義兄2

昼飯を食べ終え、定食屋を出た。白野悠矢は、大学とは反対の方向に向かって歩き始めた。倉元凌次は、どこへ行くのだろうと思った。高台の上は大学以外何もない。しばらく歩くと宅地が見えてきた。広大な土地には、一つも建物はなかった。

「建売住宅用に大手の建設会社が、この辺りの土地を買った。でも、ずっと放置されたままなんだ。買い占めてから、こんな不便なところに住む人はいないって気づいたんだろう。宅地の中に公園がある。そこで話そう」

凌次は、白野の説明を聞いて分かった。

凌次と会っているところを大学関係者に見られたくない。それ以上に、凌次との会話を聞かれたくない。だから、白野は公園に向かっているのだ。学生課の事務所の建物の中にも、食堂がある。それなのに、わざわざ、大学を出て定食屋に入ったのも同じ理由だったのだ。凌次は、義兄の職場に夫婦の問題を忠告しに訪れた自分のデリカシーの無さを、今更ながら、反省した。でも、家族に知られず義兄にだけ会えるのは、ここしかないから、仕方がなかったと思った。


小さな公園が宅地の中にあった。新しい家が建ち並び、住宅街を形成した時のことを想定し、あらかじめ作られた公園だと分かった。公園にはブランコも滑り台もなかった。ベンチしかなかった。空疎な公園だった。


ベンチに並んで座ると、白野は広い宅地を眺めながら話した。

「英裡が、お義母さんに相談している内容を教えてもらったけど、今、驚いてるんだ。僕が家では話をしないとか、コミュニケーションが上手くいっていないとか。彼女が、そんなことで、わざわざ、お義母さんのところには行くはずがないと思ってた。でも、”そんなこと”で片づけられることじゃなかった」

「義兄さんが考えていたより深刻なことだったということですか? 僕も、そういうことはよくあることだという前提で話してしまったから……」

凌次が言った。

「僕と英裡の問題だから、凌次君が分からなくて当然のことだ。それより、わざわざ、訪ねて来てくれて、ありがとう」

あまり立ち入るのは良くないと思いながらも、突然、話を切り上げようとする白野に対して、続けて凌次は訊かざるを得なかった。

「何があったんですか? 姉と喧嘩をしてお互いに口をきかないとか、そういうことですか?」

白野は宅地のほうを見たままだった。しばらく沈黙があった。それから、こう言った。

「凌次君。大学に行ってないだろ?」

凌次は驚いて隣に座る白野を見た。それから、

「行ってません。どうして分かったんですか?」

と尋ねた。

彼は前を見たまま話した。

「他の大学に来るのに、服装が弛緩しすぎているよ。V大学に通学する時にしても、弛緩しすぎている」

凌次は、白野の話を聞いて、改めて、着ているTシャツを見た。洗いすぎて色褪せしたTシャツだった。襟も伸びていた。

「さすが、大学職員ですね。自分でも、さっき気づきました」

白野に話を逸らされたと思いながらも、凌次は納得した。


白野は腕時計を見た。そして、立ち上がった。凌次も立ち上がった。

「凌次君は大学にちゃんと行くこと。僕は英裡とのことをちゃんと解決すること。お互いに宿題ができた。次に会う時に解決しているといいね。じゃあ、昼休みも終わるし、僕は学生課に戻るよ」

白野はそう言うと大学に戻る道を歩き始めた。凌次も並んで歩いた。正門の前まで来ると白野は、「今日はわざわざ、ありがとう」と言って学生課に戻っていった。凌次は彼を見送るとそのままバス停まで歩いた。少ししてバスが到着したので乗車した。

バスの中で彼は考えた。

『僕の問題は宿題を片づけるようにいく。四の五の言わずに大学に行けば解決する。でも、義兄と姉の問題は、そうはいかないはずだ。夫婦間の問題。しかも、義兄も姉も気難しい。それなのに、宿題だなんて』

凌次は高台を下りるバスの窓から外を眺めていた。斜めに見える風景と釈然としない気持ちが重なった。


それでも、倉元凌次は、翌日から大学に行くようになった。途中で、また行かなくなるのではないかと彼自身、自分に疑いを抱いていた。でも、真面目に通い続けて、一カ月が過ぎた。義兄の指摘がきっかけで、凌次は、大学に再び通うようになった。学校をサボりながらも、彼自身、内心は、焦っていた。しかし、焦れば焦るほど、かえって、大学から足が遠のくという悪循環に陥っていた。そこに義兄のひと言があり、凌次は悪循環から抜け出せた。大学で講義を受けながら、彼は、義兄の白野に感謝した。また、「情けは人のためならず」とは、こういうことを言うのだろうかと思ったりもした。午前中の講義が終わった。凌次は、この日は、この授業で終わりだった。帰ろうとすると、柴沢という同級生が声をかけてきた。

「倉元。この前、僕は、留年が決定してるって言ってたけど、本当なのか?」

と、彼は言った。


ひと月前、大学に戻った時、凌次が言ったことだった。何人かの友だちが、久しぶりに現れた彼のところに集まってきた。そして、凌次が予想していなかったほど彼のことを心配した。「倉元。どうしていたんだよ?」と。ただ、サボっていただけの凌次は、心配する友だちに対して、申し訳ない気持ちになった。

そこで、

「これまで、いい加減な気持ちで、大学に来ていた。だから、休んでばかりで、結局、留年が確定してしまった。まさに自業自得だ。でも、これからは、そのことを戒めにして、五年かかっても、必ず、卒業する」

というようなことを言った。実行できるか自信はなかった。でも、凌次は言わずにはいられなかったのだった。


彼はあの時のことを思い出しながら、柴沢に言った。

「だって、僕ぐらい単位を落としていれば、留年は確定だろ?」

「それって、倉元の思い込みで言ってるんじゃないの? 学校に確認した?」

「そう言われてみれば、特に根拠はない」

柴沢に言われて、凌次は気づいた。

「社会学部の学生課に確認に行こう」

柴沢に連れられて、凌次は、学舎の前にある学生課の事務所に確認に行った。昼休みの時間帯は、いつもは学生で混んでいる事務所が、この日は空いていた。年配の男の事務員が、倉元凌次の成績を、パソコンの画面で確認した。それから、受付で待つ二人のところに来て言った。

「今後も欠席が続けば、留年が確定するのは当然です。でも、現時点でのあなたの取得単位数は、平均より低いですが、そのことが、留年を確定させることにはなりません。四年で卒業できる可能性のほうが高いです。おそらく、大学に行っていない。単位が取れていない。そういうあなたの恐怖心が、留年確定という思い込みに繋がったのだと思います」


柴沢とともに凌次は、事務所を出た。

「確認して良かっただろ? 留年どころか、普通にやっていれば四年で卒業できるって分かった」

「柴沢。わざわざありがとう。人間の思い込みって怖いな」

そんな会話を交わした後、柴沢は午後からも講義があるので、学舎に戻っていった。凌次は門を出ると、家に帰るのにバス停に向かった。凌次は、先ほどの事務員の話を聞いて、喜んではいない自分に驚いていた。驚きのあまり、大学の付近で昼飯を食べるつもりだったことすら忘れていた。


凌次は、留年はしない。四年で卒業できると聞いた時、圧迫感に襲われた。それは、自分が思っていた五年ではなく、四年で卒業しなければならないことに。つまり、一年早く社会に出なければならないことに圧迫感を覚えた。この圧迫感は、前方から襲ってくるものだった。後方からの圧迫感もあった。それは、白野と約束をして、大学に復帰したことによる圧迫感だった。義兄に背中を押してもらって復学できた。ということは、学校を休むことにより、現実から逃避することは、もうできないということだった。


眼前に迫る実社会の圧迫感と、背中を押した白野の存在という圧迫感に挟まれて、倉元凌次は、全く逃げ場のない状況というものを初めて知った。そして、この時、大学入学以来、自分でも分からなかった、学校を休み続けた理由が、初めて分かった。意外なほどオーソドックスな理由だった。『社会に出たくない』。ただ、それだけだった。大学に行かなかったのは、無意識的に、留年を確定させるためだった。五年にとどまらず、六年でも、七年でも、留年するつもりだったのかもしれない。


そして、凌次は、こんなことを考えた。大学に行かない後ろめたさは、確かにあった。だから、白野に指摘されて、再び大学に行くようになった。自分は白野に感謝した。でも、自分の本当の思いは、留年をすることだった。それならば、白野のしたことは、自分の意に反していた。柴沢は、留年確定だと思っていた自分に、四年で卒業できることを教えた。もし、彼が学生課に自分を連れて行かなければ、五年も大学に行かなければならない-と思い込んでいた-ことに、嫌気がさして、また大学に行かなくなったかもしれない。そうすれば、本当に留年して、実社会への参加をずるずると遅らせられたかもしれない。


「そう考えると、白野も柴沢も、自分に余計なお節介をしただけなのかもしれない」


これが、倉元凌次の全てではない。でも、甘やかされて育った彼には、確かに、こういう面があった。但し、救いは、彼は淡白な性質の人間だった。帰りのバスの中で、空腹に気づいた彼は、同時に、二人への筋違いな恨みも消えた。それから、消えずに残っている自分の本質だけを彼は見つめた。

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