波打ち際

三上芳紀(みかみよしき)

義兄

大学の講義をサボって倉元凌次は、居間の床に仰向けに寝転がっていた。凌次は大学をよく休む。休んで特に何かをするわけではなかった。今日は姉が来ていた。隣の座敷で話をしている母と姉の声が聞こえてきた。狭い家だから、話の内容まで分かった。姉の話は結婚生活の不満だった。夫への不満だった。それを母に訴えているのだった。最近、姉は、よく母に同じ訴えをしに来る。


凌次は話を聞きながら、結婚生活とは、こういう風に、定期的に、“ガス抜き”をしながら、騙し騙し続けていくものなのかもしれないと思った。しかし、それは多分にステレオタイプな結婚像だと思い直した。特に姉の場合には、そうならないはずだった。姉は、子どもの頃から、弱音を吐かないし、愚痴を言わない。それが良いことなのかどうかは別にして、そういう人間だった。だから、凌次は、事態は外形以上に深刻なのではないかと思った。


倉元凌次の姉英裡は、凌次より七つ上の二十七歳だった。七つ歳が離れているため、凌次が二十歳になった今も、姉は凌次のことを子ども扱いしている。しかし、凌次にしてみれば、姉の英裡の話の内容について、彼なりの分析をしているし、そこには、一定の妥当性があると考えていた。


姉の英裡は、S大学を四年前に卒業して、介護食を主とした新興の食品メーカーに就職した。今は、営業企画部で忙しく働いている。英裡がS大学に進学した理由は、父の考えによるものだった。

「大学に進学するなら、S大学しか認められない。我が家には、子どもに下宿生活をさせるだけの経済的な余裕がない。だから、地元の大学への進学しか認められない。その上で、地元の大学の中でも、就職率が高いS大学しか認めない。ただ、何となく大学へ行くのなら、高校を卒業してすぐに働きなさい」

父の言葉に反論の余地はなかった。


父の言葉に従い、英裡は、S大学の経営学部に進学した。そして、その七年後に、弟の凌次が、S大学ではなくV大学の社会学部に進学した。V大学はS大学より入学しやすいが、就職率は良くない。つまり、V大学は、あまり評価の高くない大学だった。彼の父の考えに沿っていない。S大学ではない。凌次はS大学を受験して落ちた。にもかかわらず、凌次がV大学に進学できたのは、姉と七歳離れた末っ子だからだった。何事につけ、両親は凌次に甘かった。厳しく育てられた姉に対して、凌次は、緩やかな成長期を過ごした。そのことが、姉が現実的な大人になったことと、凌次が、現実性に乏しい青年になったことに少なからず関係していると思われた。


姉の夫は白野悠矢といった。白野は、S大学の学生課の職員だった。凌次は、明日、S大学に行って、義兄の白野に会おうと思った。これまでは、姉と義兄の当事者間の問題として立ち入らないようにしてきた。しかし、義兄に会って、直接、話をするべきだと彼は考えを改めた。


翌日、倉元凌次は、バスに乗ってS大学に向かった。姉と義兄が交際を始めたのは、二人がS大学の学生の時だった。白野も英裡と同じ経営学部の学生で、二人は同級生だった。ある日、英裡が白野を家に連れて来た。両親に合わせるためであり、将来的に結婚を考えている相手だということを伝えるためだった。姉はそういうことを口にはしなかった。でも、父にも母にも、そして、その頃、まだ中学生だった凌次にも、白野をひと目見て、姉の伝えたいことが、はっきりと分かった。それは、白野悠矢が優れた若者だったからだ。聡明さ、誠実な人柄、落ち着いた様子。それに容姿も優れていた。白野を通して姉の確信が伝わってきたのだった。中学生の凌次には、背の高い白野が、あまりにも大人に思われて、挨拶もできなかった記憶がある。


姉と義兄が、結婚したのは三年前だった。その時、両親も凌次も、改めて、不思議に思ったのは、白野が、一般の企業ではなく、S大学の学生課の職員になっていたことだった。英裡と同じ経営学部なのだから、民間企業に就職すると思っていた。それが、何故、大学の職員になったのか? 父も母も、白野にその理由を訊きたかった。白野の家は、倉元の家と同じ普通のサラリーマン家庭だった。白野の両親にも、何故、白野が大学職員になったかが分からなかった。やや困惑しているようにも思われた。だから、父と母は、白野に直接訊こうと思った。


しかし、白野には、決して、他人には立ち入らせない心の領域ともいうべきものがあった。白野は英裡と同じように就職活動をしていた。それが、突然、S大学の職員採用試験を受けた。そして、合格すると入職を決めた。英裡には全て事後報告だった。事後報告だったことに英裡は怒った。しかし、それより、何故、突然、民間企業から大学職員に進路を変えたのか? 大学職員が悪いというわけではなく、その理由を知りたいと英裡は言った。だが、その点については、恋人の英裡にさえ、白野は答えなかった。英裡は答えない白野に不信感を抱いた。でも、S大学の職員になること自体には、特に反対する気持ちはなかった。だから、彼女はそれ以上、追及するのを諦め、分からず終いになった。父と母はその時の白野の頑なさを覚えていた。娘でさえ無理だったのだ。父と母は、白野に訊くのをやめた。一見、穏やかな人柄の白野には、こういう難しい面があった。


バスはS大学の正門前のバス停に着いた。S大学は街の高台にある大きな大学だった。凌次はバスを降りると大学に向かった。学生課の事務所は正門を入ってすぐのところにあった。広くて清潔な建物だった。V大学の社会学部の学舎より大きい気がした。

「うちの大学の校舎より、この事務所の中で勉強したほうが、勉強が、はかどりそうだ」

凌次は、半ば本気でそう言った。

でも、実際には、彼は、今日も講義をサボってここに来た。彼が、大学に行かない理由は、彼にもよく分からなかった。だが、欠席が多いために、単位が著しく取得できていないという現実がある。そのことを考えた時、彼は、姉のためとはいえ、S大学に来ている場合ではなかった。


倉元凌次は、いつもかけているショルダーバッグからスマートフォンを取り出し、白野にメールをした。家を出る前、白野にメールを送ると、「十二時近くに事務所の前に来てくれ。着いたら、もう一度、メールを送ってくれ」とあった。そこで、今、メールをした。少しして、白野悠矢が事務所から出て来た。


「凌次君。久しぶり。今日は、どうしたの?」

白野は、白のワイシャツにグレーのネクタイを締め、紺色のスーツを着ていた。髪には綺麗に櫛が通っていた。清潔な男だった。凌次は、九月の下旬になっても、まだ暑いので、Tシャツにサンダル姿でS大学に来たのだが、白野を見て、もう少しきちんとした格好をしてくればよかったと後悔した。

「姉のことで、ちょっと」

凌次の言葉を聞いて、白野の表情が少し曇った。

「昼飯を食べに行こう。それと、昼休みは一時間だから、あまり内容のある話はできないと思うけど?」

「ええ。構いません」

二人は大学の正門を出た。


正門から少し歩いたところにある定食屋に入った。それほど混んでいなかった。二人は、隅のテーブル席に座ると、日替わり定食を頼んだ。

二人は、日替わり定食の野菜炒めを食べながら話をした。

「姉は、意固地なぐらい弱音を吐かないんです。それが、義兄さんのことで、頻繁に相談に来ます。話の内容よりも、僕は、姉が母に相談をしていること自体を心配に思っています」

「そのために、わざわざ、僕に会いに来たの? 心配をかけて申し訳ない。それにしても、凌次君はお姉さん思いだね。ところで、英裡がお義母さんに相談している話の内容って? 教えてもらえると有り難いんだけど?」

「義兄さんが、家では話をしないとか、コミュニケーションが上手くいっていないとか、そんな話です。だから、内容は、特に驚くものではありません」

凌次は、義兄の白野とこうやって、対等に話をしていることに、ある種の感慨を覚えた。初めて会った時、挨拶もできなかった白野と話をしている。しかも、話題は姉との夫婦関係についてだ。彼は自分が急に大人になった気がした。


ところで、凌次は、姉のことを心配して、今日、白野に会いに来た。彼の本心だった。でも、昼休みの一時間だけで話し合えるような内容でないことは、彼にも分かっていた。だから、もう一つの本心として、彼は姉のことを口実に義兄の白野に会いに来たのだった。凌次は、現実社会について分からないことだらけだった。姉のように生きる厳しさがないから。そのことは自覚していた。ただ、それは彼だけの責任ではなかった。彼を甘やかした両親にも大きな責任があった。しかし、彼は両親に責任を押しつけるつもりはなかった。問題は自分自身で解決しなければならないことは分かっていた。でも、大学の必要性とは何か? あるいは、未来とは何か? というような、大きく漠然とした命題をどう解決していいのか分からなかった。その他、人は何故、生きるのか? など、彼は世界の原理ばかり問うている。彼が青くさいほどの二十歳の若者である証だった。


そして、彼は、白野なら、その答えを自分に教えてくれる気がした。何故、そう思うかは、彼にもはっきりとは分からなかった。ただ、両親にも、姉にも、友だちにも答えられないが、白野だけは、その答えを知っている気がした。その理由は、強いて言えば、白野だけが、凌次と同じで、現実社会から少し遊離してしまっているように見えるからだった。凌次と同じ“非現実性”を白野も抱えている気がしたからだった。


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