あばたもえくぼ
珠の母親は、若い頃に患った病を色濃く残した相貌をしていた。皮膚が浅黒く凝り膿んだ跡がポツポツと残っていた。デコボコの顔はキンカンみたいだ。薄暗い部屋の隅で着物を繕っている母を見て、不気味なものだと珠は思った。
昔々の父母はそれはそれは苦労したらしい。主家が落ちて一族は離散し、その日の糧にも事欠く有り様だった。母はその髪を切って売ったこともあるそうな。そういった苦労話を、事あるごとに母や叔父達が珠を膝に乗せて語るので、聞き飽きてすっかり嫌気が差していた。
牢人時代の父親はいつも西に東に駆けずり回っていた。やっと仕える主も定まって、叡山の焼き討ちで功を認められ、城を持った。琵琶湖のほとりの壮麗な城だ。珠は天守に登り、キラキラと湖面に写る城を眺めるのが好きだった。新築の木の香りがする。父親の建てたこの坂本城は一番のお城だ。見たことはないが稲葉山のお城よりも立派だと珠が力説すると、父は淋しげに微笑んだ。城を持って落ち着いて、珠の相手をしてくれる時間も少しは増えるかと期待していたら、いよいよ父は忙しくなった。それだけ主君の信が厚いのだ。
「珠、珠、ここにいたのか。危ないから降りておいで」
「父様!」
苦労話の類を一切しないので、珠は父親が一等好きだった。
「嫌ぁよ。父様がここまでくればいいんだわ」
良く晴れて素晴らしい見晴らしなのだ。
「珠、せっかくお前に土産を持ってきたというに」
「なぁに?」
「源氏の葵」
「まあ! 珠は定家が良かったわ」
欄干から飛び降りて父に抱き付く。
「定家を読むにも源氏は要るよ」
父は珠をしっかりと抱き上げて窓の側まで寄ってくれた。しがみつく珠に額を寄せて父は問うた。
「珠は長恨歌は読むかい?」
「唐歌よ? 珠が習ってもいいの?」
「興味があるんだろ? 珠がしたいことは何でもしたらいいよ」
「ありがとう! 父様大好き!」
首筋に顔を埋めると、父の匂いがした。珠の大好きな匂いだ。
「ねえ、父様?」
「なんだ?」
「父様は何故母様と結婚したの?」
珠は日頃の疑問を父に訊ねてみることにした。
「ご縁があったからだよ」
「父様は母様の妹と結婚するはずだったって珠は聞いたの」
「誰がそんなことを。そもそも、私が婚約したのは煕子の妹君ではなく最初から煕子だよ」
「妻木のお祖父様よ。婚約している間、母様が病気に罹ったから、叔母様と結婚させようと思ったのに、父様が断ったんですって」
本当?
「全く、あの人はこんな小さな子になんて話をしているんだか。いいか、珠。私が約束を交わしたのは、最初からお前の母様なんだ」
「父様は何故母様と結婚したの?」
珠は首を傾げる。納得しない珠に、父は困ったように少し眉を寄せた。そして、落ち着きなく周囲の人気を窺って、珠の耳に口を寄せた。
「ここだけの話、一目惚れだったんだ。煕子は可愛いらしくて綺麗で、煕子じゃなきゃ嫌だったんだよ」
「ウソ! 母様は全然きれいじゃないわ?」
お顔がボコボコなのよ?
「珠、口を慎みなさい」
珍しく父が怒っている。そしてそれ以上に父を悲しませてしまった。珠の小さな胸はいっぱいになってしまった。
「……ごめんなさい」
「いや、いいんだ」
父の顔が見られなくて胸元に埋めて震えながら謝った珠の頭を、優しく撫でながら父は許してくれた。
「顔で選んだのかと怒られそうだから、煕子には黙っておいてくれるね? 本当に美人だったんだ。疱瘡なんかで煕子の美しさは損なわれはしないよ。少しぐらいあばたもあった方が愛嬌が増すじゃないか。年を経て、ますます煕子は美しい。私は煕子じゃなきゃ嫌だったんだ」
「珠はのろけられているの?」
「そうだよ」
あの堅物の父がどんな表情をして語っているのかと思って頭を上げようとしても、ぐっと胸元に押し付けられた。恥ずかしいらしい。
「珠の母様は一番の美人?」
そう訊いてみたら、父の動きと息がぎっと詰まった。触れてはならない質問だったらしい。
「珠の目鼻立ちは煕子によく似ているね。珠は私の一番のお姫様だよ」
頬を包み込んで慈しむように撫でながら、眩しいものを見るように目を細めて父はそう言った。父の手のひらはゴツゴツとしている。誤魔化しや照れ隠しの為のおべっかかもしれないが、そこにはひとかけらの嘘はなかった。
真っ直ぐに父の顔を見上げる。含羞に耳がほのかに染まっていた。一国一城の主がこんな愛らしくていいのかしらん。
「父様は母様が好きなのね」
「そうだよ」
母が少し患っただけでうろたえて、寺に祈願文を収めるぐらいだ。
「珠も母様が大好きよ」
そう言うと、父は嬉しそうに微笑んだ。大好きな父が笑ってくれたので、珠は満足だ。珠の母は穏やかで聡くて芯のある人だった。心の美しさで母は父に選ばれたと陰で噂されていた。父の真相は違うようだったが。
心底、父に好かれている母が、珠は羨ましかった。
細川さんとこのお珠ちゃん なばな @nbnaaa
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