その野良猫はどこに消えたか

前編


 一日だけ猫を飼ったときのことを思い出す。


 夏から秋という転換の時期、その境目の中。夕焼けの彩が深くなるような、そして暑さを忘れるように太陽が遠くなり雨風が強くなるような、そんな時期を迎えると、どうしても頭の片隅に過ってくる。


 一日だけ、という単位表現だけで、飼った、という言葉を使うのは自分自身でもどうなのか、と思う部分ではあるけれど、それでもあの時の僕は、一日だけ猫を飼ったのだ。


 だから、適当につらつらと書いていこうと思う。


 文章に起こしておけば、未来の自分が忘れたときに思い出すことができるだろうし、もし忘れていなかったとしても、見るたびに物思いにふけることができると思うのだ。


 正直、片隅にしか存在できないこの思い出を、忘れることはしたくないのだけど。





 近所にある巻貝公園は、その名を冠している通りというべきか、その広場の中央に巻き貝を模した遊具が設置されている。昔からこの地域に住んでいる父から話を聞けば、もともとの色は白だったんだ、ということを何度も聞かされるけれど、そんな言葉を本当だとは思えないほどに、その巻き貝は使い古してしまった錆びの朱色のように変貌してしまっている。


 その巻き貝とはもう言えない朱色の巨大物は、滑り台としての機能を発揮してはいるものの、その遊具を使おうとする子供はそんなにいない。理由については単純で、色が毒物っぽく見えてしまうから。誰かに至っては、アレに触れてしまえば死んでしまう、というデマを流して遊んでいた。


 そんなデマはデマとしてしか流れていないし、それをまともに受け取るやつもいないけれど、それでもその雰囲気というか、影響力のようなものは強かったらしい。巻き貝に触れてしまえば触った当人が病原菌を持っているかのように扱われてしまう。それは子供特有のいたずらでしかないものの、それが所以してか、滑り台の巻き貝で遊ぶ子供は本当にいなかった。





 巻き貝を模した滑り台には大きな穴が二つ空いている。ひとつは窓のように、もうひとつは出入り口のように設置されており、窓からは外の日差しが一筋の熱線として巻き貝の中に届いていた。


「今日も来たよ、ヒロ」と僕は声をかけた。その声は虚しく感じるほどに大きく響いて、耳へとすぐに音が帰ってくる。


 広いわけでもない空間に、ぼうっと呼びかけた言葉は反射する。その声に反応する人間は、誰もいなかった。


 そんなくぐもっている空間の中、日射から逃れるためなのか、入口や窓という空いた穴から逸れるように、滑り台の傾斜となっている場所に身をかがめている生き物がいた。


 一匹の野良猫である。


 毛並みは黒色で、それ以外の特徴は特に見つからない、いたって普通としか言いようのない猫。少しばかりの生臭さや、もしくは獣っぽい匂いと表現するべきなのか、そんな鼻に馴染みのない香りに包まれているのが印象的な、ただの黒猫。


 僕はそんな黒猫に、やあ、とだけ再び挨拶をして、そこに来る前に買っておいた猫向けの缶詰をポケットから取り出していく。体温や外の気温によって温くなってしまった缶の感触を確かめながら、少し時間をかけながらゆっくりとプルを引き上げていく。それに対してにじり寄るように近づいてくる黒猫を、僕はほっこりとした気持ちを抱きながら、そうしてその缶詰を彼の前に置いた。


 ──本来、こんな巻き貝の中に入ろうとする子供なんて、あまりいないのだろう。


 だいたい周囲にいる子供たちに関していえば、だいたいが人間関係の基礎となるものを形成して、大人になるための道筋を無自覚に紡いでいく。周囲がそんな関係をはぐくむ中、はぐれてしまったように友達がいない僕は、周りの暗黙の了解さえも気づくことも気にすることもなく、巻き貝とは言えないかもしれないその空間を気に入りつつあった。


 誰もが忌避するような場所、誰かが来ることはない空間。絶対的に秘匿とされている場所ではないものの、そんな秘密基地めいた場所を、自分だけが知っている優越感。そんな感情のまま、僕は孤独である寂しさを紛らわせるように近づいてきた黒猫の背中を撫でるようにしていく。


 彼には名前がある。正確に言えば、名前がある、というよりかは僕が彼に名前を付けただけだった。


 拾われない猫だから、ヒロ。今振り返ってみても安易な名前付けでしかない。もう少しちゃんとした名前をつけられなかったものか、と後悔してしまう自分がいるけれど、子供の名づけなんてそんなものでしかなくて、僕はそんなヒロと一緒に過ごすことを、その時期は楽しみにしながら生活していた。

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