月光にあなたを

oʞɐuı̣H

第1話

 新菜わかな澤村梓さわむらあずさと出会ってから、かれこれ十年が経とうとしている。


〇 〇 〇 〇


 菅宮かんみや家は代々地主で、莫大な資産を抱える国内有数の富豪だった。黒塗りの瓦屋根に、漆喰で塗り固められた壁。門扉には鋭い返しが一面に牙を剥き、どの窓にもしっかりと鉄格子がはまっている。まるで要塞のように堅牢なこの邸は、異形いぎょうの侵入を何としてでも防ぐために作られた。


 夜になると異形が出る。


 姿かたちは様々で、どこからともなく現れては人を襲って喰い殺す。だから日が暮れたら誰も外に出てはならない。強固な守りが施されたこの邸で生まれ育った新菜にはうわさで聞いたことしかないが、異形は家の中にも平然と入ってくるそうだ。生まれてこのかた片手で数えるほどしか異形を見たことのない新菜でも、異形の恐ろしさはよく知っていた。


 学問所の先生がむしに喰われた、と聞いたときは夜も眠れないほど恐ろしかった。異形の中でも特に小さいものは蟲と呼ばれ、大型に比べればその差は歴然としている。それなのに先生が喰われるなんて――。夜になると狂ったように泣き叫び、日が昇っても家から一歩も出ようとしなくなった新菜に困り果てた両親が、都から呼び寄せたのが澤村梓という少女だった。


 その強さゆえに護衛の依頼の絶えない侍と聞いていたから、てっきりいかつい巨漢がやってくるものだとおびえていた。どきどきしながら両親との挨拶を済ませた侍に会いに行ったら、案の定新菜は拍子抜けすることになる。


(猫みたいな子だな)


 ぽかんとしながら梓と向かい合った新菜は、そんなことを思った。


 腰のあたりまで伸びた黒髪を耳の上で一本にまとめた、少し皺の寄った袴姿の侍はどうみても12やそこらの女の子だった。目にかかりそうな前髪の下に見える瞳は大きく、色白の肌には血の気が全くない。形の良い唇は頑固そうに引き結ばれ、正座した足元に置かれた刀の柄はぼろぼろだった。


「えっと、こんにちは……」


 恐る恐るそう声をかけると、梓はじろりと新菜を見上げ、一度だけ瞬きした。なんだかどきどきして、新菜はごくりとつばを飲み込む。


「……名前は、なんていうのですか?」


 少しの沈黙が続いた後、梓が舌を噛みそうな顔で、たどたどしい敬語でそう言った。


「僕の名前は菅野新菜、です」

「わかな?」

「そう。男なのに変な名前だよね……」


 えへへ、と力なく笑うと、梓はきょとんと首を傾げた。


「変、じゃない」


 わかな、わかな、梓は口の中で何度も繰り返す。そして彼女やがて力強くうなずいた。梓が深く考え込んでいるように見えて、新菜はそんなつもりじゃなかったと気まずくなる。口を。口を開きかけたその瞬間、新菜は言葉を大きく飲み込んだ。梓の、きつく結ばれていた唇がほんの少しだけ柔らかい形を成したのだ。


「変じゃないと思う。いい名前」


 人と話すことにあまり慣れていないのか、抑揚のない平坦な声音だった。新菜は自分の名前が嫌いだった。兄は虎之助とらのすけなんて、とてもかっこいい名前を付けてもらっているのに。どうして自分は女の子みたいな名前なのだろう。近所の仲間たちからは女みたいだと笑われるし、自分でもそう思う。悔しくて悔しくて、どうしてこんな名前なのだとこっそり泣いたことだってあった。


 頬が熱かった。梓が笑ったことが、自分でも意外なほどうれしかったのだ。


「君って、ちゃんと笑うんだね」

「……笑わないと思ったのですか?」

「うん。ごめん、笑わないのかなって……思ってた。でも笑った顔の方が好きだな」


 自分で言っておきながら急に照れて頬をかくと、梓は目を丸くした後両手を持ち上げて自分の頬を軽くつねった。


「私、ちゃんと笑います」

「え、無理に笑わなくてもいいよ」

「ご主人様が笑った顔が好きなら笑います」


 ご主人様、と急に呼ばれて一瞬思考が停止する。それを読んだように、梓が口を開いた。


「ご主人様です。梓はこれから、新菜様のものです」


 不思議な気持ちだった。梓は自分のことを「もの」と言った。それだけでなぜか息が苦しくなる。ものなんかじゃない、と言おうとしたけれど言葉が詰まってうまく言えなかった。しばらく口を開けたり閉じたりした後、やっと出てきた言葉はつたないものだった。


「――ありがとう」


 もどかしくなったが、梓はきりりとした表情を崩さず新菜に深く頭を下げた。前についた梓の手は心配になるほど細くて白かった。


 

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