時のことだ。学生時代、就職活動をしていて、最新の建築技術で建てられた大きな企業を訪問したり、その反対に、古い建物の企業を訪問したりした。でも、どの建物も僕の青春を維持してくれるとは思えなかった。そんな時、大学に入ってすぐに読んだ本のことを思い出した。ある思想家の本だった。その中に、『働くのに大切なこととして、建物の重要性』が挙げられていた。僕は、このことだったのだと思った。僕はS大学の敷地、建物の中でしか生きることはできない。つまり、S大学の中でしか、僕の青春は維持することはできないと気づいたんだ」
凌次は、延々と訳の分からない話をする白野に腹が立ってきた。
「だとしたら、義兄さんが青春を維持できるS大学の職員になれたんだから、やっぱり、後は気持ちの問題だけじゃないんですか?」
「凌次君。君が怒るのも当然だ。ただ、僕は、もう英裡に近づくことも難しいんだ。建物の問題を通り越して、英裡は、企業人そのもの、もっと言えば、僕の青春を奪う企業そのものなんだ」
「姉さんのことをモノに例えるな!」
凌次は、白野に怒鳴りつけると、食堂を飛び出した。
「凌次君!」と白野が止めるのも無視した。
凌次は食堂を飛び出すと、正門を出て、左に曲がった。あの宅地のある方角だった。
宅地の中にある公園のベンチに凌次は一人で腰かけていた。食堂の暖房が暑くて汗をかいていたのがひいた。まだ雪が降っていた。積もるほどではなかった。凌次は、気づいていた。義兄の話は、嘘ではないが、全てがレトリックだということに。
少しして、白野が公園に現れた。そして、座っている凌次の前に立ったまま話した。
「大学の職員になってから、毎年、同じことを思うんだ。三月の卒業式の時、卒業していく学生たちを見ていると、これから、厳しい社会を生き抜いていけるのかと」
凌次はもう気持ちが落ち着いていた。
「大学の職員だって大変だと思います。こうやって年末も働いているし、人間関係だって難しいと思いますが?」
「もちろん、大変なことも多い。でも、自分のことよりも、やっぱり、卒業していく学生の将来が心配さ。何故なら、僕も、大学の人間だから。三月には、いつもこんな光景が心に浮かぶんだ。ウミガメが砂浜に産んだ卵から子ガメが孵る。子ガメは砂浜を歩いて、波打ち際にたどり着く。すると、そのまま波にさらわれるように海に消えてしまう。果たして、大海の中でどれだけの子ガメが無事に成長して生きていけるのか。その光景が、卒業生が社会に向かう姿に重なってしまうんだ。凌次君。君が卒業する時にも、僕は同じことをきっと思う。S大学とかV大学とか、そんなことは関係ないんだ」
白野も、落ち着きを取り戻していた。素顔の義兄だった。
凌次はそっと尋ねた。
「姉さんとはやり直せないんですか?」
白野は空を見上げて言った。
「お互いに意地っ張りだから。気づいたら、驚くほど、気持ちが離れていたんだ。何とも言えないけど、とにかく努力してみるよ」
積もるほどではないと思っていた雪が急に本格的に降ってきた。凌次と白野は、慌てて大学のほうへ向かった。白野は大学の正門から事務所に戻っていった。スーツの肩の辺りが濡れていた。凌次は雪を払ってからバスに乗った。十二月二十九日から降り始めた雪は大晦日まで降り続いた。バスの窓から雪空を眺めながら、凌次は大役を果たせたことにほっとした。やはり、一筋縄ではいかない人だった。
年が明けてから、凌次は気づいた。圧迫感が消えた。彼は、もう義兄を典型とする必要がなくなったと思った。姉は、しばらくして、借りていた部屋を引き払い、再び義兄と一緒に暮らし始めた。その後、凌次は、一度、電話で姉と話した。姉は、ひと言、「ありがとう」と言った。
完
波打ち際 三上芳紀(みかみよしき) @packman12
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