後編


「夏休みなのに、友達とかと遊びに行かなくて大丈夫?」


 余計としか言えない心配を母は言葉にして僕のことを見つめていた。確か昼食時のことだ。


 いつも家にこもってばかり、そのうえ宿題をすることもなく、テレビの前でひたすらゲームをしていたのだ。母がそんな僕を心配するのも無理はないと思う。


 ちょうど今日遊びに行こうと思ってた、と僕は自然と思いついた嘘を返して、それから無計画に外へと出ていった。適当に用意したいつもの服と、ちょっとだけしか詰まっていない財布を抱えて。


 冷房に慣れてしまった身体を日射による熱で温めながら、思いつくままにただ歩く。


 最初はスーパーや百貨店などに寄ったりしたけれど、だんだんと冷やかしていることを理解したらしい店員による大人の視線が怖くなって、僕はその場を離れていった。


 そうしてたどり着いたのが巻貝公園だった。


 スーパーの後ろにぽつりと配置されている公園。そんな公園の中、学校の昼休みに見たこともある連中が鬼ごっこをしているのを見かけた。


 それを見て、そっと距離を置くように足の向きを変えたけれど、それでもひと際目をひかれるものがあった。それが件の朱い巻貝である。


 それぞれに存在する遊具の中で、孤立をするように存在している滑り台。確かな存在感があるのに、それを忌避するように子供たちは誰一人として遊ぶことはない。そんな存在に似ていると無意識下で思ったのかもしれない。僕は巻貝に近づいていった。


 周囲にいる子供たちの視線を掻い潜って、静かに足を運んでいく。砂利で音を立てないように意識をしながら、僕はさながら秘密基地を見つけた気分で中に侵入していった。


 ヒロと出会ったのはその時だった。


 孤立をしている巻貝の中、さらに人と関わることを選択しない姿。そこには孤独だけが敷き詰められていた。


 特に首輪もそれらしい飾りもないただの黒猫。僕は、やあ、と味気のない言葉だけを呟いて、猫が座っている場所とは対角線に位置してから座る。


 僕に危険がないことを悟ったらしいヒロは、そのまま僕がそこにいることを許してくれた。別に寄り添うでもなく、ただ居座るだけの僕を許容してくれた。


 僕はそれが嬉しかったことを覚えている。





 その日から毎日公園のほうへと遊びに行った。


 家族にそれとなく猫のことについて話してみたけれど、飼うという段取りに行きつかなかった。取り付く島もなかったから、諦めて巻貝の中でヒロとの時間を過ごしていた。


 毎日、母から小遣いをもらって、彼のご飯を買ってあげた。小遣いをもらうときの理由は、友達と遊ぶときに必要だという嘘で誤魔化した。その友達はいい子なの? と訝る様子で見つめてくる母に、僕はいい子だよ、とだけ返した。


 その言葉自体にきっと嘘はなかったと思う。





「今日は出かけちゃダメよ」と母は言った。


 その言葉の裏のほうで流れていたのはニュースで、台風が北上していることをアナウンサーが告げていた。証拠と言わんばかりに、母はテレビのニュースをちらつかせていたので、僕はそれに頷くことしかできなかった。


 窓から覗ける世界、昼間だというのに曇天に隠れて世界が暗い様子。だんだんと風が強くなり始めて雨戸が震えるように揺れる。屋根を打ち付ける雨の音を聞いて、僕はだんだんと不安になっていった。


 ヒロは大丈夫だろうか。


 不安な気持ちのままでは、ゲームというものにも集中できなくなった。ごろごろと腹の音のように、空からは雷の轟音が伝ってきていた。それがなおさらヒロへ心配という感情を募らせていく。


 僕は、家から飛び出していった。





 玄関から出てしまえば母に飛び出したことがばれてしまうから、窓から僕は出ていった。靴を用意したい気持ちはあったけれど、そんな余裕はなくて、裸足のままで公園の方へと走り出していった。


 足に響くアスファルトの凸凹が痛かった。とげに刺されるような感覚だと思った。慣れない感覚を無視しながら僕は走っていく。


 数分もしないうちにいつもの場所へとたどり着いた。その頃には打ち付ける雨も強くなっていった。斜めに降り注ぐ雨の角度に風の強さを改めて認識した。


 僕はそんな雨から逃げ出すように巻貝の中に入っていく。より雨の音が強くなったように感じた。


 そこにはいつも通りヒロがいた。普段となんら変わらない様子で、ヒロはそこにたたずんでいた。


「ごめん、今日はご飯ないんだ」


 僕は彼にそう言った。慌てて飛び出したものだから、小遣いをもらうことはできず、彼のご飯のことを考える余裕もなかった。


 ヒロは何も答えなかった。喉を鳴らすこともせず、ただ僕の目を見つめていた。僕は静かに見つめ返して、ただぼんやりと巻貝の中で時間を過ごすことにした。


 怒号のように雨は降り注いでいった。角度を変えた雨が、巻貝の穴を的確について地面を濡らしていく。その雨から逃れるように、ヒロは僕のほうへと移動してくる。


「大丈夫だよ」と僕は強がってみた。


 何が大丈夫なのかは僕自身わからなかったけれど、言葉に吐けばなんとかなるという気持ちがあった。そして、ヒロはその言葉に納得したように、僕の体に寄りかかってきた。


 その温もりが伝わってくる。僕はそれに安心をした。その安心が伝わるように、いつもはしないけれど彼の背中を撫でるようにした。


 そうして、ヒロと時間を過ごしていった。


 



 どれだけの時間を過ごしていたのかはわからない。


 ずっと、一人と一匹だけの空間。


 その時間が、とても心地よかった。


 だから、感覚としても時間は早く過ぎていったのかもしれない。


 だんだんと雨は軽くなっていき、小粒のようなものになる。風の勢いは消えて、斜めに雨が降り注ぐことはない。


 そんな静かになった巻貝の中で、ふと公園の外を見上げてみた。街灯が光っていて、夜になったという実感だけが湧いた。


 家に帰れば怒られるのだろう。帰りたくない気持ちと、このままヒロを独りにさせることが心配だった。


 結局、そのまま巻貝の中でずっと過ごした。朝が来るまで、静かに。


 その日、僕はきっとヒロという黒猫を飼うことができたのだと思う。





 いつの間にか眠っていたらしく、目を覚ました時には夏を思わせるような空気感の中に僕はいた。


 隣にあったはずの温もりは消えていた。そこにヒロはいなかった。


 ヒロの名前を呼んだけれど、それは空しくしか響かなかった。鳴き声も物音も響かなかった。


 ヒロは、どこにもいなかった。


 どこにもいなかった。





 顛末といえるものはない。


 僕が家を抜け出したことは少しだけ大ごとになって、家に帰れば母が鬼のような形相で僕を見つめていたことや、僕を必死に捜索していたらしい父が、これまた悪魔のような表情で怒鳴りつけたことは印象に残っている。


 それから母に外出禁止令が出されてしまった。そもそも友達もいないのに出かけていたことがばれてしまった。そのせいで今までもらっていたお小遣いについても怒られて、どうやってもヒロに会えない環境が整ってしまった。





 夏休みが終わり学校が始まった。


 太陽はだんだんと遠くなっていき、夏という季節から秋が始まろうとしていた。


 いつもは孤独でしかない僕に、いつの間にか人が集まっていた。


 台風の中で家を飛び出したことが、彼らにとっては伝説のように聞こえたらしい。彼らにはヒーローのような扱いを受けた。


 そこから繋がる友達のような間柄も生まれた。ようやく友達という関係性を作ることができた喜びはあったけれど、それよりも気にかかることがあって、どうしても喜びよりも不安が勝ってしまった。





 帰り道、僕は巻貝公園に立ち寄ってみた。


 その日まで外出を禁止されていた僕は、不安な気持ちのままに赴いた。


 もしかしたら、いつも通りにヒロはいるのかもしれない、そう考えて巻貝の中を覗いてみた。


 だが、そこにヒロはいなかった。


 ヒロは、どこにもいなかった。




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その野良猫はどこに消えたか @Hisagi1037

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