義兄3

圧迫感に挟まれながらも、倉元凌次は、大学に通い続けた。理由は、『社会に出たくない』という自分を克服するためだった。彼は、姉のように何事にも真面目に取り組むほうではない。怠惰な面があることも否めない。それにしても、無意識的にでも、留年をするために大学を欠席していた心の内を知り、彼はショックを受けた。そして、そういう自分を良くないと否定した。「大学は四年で卒業すること」「社会に出ること」を彼は自身に誓い、大学に通っていた。


彼に圧迫感の半分を与えたとも言える白野悠矢のことを、彼は以前から、自分にとっての男性の典型として捉えていた。「僕も義兄のような大人になりたい」と指針にしていた。彼には姉はいるが兄はいない。父を典型とするには抵抗がある。真面目だが、面白みのない人物だ。そんな風に男性の典型を探していた凌次の前に、白野悠矢が現れた。彼が指針にする人物としてぴったりだった。彼が中学の時だった。


凌次は中学の時、初めて白野に会った。学生時代、既に人間形成ができていた姉と比べても、もっと大人に思えた。今も、二十七歳という年齢から考えると、その落ち着きぶりは、少し老成しているかのようである。但し、そのために、凌次は、白野と話をすることに緊張を覚えた。だから、これまで、まともに話をしたことがなかった。それが、先日、姉のことで意を決してS大学に行き、初めて、白野と二人きりで話をした。しかも、夫婦の問題という深刻な内容を話した。凌次は、その時、自分が大人になった気がした。彼は、そのことを、白野、つまり、彼の目指す典型に自分が近づけたと解した。その自分を維持したかった。大学をまたサボってしまったら、全てが元の木阿弥になる。そんな風に考え、彼は大学に通っていた。


時に、彼は、こんなことを考えた。真面目に大学に通えば通うほど、実社会への距離が近づく。そのために、圧迫感は増すことはないのだろうかと。だが、今のところ、それは感じなかった。それよりも、白野に近づけた自分を維持したいという思いが優先しているようだった。


そんな風にして凌次が、勤勉に毎日を過ごしていたある日、大きな出来事が起こった。姉が義兄と別居をしたのである。十二月に入ってすぐのことだった。結婚した時から住んでいるマンションを姉が出た。姉は別に部屋を借りて、一人で住み始めた。

「別居したら、実家に帰って来るんじゃないの?」

「近所の目があるでしょ。この辺りには色々言う人が多いから」

凌次の素朴な疑問に母はそう答えた。


凌次は、やはり、夫婦の問題は、宿題なんて言葉で片づけられるものではなかった。と、義兄に軽い失望を覚えた。そして、姉が、一人で暮らすことを選んだことに寂しさを感じた。


しばらくして、彼は母から頼まれた。白野に会って、姉との間がどうなっているのか、別居に至った経緯、二人はこれからどうするつもりかなどを訊いて欲しいと頼まれた。そんな大役は引き受けられないと断ると、母は言った。「英裡のところに行っても、何も言わないのよ。気丈な性格だから、自分一人で乗り切ろうとしているのが分かる。ああいう風に育ててしまったのは、私たちだから、今更どうにもならないことは分かってる。でも、悠矢さんに訊けば分かるはず。だから、凌次に悠矢さんのところに行って、話を訊いて来て欲しいの」

「母さんと父さんが行くべきだよ」

と彼が言うと、

「父さんも母さんも、悠矢さんと話をするのが苦手なのよ。あの人、頭がいいから、話をしていると、何だか私たちが馬鹿みたいな気になるから」

そう母が答えた。

その答えを訊いて、凌次は、母の頼みを引き受けることにした。

九月の下旬に凌次が誰にも言わずに白野に会いに行った時、実は、彼も同じ思いを抱いていた。そして、あの時、その思いに襲われなかったことが、彼の今の自信に繋がっている部分が少なからずあった。凌次は母の言葉に同情した。


凌次が白野に会ったのは、それから、随分と日が過ぎて、年末の二十九日だった。大学職員も年末は忙しい。二十八日の仕事納めまで休みなしだった。二十九日も、冬休みに入って時間ができたのではなかった。その日も仕事だった。白野は学生課の事務所の日直だった。「S大学の学生課の事務所で一人で日直をしている。他人に聞かれる心配なく詳しい話ができると思う。だから、二十九日に大学に来て欲しい」と白野のメールに説明があった。


その日の午後、倉元凌次は、厚手のコートにマフラーと手袋をして家を出た。凌次はバスに乗ってS大学に向かった。二時に会う約束だった。バスに揺られながら、この前、白野に会いに行った時は、Tシャツにサンダル姿だったことを思い出した。彼は月日が流れる早さを感じた。高台を上るにつれ、バスの窓に雪が当たるようになった。S大学のある高台の上は街中より気温が低いということを彼は知っていた。だから、厚手のコートにマフラーと手袋をしてきた。姉がS大学の学生時代、そのことを話していたのを覚えていた。姉が別居をしてから、凌次は姉に会っていない。困難な状況にある時ほど、姉は力を発揮する。実際、一人で生活している姉に会いに行っている母に聞くと、その通りだった。凌次は、窓の外を眺めながら、姉らしいと嘆息した。


二時前にS大学に着いた。バスを降りると冷たい風とともに雪が凌次の顔に吹きつけた。彼は慌てて正門を通って、学生課の事務所まで走った。ドアを開けると中に入った。事務所のカウンターの奥に白野悠矢がいた。机について書類を見ていた。

凌次に気づいた彼は立ち上がり言った。

「凌次君。年末に、わざわざ、大学まで来てもらって申し訳ない。忙しくて、結局、この日しかなくて」

凌次は、別居をしたことで、白野に何か変化があるかと思い、彼を見た。特に変わったところはなかった。髪はいつも通り綺麗に整えられ、濃い茶色のスリーピースのスーツを着ていた。


白野はカウンターの中から出て来ると、凌次を連れて同じ建物の奥にある食堂に向かった。食堂は大学の来訪者と大学職員が中心に利用している。食堂も休みに入っていた。白野は、手慣れた様子で食堂の照明とエアコンのスイッチを入れた。食堂は学生課の事務所と同じくらいの広さだったが、冬休みで誰もいないため、もっと広く感じられた。白野は食堂の入り口にあるカップベンダーで、コーヒーを二つ買った。音のない食堂にわずかな間だけ、コーヒーを入れる機械の音が響いた。


白野は食堂の真ん中辺りの席に座った。

「ここは暖房の風が来るから暖かい。ここで話そう」

凌次は白野の向かいに座った。しっかりと防寒対策をしてきた彼は、屋内であれば、特に寒さは感じなかった。しかし、一応、「ここなら、寒くないですね」と返事をした。

凌次は姉が頑張って働いていること、一人での生活を送っていることを伝えた。

「姉は、一人で乗り切ってしまう強い人ですが、それは、決して、良いことだとは僕は思いません。困難を乗り越える都度、過度に強くなってしまう。つまり、人間に必要な弱さと優しさを失うと思うからです」

「それは、代償が大きすぎるね」

「義兄さん! 義兄さんも当事者なんですよ。何故、二人がこんなことになったのか話してください。コミュニケーションが上手くいかないとは、どういうことですか?」

傍観者のように呟く白野に凌次は思わず大きな声を出した。

凌次は、特に姉の肩を持つつもりはなかった。だが、白野の当事者意識の低さに苛立ちを感じた。それは、先ほど会った時から感じていた。別居という事態に至っても、いつも通り、こざっぱりとして健康的な白野を見た時から、苛立ちを感じていた。でも、今、大きな声を出してしまってから気づいた。姉と義兄を公平に見ているつもりでいたが、実は、姉のほうを贔屓していた。血は水よりも濃い。当たり前のことだった。もし、特別な事情もないのに実姉より義兄の肩を持つことがあるならば、それは、よほど義兄に傾倒している場合だろう。自分の場合、そこまでの傾斜はない。そう気づいた上で公平に見ると、義兄も平静を装ってはいるものの、内心は動揺していないはずがないと、凌次は気づいた。

そこで、白野に言った。

「姉が仕事だけに没入するようなことはありませんでしたか?」

白野ははっとしたような表情を一瞬、浮かべてから話し始めた。

「英裡が、頑張りすぎるのは、学生時代から分かっている。だから、大丈夫なんだ。いつも、彼女は前に進もうと懸命に努力している。とても健全なことだ。問題は僕にあるんだ。僕は人生を前に進まないように生きている。ただ、後退しようともしていない。僕は、努力してある一点から前に進みすぎないよう、後ろにも戻らないように生きている。そして、彼女は前に進んでいる。大学時代の二人に、既にそのスタンスの違いがあった。でも、二人の間には、まだ大きな開きは生じていなかった。だから、同じに見えた。社会に出た頃から、二人の間にある開きは大きくなっていった。そして、結婚した。ある日、英裡は気づき、愕然とした。僕は黙った。僕は都合が悪くなると黙る。都合が悪くなるとお喋りになる人間もいるけど、僕は黙る。英裡は僕に尋ねることを諦め、出て行った」

白野の話を聞いた凌次は、冷静にこう言った。

「義兄さん。一生懸命に話してもらったのに申し訳ないですが、僕は、帰ったら、両親に義兄さんの話を伝えなければなりません。でも、今の説明では、父も母も、全く理解できないと思います。何故なら、僕にも全く理解できないからです。僕らにも分かるように、具体的かつ明瞭に姉とのことを説明してください」

それを聞いた白野は自嘲的に呟いた。

「誰にも話したことがないことを打ち明けると、自ずと独りよがりになるんだね。伝えることを意図していないからだろうか……」

それから、彼は、ようやく凌次にも理解できるよう再び話し始めた。


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